蛙と象

【 第六話:暗い空 】

「あれって、も、も、もしかして、……魔女、なの……?」
 カエルが思わず身を縮こまらせ、王子の手を握る力を更に強めた、その瞬間のことだ。
 唐突に、二人の足下から床が消えた。床が消えたというよりも、真っ暗な穴へ放り込まれたといった方が、より正確かもしれない。
「き、ゃっ……」
 咄嗟のことで、叫び声すら出やしない。それでもカエルは心の中で絶叫しながら、王子の手だけは放すまいと必死になった。
「しまった、思ったよりもすぐに来た」
 場に似つかわしくない落ち着いた声で、王子がそんなことを言う。カエルは涙目になりながら、それでも王子にこう問うた。
「や、やっぱり、あれは魔女なの? 王子、まさか、もう一つやっておきたい事って……!」
 やっとの思いで言ったのに、王子はにやりと笑うだけだ。周りは真っ暗闇なのに、その笑みだけがよく見えて、なにやらやけに腹立たしい。
 生暖かい強風が、落下してゆく二人に向かって吹き付けた。カエルは今度こそ短い叫び声を上げたが、王子は慌てる様子もない。それどころか、彼はカエルに向かって、こんな事まで言いつけたのだ。
「カエル、右手をはなして!」
 言われて、カエルは息を呑む。殺生な、と叫びたかった。王子と両手を繋いでいたからこそ、この緊急事態にも、なんとか我を失わずに済んだというのに。
「む、むりです」
「はやく!」
 王子の声は真剣だ。カエルはぎゅっと目を瞑ると、やっとの思いで右手を放す。
 バランスを崩し風に吹かれる自分の体が、まるで紙切れかのように、ひらりと宙を舞っていく。
 ひょいっと、風に持ち上げられたような気がした。
 すると次の瞬間、王子の手を掴んだままの左手が、がくんと強く引っ張られる。恐る恐る目を開いてみれば、まずは得意げな王子の顔が視界に飛び込んできた。
 そうしてよくよく自らの置かれた状況を知り、カエルは言葉を失った。
 カエルと片手を繋いだままの王子は、自由になった右の手で、荒ぶる風に掴まっていた。そう、その手は確かに、目には見えない風そのものを、握りしめて捕らえていたのだ。風はそのまま勢いをつけ、まるで二人を導くように、『象の国』の上空へと吹き上げる。見れば眼下に広がる町中では、依然、お祭り騒ぎが続いているようだ。
(まったく、人の気も知らないで――!)
 カエルがどんなに悪態をつこうが、町の人間達はお構いなしだ。しかしそうこうしているうちに、風に運ばれた二人はそのまま、象の国の城門の上へ降り立った。
「お、王子。今の風も、魔女の仕業なんですか?」
 心臓が、早鐘のように打っている。
「ううん、おとし穴は魔女のシワザだけど、今の風はちがう。あれは、王子たちをたすけてくれたんだ」
 それにしては、随分乱暴な風であったけど。そんな事を考えながら空を振り仰ぎ、カエルはその場を後ずさる。
 町の上空に、一つ不穏な影が見えた。三角帽子の人影だ。それが優雅に空を舞い、二人に向かって笑いかける。
「おやぁ。流石に、落とし穴程度じゃ効かないかい」
 老婆の声が、空に響いた。そうして魔女が杖を振りあげると、象の国の空に黒々とした、分厚い雨雲が広がっていく。
(魔女が、魔法をかけたんだわ!)
 悲鳴を上げたのは、今度はカエルだけではなかった。空の様子が変わったことに気づいた町の人々も、魔女の姿を見つけたらしい。
 魔女だ、魔女の襲撃だ、と互いに声を掛け合いながら、城下の人々が散り散りになって逃げていく。城門の上のカエルはそんな様子を恐々とした思いで見送って、そうしてその傍らに立つ、王子の方へと視線を戻した。見れば王子の表情も、緊張にいささか青ざめている。
「象の国の王子様。まさかこのあたしに立ち向かおうって言うんじゃないね? 知っているだろう。あたしはこのホウキを使って、いくらでも空を飛び回る事ができるんだ。地を進むしかないお前に、一体何ができると言うんだい?」
 挑発的な、魔女の声。聞いてカエルは首をすくめたが、王子は臆する様子もなく、魔女に向かってこう言った。
「王子は魔法のホウキなんて持っていないけど、でも、おまえに追いつくのなんかカンタンだ!」
「おや。だったらやってごらん」
 魔女がそう言い、飛んでいく。どうやらそうやってぐるぐると町の上空を飛びながら、魔女は雨雲を更に分厚く、大きくしているらしい。
「王子、一体どうするの?」
「さっきとおんなじだ。風をつかまえて、飛んでいこう」
 風を捕まえて、飛ぶ。そうか、先ほど落とし穴を使われたときも、王子はおそらくそうしたのだ。しかしカエルはそれを聞き、ほんの少し、王子の手伝いをすると請け負ったことを後悔した。正直なところ、空を飛ぶのは、先ほどの一回ですっかり懲りてしまっていたのだ。
(だって、あんまり目が回るから)
 だがこうなっては、そう我が儘も言ってはいられない。思い切ったカエルが頷くと、王子はにやりと笑って見せた。そうしてすぐさま辺りを見回して、手頃な風を二つ、捕まえる。
「カエル、行こう!」
 王子はそれにぶらさがり、カエルはそれに乗りかかる。そうして二人は地面を蹴り、同時に空へと飛び立った。
 そのままぐんぐん進んでいくと、すぐに魔女へと追いついた。すると魔女は楽しげに、くるりとその場で宙返りする。
「見かけによらず、意外とやるね。だけど、これならどうだい?」
 そう言い、魔女が杖を振る。そうして杖の先から飛び出してきたものを見て、二人は同時に息を呑んだ。
 魔女の杖から現れたのは、複数の黒い影だった。影の形は様々で、人間のような四肢を持ったものもあれば、犬猫のように四つ足のものもある。それらが大なり小なり形を移ろわせながら、空を這うように蠢いている。
(まるで、お化けみたい……)
 そう考えて、カエルははっと気がついた。
 お化け。確かカエルの身近なところに、その手のものが一切苦手な人間がいやしなかっただろうかと、急に不安になったのだ。
 そうして顔をしかめたまま、恐る恐る、王子の顔を覗き込む。同時にカエルはその表情に、乾いた笑みを貼り付けた。
 覗き込んだ王子の顔は蒼白で、その狼狽ぶりすらも、一目ではっきりうかがえるほどのものであった。先ほどまでの無邪気で怖いもの知らずな様子とは、打って変わった雰囲気だ。王子は今にも逃げ出したいといった表情で、じっと、影の事を凝視していた。
「おや。象の国の王子様は、こういう相手が苦手と見える」
 魔女がそう言い、高らかに笑う。そうして魔女が再び雨雲づくりに向かうのを見て、カエルは慌てて、王子に言った。
「王子、しっかりしてください! 魔女を止めなきゃ、象の国が、真っ暗闇になってしまいます!」
 しかし王子は辺りを取り囲む影達を凝視したまま、うんともすんとも答えない。
「王子、――王子ったら!」
 なんとか王子に近づこうと、慣れない風を操ってみる。しかしなかなかうまくはいかずに、もどかしい思いをするばかりだ。更には頭上から聞こえてきた言葉に、カエルも思わず肩を震わせた。
「小娘、余計なことをするんじゃないよ。象の国の王子様は、そうやって私の作った影達と、いつまでも睨めっこしていればいいんだからね」
 同時に、魔女の操る強い風。カエルは思わず目を細めて、魔女の方へと顔を向ける。
「そ、そういうわけにはいかないわ! 王子は絶対、魔女なんかに負けないんだから!」
 魔女に向かって、そう言った。
 言った。確かに言ってやった。しかしそうしてカエルが生唾を飲み込んだ、次の瞬間。
 ひときわ強く、猛々しい、大きな大きな風が吹いた。ごうっと鋭い風の音が、カエルの耳を突き抜けていく。
「――!」
 思わず両目を堅く瞑った。そうして慌てて自分が元から乗っていた風にしがみつこうとして、しかし、カエルは、小さな叫び声を上げる。上手く風をつかめずに、魔女の大風に遊ばれるまま、
 空へと投げ出されてしまったのだ。

Thor All Rights Reserved.