蛙と象

【 第五話:サーカス 】

(象太ったら、どうしてこんなに次から次に、不思議なショーを思いつくのかな)
 薄ぼんやりとした意識でそう考えて、そのままごろりと横になる。そうして私は、大きく一度、あくびした。
 相変わらずの強風が、部屋の中に吹き荒れていた。
 机の上から落ちたのだろう。仕事で使う営業資料が、ぺらりと顔の上に落ちてくる。ああ、そういえば、クリップでまとめておくのを忘れていた。順番通りにまとめ直さなくては。――だが、今はわざわざ起き上がり、そんなことをしようという気になどなれなかった。
 あとでやれば、いいではないか。今の私は『西森楓』というしがないOLではなく、象の国の王子のお付き、『カエル』なのだから。
 一応紙を脇に避け、私は再び目を閉じた。さあ、ショーの続きを見なくては。
 
 * * *
 
 どの演目も、息を呑むものばかりであった。おどけたピエロの火鼠投げに、氷を吐き出す獅子の舞。はらはらするような演出には度々驚かされ、二人は肩を震わせたり、息を呑んだりしながら、それでも舞台を見守った。
 カエルに関して言うならば、見入っていた、と表現した方が、あるいは正しいかもしれない。それほど夢中になっていたのだ。その舞台で夢のようなショーが行われる度、カエルの心はそれらへの賞賛や、感嘆の思いでいっぱいになった。
 まるで子供の頃に戻ったようだと、そんなことを考える。
 何にでも夢中になれた頃。物語を読む度に、その世界へ入り込めた頃。今頃になって、カエルはふと、気づいたのだ。
 未知の世界へ導かれる、そんな物語に憧れていた。いつか自分のもとへも、そんな世界からのお招きがあるのではないだろうかと、ずっと心待ちにしてもいた。
 けれど。
「ねえ、王子。北の人たちのショーは、本当に素晴らしいものばかりですね。王様達が帰ってきたら、彼らのショーがどんなだったか、教えてあげなきゃいけませんね」
 言って、傍らへと視線を移す。そうしてカエルは息を呑んだ。
 そこに居るはずだと思っていた王子の姿が、すっかり消えて無くなっていたのだ。
(……えっ?)
 慌てて周囲を見回すが、やはり王子の姿はない。カエルの頬を、冷や汗がつたう。
「お、王子……?」
 居ない。いや、そんなはずはない。そうこうしているうちにも舞台では、次の演目が始まっている。
 誰かが指揮を執り、景色を語っていなくては、『象の国』では何も起こらない。今、この舞台を操っているのはカエルではないのだから、もう一人の『象の国』の主である王子が、これらの景色をカエルに向かって語っているはずなのに。
(あっ……、そうだ。目を開けたらいいんだわ)
 『象の国』で王子が見つからなくても、カエルが目を開けばそこには、もう一人の王子が、――『象太』がいるはずだ。しかしそこまで考えて、カエルは思わず息を呑む。
(『目を開ける』って……どうすればいいんだったっけ)
 考えて、思わずその場に立ちすくむ。その一瞬、周囲の熱気も歓声も、カエルの周りにある何もかも全てが、壁一枚隔てたかのように遠のいた。
(そもそも私、ここで何をしてたんだっけ。王子が祭を見たいと言うから、それに付き添ってここまで来て……でも、その前は? 私、一体何をしてた?)
 まるでつま先から順に冷たい水にでも浸っていくかのように、不安がカエルの心を襲う。
 何故こんなにも、心許なく思うのだろう。何故こんなにも、心が不安にざわつくのだろう。鳥肌の立った両腕を抱きしめるようにして、しかしカエルは、すがるように辺りを見回した。
 探さなくては。行かなくては。この国に、一人で居てはいけないのだから。
(王子、どこ)
 不安になる。いてもたっても居られない。
 早く、早く見つけなくては。
「――カエル!」
 背後から声をかけられて、カエルはびくりと肩を震わせた。見ればカエルのすぐ後ろに、先ほどと少しも変わらぬ様子の王子が佇んでいる。
「王子……」
 思わず安堵の溜息が漏れた。そうしてカエルは情けない顔を隠しもせず、今にもその場にへたり込みたいような気持ちで、王子の肩へ両手を乗せる。何か違和感を覚えはしたが、今のカエルには、それもどうでもいいことだ。
「王子。一体、どこへ行ってたんですか」
「べつに、どこへも行ってないぞ。王子はずっとここにいた」
「嘘つき。……私、すごく心配したんですよ」
 不満げな声でカエルが言うと、王子は困ったように眉根を寄せて、それから「ごめん」とまず言った。そうして、こんなふうに続けてみせる。
「じつは、ちょっとだけ準備をしてたんだ。長くなりそうだったから」
「準備? 長くなるって、一体、何の話ですか?」
 問えば、王子は悪戯っぽい笑顔でにやりと笑い、人差し指を自らの口の前へ立ててみせた。そうして内緒話でもほのめかすかのように、「しぃっ」とカエルに囁いてみせる。
 その顔が思ったよりも近くにあることに、カエルはその時気がついた。
(王子って、こんなに背が高かったっけ)
 見ればカエルの目線と同じ高さで、王子がにやにや笑っている。
 なにやらおかしな予感がする。カエルは咄嗟に周囲を見回して、思わず言葉を飲み込んだ。
 気づけば王子以外の周囲の人々全ての頭が、カエルの視点からは随分遠く離れていた。見上げなければ、その表情すらうかがえないのだ。
(王子が大きくなったんじゃない。……私が、子供になっちゃったんだわ!)
 何故、何故、と心が問うた。しかしカエルがその事を、深く考えるような余裕はない。間をおかず、王子がこんなことを言ったからだ。
「カエル。王子は、カエルが王子をはげますために、この『象の国』へ連れてきてくれたんだってこと、よくわかってる。いっしょに町を見てまわったり、このサーカスに来たりして、王子はすごく楽しかった。だけどせっかくのチャンスだから、もう一つ、この国でやっておきたいことがあるんだ」
 真面目な様子でそう言われて、カエルはわけもわからぬまま、ただこくりと小さく頷いた。どうやらそれを促しの意味だと受け取ったようで、王子はカエルにこう続ける。
「それで、もしかしたらちょっと、こわい思いをさせるかもしれないんだけど……。でも、カエルにも手伝ってほしいんだ。いいかな?」
 そう問うた、王子の顔は真剣であった。
 その瞳は真っ直ぐに、カエルの目を覗き込んでいる。
(ああ、――王子もきっと、その『何か』が怖いんだ)
 王子の指がかすかに震えているのに気づいて、カエルはそっと、その手に自分の手のひらを重ねてみた。そうすることで少しでも、この王子の気持ちが和らぐのなら、お安いご用だと思ったからだ。
 幼いけれど、優しい王子。その表情はまだまだあどけないけれど、だからこそ、自分の望むことに対してまっすぐだ。
(世間体とか、常識とか、そんなことばかり考える大人とは大違い)
 けれどそこまで考えて、カエルは思わずはっとした。不意に自らの足下に落ちた、小さな二つの影法師の事を思い出したからである。
 ああ、そうだ。今は。
(今、この国にいる間は、――『象の国』では、私も王子と同じ、子供なんだわ)
 何にでも夢中になれた頃。周囲の目も、常識も何も関係なく、自らの信じるものに対して誠実でいられた頃。
 物語を読むだけで、その物語の中へ自由に入り込めた頃。そんな子供に、戻っているのだ。
 そう考えると、カエルの心に勇気が湧いた。まるで心の奥底に、小さな灯でもともったようだ。
「カエル」
 王子が呼んだ。カエルは笑った。
「王子、私も手伝います。少しくらい怖くても、私、きっとがんばります」
 言葉がすらすら溢れ出る。そうしてカエルが王子の両手を握りしめた、その時だ。
 唐突に場が静まっていくのを感じて、二人は同時に辺りを見回した。先ほどまではあんなに賑やかだったのに、一体何だというのだろう。
 そんな二人の疑問に答えるように、人々が無言で動き出す。彼らの目指す方を見て、カエルは小さく息を呑んだ。
 気づけば王子のすぐ前に、細い道ができていた。まるで王子と舞台とを結ぶかのように、人々がそこを避けたのだ。
 両側を人に挟まれた、それは奇妙な道だった。そうしてその道の先を目で追って、カエルは小さく、息を呑む。
「王子。あの、……今、舞台にいるのって」
 いつの間にやら舞台からは、華やかな装飾も、愛想を振りまく団員達も、みんな姿を消していた。そうして代わりに残っていたのは、たった一人の老婆である。黒い大きな三角帽子に、節くれ立った枝のような指、骨張った顔。ホウキにまたがるその姿を見れば、その人物が一体何者であるのかは、カエルにだってすぐ知れた。
――何かが足りない気がするんだ。
 ああ、そうだ。この王子は『象の国』へ来てすぐに、そんなことを言っていた。そしてカエルは足りないものがなんなのか、この王子が何を求めているのやら、わかっていたはずなのに。
「おや。手っ取り早くこの国を奪い取るために、わざわざサーカスに紛れてまで国に潜り込んだっていうのに。……象の国の王子様、おまえはどうして、こんなところに居るんだい? ただサーカスを楽しみに来たの? それとも」
 老婆の瞳が、ぎらりと光る。
「それともあたしを捕らえるために、そこで待ち伏せしていたのかい?」

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