蛙と象

【 第七話:カエルとゾウ 】

「か、カエル!」
 焦りを含んだ王子の声。風を掴み損なったカエルの手が、むなしく空を掻いている。
 ああ、落ちる。
 落ちる。真っ逆さまに。
(このまま落ちたら、死んじゃうのかしら)
 悠長に、そんなことを考える。
(私ったら、王子を助けるどころか、こんな事になるなんて)
 どうにかしなくては。しかしそうは思うのに、解決策が浮かばない。空から放り出されたのだ。パラシュートでもなければ、無事に地面に降り立つことなど出来ないだろう。王子のように風を掴まえることが出来ないだろうかと必死に手を伸ばしてみても、何もその手を掠めやしない。考えてみれば当然だ。風なんて形のないものを、どうやって掴むつもりでいたのだろう。そう気づいた瞬間、心が焦れて、冷や汗が出た。
 こんな時はどうしたらいい? 例えば飛行機に乗っていて、何かの事故に遭ったとしたら? だが飛行機に乗る度に読み聞かせられる、非常時の対処法を咄嗟に思い返してみても、空に放り出されたときの事などどこにも載っていなかった。
(ああ、でも、違うわ。何でも良いはずよ。王子みたいに、何か子供らしい解決方法を思いついたらそれで良いのよ! 何か、何かあるでしょう、運良く通りかかった自衛隊のヘリコプターがロープを投げてくれるなんて、そんな事じゃなくて……。ああ、これだから大人になるって嫌! なんて頭が固いのかしら!)
 子供のような空想は、得意な方だと思っていた。けれど。
(そうだ、絵本を見たらいいのよ。象の国を作るための参考書。でも、――それは、どこにあるんだったっけ?)
 この期に及んでそんな考えしか浮かばない自分が、情けない。そう思ったら、涙が出た。
 ぽろぽろと零れ出た涙が、太陽の光を反射する。カエルの体は風より速く、ぐんぐん地面に近づいていく。
「カエル、……だめだ! そのまま落ちたら、」
 王子の声が聞こえている。ひときわ大きな涙の粒が、不意にカエルの顔を映す。その水滴に映った自分の顔を見て、カエルは思わず笑ってしまった。
 風に煽られ、水滴が酷く歪んでいる。
 涙で歪んだ自分の顔が、ふにゃりとつぶれて見えていた。左右に離れた目を付けて、耳元まで裂けたその口は、まるで『カエル』そのものだ。
(ああ、そうだわ)
 「カエル、――カエルったら!」王子が必死に叫んでいる。何度もその名を聞く内に、決意がぎゅっと固まった。
(そうよ。今の私は『西森楓』じゃない。象の国の王子のお供。不本意なあだ名ではあったけど、……今の私は、『カエル』じゃないの!)
 「カエル!」声を枯らして王子が呼んだ、
 その瞬間。
 カエルの頬からこぼれた涙が、誰より先に地に着いた。そうしてその小さな水滴は、ぴしゃりと音を立て、跳ねて、
 巨大な水の、クッションに変わる。
 ベッドほどの大きさになった水滴が、弾力を持って、カエルを空へ押し返す。カエルはまるで水草の上を自らの足で軽やかに跳ねるかのように、その上を何度か跳ねて、しまいにすたんと地面に降り立った。両手を軽やかに広げて立つ姿は、まるで大技を決めた体操選手のようではないかと、思わず心中、拍手する。
「カエル!」
 焦りに顔を青くして、追って王子も降りてくる。カエルは呆然としたまま、キラキラ輝く水滴が転がっていくのをじっと見守って、まずは大きく、深呼吸した。
「カエル、ケガはしてないか? 痛いところ、ないか?」
 問われて、首を横に振る。そうしてきょとんとした顔で、王子に向かってこう言った。
「あのね、私、心のどこかで『出来ない』と思っていたの」
 駆け寄ってきた王子が不思議そうに首を傾げたのを見て、カエルは更に、こう続ける。
「風を捕まえて空を飛んだり、雨雲を起こしたり、そういうあんまり不思議なことは、私じゃない他の誰かにしか、できないんだと思っていたのよ。私は空想が好きなただの『読者』で、私が憧れるような物語は、みんな私以外の誰かが線を隔てた向こう側で、――例えばサーカスのステージの上なんかで――起こるものなんだって思ってた」
 「だけど、私にも出来ちゃった」ぽかんとした様子でカエルが言うと、聞いた王子も似たような顔で無言のまま、まずは何度か瞬きをした。
「だって、象の国はそういうところだ」
「そう、頭ではわかってたんだけど。……あのね、人間の価値観って、年を重ねるごとに凝り固まっていくものなの。大人っていうのは子供ほど、柔軟なつくりはしてないのよ」
「今は、カエルもこどもじゃないか」
「そっか。そうね、確かにそうだわ」
 感慨深げにカエルが言うと、王子が小さく吹き出した。
 悪戯っぽい笑い方。その表情はどこからどう見ても五歳の少年のものなのに、なんだかやけに、頼もしく思える。
 しかし思わずカエルが笑い返した、その時だ。
 不意に視界に陰が落ち、慌てて空を振り仰ぐ。見れば魔女の作り出した雨雲が、すっかり空を覆ってしまっている。王子が辺りを見回しても、魔女の姿はどこにもない。
「きっと、魔女は雲の上にいるんだわ」
「王子たちも、魔女をおっていかないと」
 ぱらぱらと雨が降り出した。王子が、ぎゅっと拳を握りしめる。
 その肩がいくらか震えているのを見て、カエルはそっと手を伸ばした。恐らく先程見た影達のことを、思い出しているのだろう。いくら頼もしく見えるとは言え、王子はまだ、たった五歳のお子様なのだ。
 そう思った。だが、しかし、――
――王子様ごっこをしよう、象太。私が必ず象太のことを、『イダイでつよくて優しい』王子様にしてあげる。
「……。……王子ったら、そういえば、もうお化けは大丈夫なんですか?」
 伸ばしかけた手を引っ込めて、にやにやしながらカエルが問うた。すると王子は言葉を詰まらせ、それでも何かを振り払うように首を横へ振ると、まっすぐカエルに向き直る。
 その表情は不安げだが、それでも――いつにも増して、輝いて見えた。
「お化けはイヤだけど、でも――、でも、魔女のことは、王子がたおす」
 言って王子も、にやりと笑う。
 「魔女を止めなきゃ」二人の声が、重なった。
「風が雨にぬれて、つかまえにくいな」
「それじゃ、私のつくった水滴のクッションで行きましょう。あれならきっと、雲の上までひとっ飛びです」
「あのクッションは、楽しそうだと王子も思ってたんだ。……そういえば、カエルはイガイと泣き虫だったんだな」
「そりゃあ私だって、悲しければ泣くし怖ければ震えます。とくに今は、子供なんだし」
 聞いた王子はきょとんとした顔で、「そうなのか」とだけ言った。
 先程のクッションは、まだはじけずにあるだろうか。そんなことを考えて、ふと視線を上げ、カエルは思わず微笑んだ。見ればどこかへ引っ込んでしまったと思っていた町の人々が、そっとこちらの様子をうかがっていたのだ。その中には王子が喧嘩を仲裁した少女達や、捜し物を手伝った商人達の姿もある。
 誰もが皆、王子の無事を祈るように、じっと二人を見守っている。カエルがそっと王子の肩をつつくと、彼もその事に気づいたらしい。
「あの、象の国の王子様!」
 一人の少女がそう言って、おずおずと指で空をさす。
「あの辺りの空は、ほんの少し、雲が薄いようです。あそこからなら、魔女に近づきやすいかもしれません」
「このマントを着ていってください。少しくらいなら、魔法を防げるでしょう」
「王子様、魔女なんかに負けないでください! 私達、一生懸命応援しています!」
 「王子様」「王子様」と、人々の声。声におされるようにして、王子がじっと、空を見る。
「カエル、行こう」
 声をかけられて、カエルは今度こそ、力強く頷いた。
 二人同時に、走り出す。勢い込んで水滴のクッションに乗り、せーので一気に飛び上がる。強い風が吹いていた。雨が二人の頬を濡らす。それでも飛び上がった空を泳げば、わずかにあいた隙間から、雲の上へと飛び込むことが出来そうだ。
「どっちが先につくか、競争しよう!」
「負けませんよ、『カエル』は泳ぐのだって得意なんですからね!」
 声を張り上げる。雨雲の上へ這い上がると、そこには、真っ赤な空が広がっていた。
(夕焼け……ううん、これは朝焼けかしら)
 そんなことを考える。眩しい。しかしカエルの視線は真っ直ぐに、真っ赤な空に一つ漂う、黒い人影へ向いていた。
「魔女! 王子の国で、好きかってにはさせないぞ!」
「おや、お化けが怖い王子様。こんなところまで追ってきて、一体どうするつもりだい?」
 即座にそう笑われて、王子が頬を膨らました。魔女と一緒に、思わずくすりと笑いそうになったカエルは、慌てて口元を手で隠す。こんな顔を王子に見られては、怒られてしまう。しかし王子はずいっと一歩踏み出すと、堂々たる口調でこう言った。
「王子だって、こわいものはこわいけど、……でも、でも、王子は魔女をたおして、『イダイでつよくて優しい』……そういうショウタに、ぜったいなるんだ!」
 ぴしゃりと何か、光が鳴った。雷だろうか。しかしそれを確かめる間もなく、カエルは思わず息を呑む。王子の背後の雲が大きく蠢き、盛り上がり、何かの形をかたどろうとしているのがわかったからだ。
「王子!」
 大きな声で、叫んでいた。魔女が何か、魔法を使ったのかもしれない。そうであれば、避けなくては――。しかし王子はカエルの心配をよそに、ちっとも気にする様子がない。それどころか楽しそうににやりと笑うと、そのままひょいっと、雲の塊に飛び乗ったのだ。
 雲が形を為していく。それを見てカエルは、あんぐりと口を開けてしまった。
「……ゾウ」
 王子が乗ったその雲は、今や大きな、水色の象の姿になっていた。カエルの記憶にある、『本物の象』とはいささか雰囲気が異なっているものの、長い鼻といい、羽のように大きな耳といい、それは確かに『ゾウ』であった。慌ててカエルが駆け寄れば、くりくりとした愛らしい目が、優しく微笑んだように思われる。
 すると直後にそのゾウは、弛ませた長い鼻を、雨雲に向かって突き立ててみせた。
「一体、何をする気だい!」
 魔女の叫ぶ甲高い声。足下の揺らぎに耐えきれず、カエルが象の牙にしがみつく。そうしていると段々と、この象が、何をしているのかがわかってきた。
(この子、雨雲を吸い込んでいるんだわ)
 気づいたときには、象が沢山の雨雲を吸い込んだ鼻を持ち上げて、その先を魔女へ向けていた。魔女が作った雨雲を、魔女に向けて撃つのだろうか。しかしカエルが、牙を掴む腕に力を込めた、次の瞬間。
 真っ赤な空に色とりどりの、小さな粒が広がった。まるで雨のようなそれが降りつけるのをしばらく見守って、不意に足下に落ちたそれを拾い上げると、思わず、笑ってしまう。
「雨……あめ玉?」
 尋ねる側から、象はまた雨雲を吸い出す作業に取りかかっている。ふと見上げた先に、象の背からちょこんと顔を出す王子を見つけると、彼もにやにや笑っていた。
「魔女がどんなにくもを作っても、王子のゾウが、ぜんぶあめ玉に変えちゃうからな。これならぜったい負けないぞ」
 そう言ってじっと魔女を見る。魔女は狼狽えるように左右を見回して、しかし次から次に、雨雲の上へ王子のゾウが増えていくのを見て取ると、悔しそうに地団駄を踏んだ。
「今回はあたしの負けだよ! でも、覚えておいで。いつかまた、必ず象の国を乗っ取ってやるからね!」
 
 * * *
 
 暗闇が、徐々に、徐々に、晴れていく。ああ、朝日が昇るのだ。寝ぼけた頭でそう考えて、私は思わず溜息をついた。東に向いたこの部屋の朝は、一夏の間、まるで地獄のようなのだ。
 無意識に、手はエアコンのリモコンを探って彷徨っていた。しかし手に触れる物は、倒れたゴミ箱から溢れたゴミやら、棚から落ちた雑誌やら、そういう期待はずれな物ばかりである。
(ああ、……だめよ。確かエアコンが壊れたんだった。それにしても、私、なんでこんな日に窓まで開けっ放しにしたんだろう)
 お陰様で部屋の中が、まるでゴミ屋敷のようではないか。そう考えると、無責任な昨日の自分に苛立った。しかし、次の瞬間。
 タオルケットを跳ね上げて、私はその場へ飛び起きる。そうしていまだに寝ぼけた頭で、慌てて周囲を見回した。
 開けっ放しの大きな窓に、風に吹かれて散らかった部屋。転がった空のペットボトルにも、開きっぱなしの絵本にも、そうだ、確かに覚えがある。ここは現実の世界の私の部屋だ。
 あの、おんぼろアパートだ。
(夢、――だったの)
 朝日の差し込むその部屋で、私はただ呆然と、その場へ座り込んでいた。
 象太と二人でごっこ遊びをしていたはずが、いつの間にか二人して、眠ってしまっていたらしい。『象の国』での出来事も、魔女との戦いも、あれらは全て夢の世界の話だったのだ。
 それにしても私ったら、いつの間にタオルケットまで着込んだのかしら。それも、腹巻きみたいにお腹の部分に巻き付けて。そんなことを考えてから、しかしすぐ隣に眠る象太の姿を見て、私は思わず吹き出してしまった。よい子の甥っ子が、おんなじようにタオルを巻き付けて眠っていることに気づいたからだ。
――じつは、ちょっとだけ準備をしてたんだ。長くなりそうだったから。
 象の国の王子様が、そんなことを言っていた。もしかすると彼が言っていた準備というのは、この事だったのかもしれない。眠るとき、お腹は絶対に冷やしちゃ駄目よ、と、サツキ姉ちゃんは口をすっぱくして言っていた。
 傍らで眠りこけている象太は、どうやらまだ夢の中にいるらしい。魔女を退けた王子は今頃、国民達に温かく迎えられていることだろう。それとも象太は象太で、もしかすると全く違った象の国で、魔女と戦っているのだろうか。そんなことを考えていると、象太がぽつりとこう言った。
「カエルゥ。……あめ玉ばっかり食べてると、むし歯になるから、だめなんだぞ」
 私は思わず微笑んで、象太の髪を、そっと静かに撫でつけた。

Thor All Rights Reserved.