蛙と象

【 第四話:象の国から 】

 その日、象の国は大いに賑わっていた。国中の人間が心待ちにしていた、年に一度の祭の日であったからだ。
 大通りは様々な色で溢れかえり、幸せそうな町の人々は、互いに声を掛け合い、笑いながら道を過ぎてゆく。演奏隊が楽しそうにメロディを紡ぎ、町中を練り歩いている。そんな中を、王子とカエルも歩いていた。
「カエル。この国のお祭りには、一体どんなものがあるかな?」
「何でもありますよ、王子。屋台には国一番の職人がつくったケーキも、魔法がかかった甘いお菓子も、何でもかんでも揃っています」
 言うと、王子はくすくす笑った。そうして「カエルは食べ物のことばっかりだな」と言うのを聞いて、カエルも思わず笑ってしまう。それから気を取り直して、「せっかくだから、いろんなところを覗いてみたいですね」と声をかけた。
「うん、そうだな。お祭りはもちろん楽しみたいけど、王子には、この国のことをちゃんと見ておくギムがあるからな!」
 しかし意気揚々と、王子がそう胸を張った、その時だ。
 王子とカエルの二人組は、思わず顔を見合わせた。出店の立ち並ぶ大通りの一角から、小さな子供の泣き声が聞こえてきたからだ。見れば同じ年頃の少女が二人、何かを取り合い口論している。
「いったい、なにがあったんだ?」
 駆け寄った王子が尋ねると、二人の少女ははっと息を呑み、「王子様」と頭を下げた。
「わたしたち、旅の商人に、綺麗な布をもらったんです」
「それでスカートを作ろうと思ったのだけど、二人分作るには、布が足りません」
「だから、取り合いになってしまったんです」
 少女達はそう言って、また大声で泣き出した。王子は困ったように手を彷徨わせ、助けを求めるかのように、カエルの方を振り返る。しかしカエルは微笑むだけで、答えようとはしなかった。
 解決策は、王子が自分で講じなくては。
 王子はしばらく悩んでから、「ああ、そうだ」と手を打った。
「なら今回は、スカートじゃなく、もっと小さいものを作ることにしたらどうだろう。たとえばボウシとか、スカーフとか。二人おそろいで作ったら、きっと仲良くできると思うぞ」
 
 * * *
 
(象太ってば、もう完全になりきってるわ)
 一人でこっそり目を開けて、心の中でそう呟く。そうして私は目の前に座る象太の顔を覗き込み、同時に思わず微笑んだ。目を閉じて架空の『象の国』に思いを馳せるその顔が、期待にはち切れんばかりに、輝いて見えたのだ。
(『ごっこ遊び』は、子供の得意分野だもんね)
 兄弟のことを考えるのが嫌だ、それを嫌だと思う自分はもっと嫌だ。――思い詰めた表情でそんなことを言い出した時は、少し心配になったけれど。
(これなら、きっと大丈夫ね)
――ショウタはあの本の王子みたいに、『イダイでつよくて優しい』人にならなきゃいけないのに。
 兄弟が生まれるこの一晩、象太が一人で悶々と、思い悩む様子を見るのは耐えられなかった。けれどこの分なら。いずれ疲れて眠りに落ちても、きっと、楽しい夢を見られるだろう。
 そうして象太はその夢の中で、本人が憧れているような、『イダイでつよくて優しい』、そんな王子様になったらいいのだ。
「カエル!」
 明るい声にそう呼ばれて、私は「なあに?」と問い返す。目をつむったままの象太の笑顔を見ていると、つられて私も笑顔になった。
 その時ふと、窓硝子に映った自分自身の顔に気がついて、思わず小さく吹き出してしまう。そこには喜色満面の、『カエル』が座っていたからだ。どうやら私も負けず劣らず、十数年ぶりの『ごっこ遊び』に心奪われているようだ。
(ああ。私も、象太とおんなじ顔をしてる――)
 
 * * *
 
 その後も、二人は町を練り歩き、あちこちで人を助けて歩いた。迷子の少年の親を捜したり、市場の人の捜し物を手伝ったり。その度に町の人々は、王子とカエルに笑顔で礼を述べた。
 勿論、祭自体を楽しむことも忘れない。立派な象の形をした噴水の前を通り過ぎ、色とりどりの布を着込んで踊る町の人々に混ざって、二人はたまに歌を歌う。途中の店で買った奇妙な色のパイは、『象太』と『楓』が食べたアイスとも似た味がした。
「象の国は誰もみんな優しくて、それに楽しい。いいところですね。王子」
 カエルが言うと、王子も頷く。しかし王子は小首を傾げて、「でもなぁ」と呟くように言った。
「でも、なんです?」
「何かが足りない気がするんだ」
「何かって、一体何が?」
 問うてみても、王子は「それがわからないんだよなぁ」と、歯切れの悪い返事をするだけだ。それを聞いて、カエルは思わず溜息をついた。
 一体何が足りないのか、言ってくれたらいつだって、カエルにはそれを用意する準備があったのに。『象の国』でならなんだってできる。ここでは何でも思うままなのだ。しかし何が足りないのかがわからなければ、打つ手がないではないか。
 
 * * *
 
 目を開けて、象太には勘付かれないよう、そっと絵本に手を伸ばす。いや、この本は既に、私にとってはただの絵本などではなくなっていた。これは象太を理想の王子にするための、参考書のようなものなのである。
 しかしそうして何ページかめくってみてから、私はそのまま本を閉じた。象太の王子生活に足りないものがなんなのか、すぐに気づいてしまったからだ。
(そうだ。『象の国』には悪役がいないんだわ)
 物語の中で王子様は、国を乗っ取りに来た悪い魔女へ戦いを挑み、それに打ち勝つことで、その勇敢さを国の人々に示すのだ。しかしそこまで考えて、私は思わず溜息をつく。以前、テレビで心霊番組を見てしまった時の象太の反応を思い出したからだ。
 あの時象太はぼろぼろ泣いて、トイレに一人で行けないだの、風呂場で何かおかしな声を聞いただの、情けないことを言っては私やサツキ姉ちゃんのことを困らせた。物語で読んで聞かせる程度ならまだしも、こうやってイメージさせていたのでは、あの時と同じように、竦んで身動きがとれなくなってしまうかも知れない。
(だめよ。今はとにかく、象太を楽しませるのが最優先なんだから)
 他に何か、無いかしら。幻想の世界特有の、わくわくするような、他の何かは――。
 
 * * *
 
「そうだ。王子、今度は広場へ行きましょう。広場には今、大きなサーカスが来ていたはずです」
 カエルがそう提案すると、王子はぱっと顔を輝かせ、「サーカス?」と即座に問い返す。カエルが得意げに「そうです」と胸を張ってみせると、唐突に、すぐ隣から声がかかった。
「おや、あんた達、まだ見に行っていなかったのかい?」
 そう言ったのはカエルでも王子ではなく、ちょうどその場を通りかかった、町の人間の一人であった。「そうなんです」とカエルが言うと、辺りで出店を出している商人の一人であるらしいその人は、にこにこ笑ってこう言った。
「なら、今からでもいってみるといいよ。なんでも北の大陸から渡ってきた連中がやっているらしいんだがね、夢のようなショーを見せてくれるって、ここらでも評判だよ」
「夢のような、ショー?」
 身を前に乗り出すようにして、王子が相手にそう問うた。すると相手も頷いて、身振り手振りで説明をする。
「傘を広げて空を飛んだり、ボートみたいに大きな葉っぱに乗ってドラゴンと闘ってみたり、そういうショーをするんだとさ。私も、今から見に行くところなんだよ」
「へえ! 北の大陸の人は、いろんな事ができるんだな」
「もしかすると一座の中には、魔法使いでも紛れているのかもしれませんね」
「魔法使い!」カエルの言葉に、王子の瞳がまた輝いた。
 王子がくるりと振り返り、カエルの顔を覗き込む。カエルも迷わずにこりと笑うと、「ええ、行きましょう」とそう言った。
(王子は前にも、サーカスを見てみたいって言ってたもの)
 それは『象の国』での事ではなく、『あちら側』での事だけれど。そんなことを考えながら、カエルは大慌てで、「さあ、行くぞ!」と駆けていく、王子の後を追いかけた。
 
「カエル! ほら、早く入ろう!」
 言って王子が振り仰いだのは、色とりどりの布で作られた、大きな大きなテントであった。町の中央広場にどっしりと建てられたそのテントの周りには、我先に中を覗こうと、人々がひしめき合っている。
「王子! ちょっと、待ってください!」
 声をかける間にも、王子は先へ先へといってしまう。まったく、こうなった時の子供の勢いというものは凄まじい。カエルも必死に後を追うのだが、ようやく王子に追いついたのは、テントの中へ潜り込んでからのことであった。しかしそうして王子の手を取り、改めて周囲を見まわして、カエルは大きく息を呑む。
 建物の中は、人々の熱気に満ちていた。
 溢れるような、人、人、人の海。しかし人間達の輪の中心に、ぽっかりと広いステージがある。その中心では、今、まさに驚くべきショーが行われていた。
 まるでアラビアンナイトの登場人物のような格好をした青年が、地面から真っ直ぐに立った長い棒の上へあぐらをかいている。見たところ、周りには梯子の一つもないのに、一体どうやってあんなところへ登ったのだろう。しかしそう考えたのも、つかの間。
 唐突に、地面が大きく振動した。見れば、ステージの床に描かれた蛇の目が、不気味に赤く光っている。
「カエル!」
 興奮しきった声で、王子が言った。王子の言葉はそれきり絶えたが、彼がどう言葉を続けるつもりだったかは、カエルにも理解のあるところだ。恐らくは、他の観客達も同じだったに違いない。
 多くの観客が見守る中、床の蛇はストレッチでもするかのように、まずは体を揺らして見せた。そうして突然、床の絵から飛び出して、棒の上の青年に向かって牙を剥いたのだ。
「危ない!」
 誰もが短く、そう叫んだ。しかしその瞬間、青年は指をくわえて口笛を吹き、――天井から垂れてきた太いロープを片手で掴むと、それに軽々ぶらさがり、ひらりひらりと蛇の攻撃をかわしてみせた。そうして最後は蛇の頭を殴りつけ、昏倒させてフィナーレだ。
 むせかえるような熱気と、そして歓声が、テントの中に満ちていた。興奮の渦に汗が落ちる。はじめは緊張と安堵の繰り返しに振り回されていた王子とカエルの二人組も、今は他の観客と同じように、はしゃいだ声を上げていた。
 だがしかし、そうしてはしゃぐ一方で、カエルは「はて」と小首を傾げる。
(私が王子に、『象の国』を語っているはずだったのに)
 このテントへ来るまでは、『象の国』で何をしようか、何が起こるか、考えていたのは確かにカエルのはずだった。それなのに今や、この舞台で次に何が起こるのか、一体誰が登場するのか、カエルにはちっとも予想が出来ないのだ。もしかするといつの間にやら、カエルはこの国で起こる出来事の主導権を、王子に奪われてしまったのかもしれなかった。
(でも、そうね。こういう遊びは、子供の方が得意なはずだもの)
 それならば、物語の舵取りは王子に任せ、自分もこの『象の国』を純粋に楽しむことにしよう。そう考えて、カエルは再び舞台の方へと顔を向けた。ショーはまだまだ続くらしい。
 アラビアンナイト姿の青年に向けられた拍手が鳴りやまないうちに、次のサーカス員が姿を現した。今度は、美しき人魚の登場だ。

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