蛙と象

【 第三話:熱と月の夜の中 】

 すったもんだとした挙げ句、私と象太はこの熱帯夜の中、何の空調も利かない密室で、襲い来る熱と戦いながら眠ることになった。
 ああ、暑い。背中を汗がつたっていく。もしかしたら今晩は、この夏一番の暑さなのではないだろうか。しかしそんなことを考えながら寝返りを打って、私は、ソファベッドにうずくまる、小さな人影を覗き見た。象太だ。やはり寝苦しそうに、落ち着き無く寝返りを打っている。
 そうしてしばらく見ていると、先ほど見た象太の暗い表情が、自然と脳裏に浮かび上がってきた。
(あんな顔、初めて見たな――)
 そっと、自身の枕に頬をうずめてみる。するとなんだか唐突に、私まで切ない気持ちになってきた。
 象太の兄弟が生まれそうだと聞いたとき、私は実のところ、それを告げたらこの甥っ子は、きっと大喜びするのだろうと思っていた。いや、大喜びとまではいかなくとも、きっとまた何か、大人びたことを言って私たちを驚かせるのだろうと、そんなことを考えていたのだ。
 実際、そう考える根拠もあった。半年ほど前、タツマ兄の単身赴任が決まった頃のことだ。
 あの頃はまだサツキ姉ちゃんのお腹も目立った大きさはしておらず、サツキ姉ちゃんはサツキ姉ちゃんの仕事を続けるため、ロスへ向かう事になったタツマ兄を見送らざるを得なかった。だが本当はこの時、うちの親とサツキ姉ちゃんの両親がそれぞれに口を出して、ちょっとした問題に発展しかかったのだ。まだ子供も小さいのだし、両親が離れて暮らすのは教育上あまりよろしくないとか、そもそもタツマ兄がそれなりの収入を得ているのだから、もうサツキ姉ちゃんは仕事などしなくてもいいのではないかとか、以前から度々小耳に挟んでいたその手の話題が、一気に熱を帯びたのだ。サツキ姉ちゃんの味方であった私も微力ながら、サツキ姉ちゃんはお金のためだけに仕事をしているわけじゃないんだよ、女は家の中だなんて、イマドキじゃないよ、と囁くくらいのことはしていたのだけれど、私の言葉なんて、てんで焼け石に水だった。
 大人の世界は面倒だ。けれどそんな祖父母達の意見を一蹴したのが、象太の一言だったのだ。
「ショウタの父さんと母さんは、それぞれ、誰かのために仕事をしてるときがいちばんカッコイイんだ。ショウタはそんな二人を見るのが好きだし、なによりそれが、ショウタん家なんだ」
 だから祖父母は黙っていろと、つまりはそういうことである。五歳児にこうまで言われては、誰にも太刀打ちできやしない。「カッコイイのはお前だよ」と、後から話を伝え聞いた時、私は思わず呟いた。
 どこか大人びた私の甥っ子は、そういう伝説を他にもいくつか残していた。よくできた子なのだとみんなが言った。だから今回も、何かきっとそういう名言を残してくれるだろうと、ちょっぴり期待をしていたのに。
(象太にも、何か思うところがあるのね――)
 人間の心というものは、なんだか複雑なんだもの。
 そんな事を悶々と考えていると、目が暗闇に慣れてきた。暑さのおかげで、眠気もさっぱり湧いてこない。
 ソファの上でまたもぞもぞと、象太が寝返りを打っている。私は観念したように起き上がると、「象太」と短く声をかけた。
「起きてる?」
「起きてる。でも、今、寝ようとしてる」
「あら。健気な事ね」
「よい子はハヤネ、ハヤオキするんだ」
「そう。……ところで私、これからアイスでも食べようかと思うんだけど、あんたも一緒にどうかしら?」
 聞くと、がばりと、象太がその場へ飛び起きた。そうしてその申し出が信じられないとでも言うかのように、驚いた顔で、――しかし期待に満ちた表情で、「こんな時間に、食べていいのか」と私に問うた。
「だって、もう我慢できないくらい暑いんだもん」
「でも、夜中に甘いものは食べちゃ駄目だって、ショウタの母さんは言ってたぞ」
「私はショウタの母さんじゃないもん。ショウタの姉さんだもん」
「……。カエルは、ショウタのおばさんじゃなかったか」
「そんな細かいことを気にする子には、アイスあげないわよ」
 言って私がにやりと笑うと、象太もまるで何か悪巧みの共犯者にでもなったかのように、にやりと笑い返してみせる。早寝早起きがモットーのよい子とは言え、この熱帯夜の下での誘惑には勝てなかったようだ。
 そうして私は明かりも点けないまま、冷蔵庫へと足を伸ばした。せっかく『悪事』を働くんだもの。明かりなんて点けてはいけない。薄暗い部屋が、ちょうどいい。
 象太にアイスを選ばせると、まずはカーテンを開け放つ。ああ、綺麗な月の夜だ。そんなことを考えながら振り返ると、心なしか目を赤くした象太が、ちょうど一口目にかぶりついたところであった。
「美味しい?」
 尋ねると、「うん」と象太の素直な声。「こんな時間に食べさせたって事、サツキ姉ちゃん達には言わないでね」と念を押すと、「カエルこそ、ゼッタイ言うなよ」と象太も言った。
 そうして私たち二人はしばらくの間、黙ってアイスを食べていた。熱帯夜ではあったけど、アイスは溶けも零れもしなかった。それよりも、冷気を求めてそれを貪る、私たちの勢いが勝っていたのだろう。だからそうして無言で居たのは一瞬のことのはずだったのだけれど、私には何故だか、それが随分長い時間のように感じられた。
「ねえ。象太の兄弟、名前は決まってるの?」
 それとなく、象太に話題を振ってみる。象太も出来る限り何でもないふうを装って、「まだらしいよ」とだけ短く答えた。
「顔を見てから決めるんだって」
「ああ、そういえば象太の時も、そんなことを言ってたわ」
「うん。ショウタの父さんは、ショウタを見たしゅんかん、きっとこいつは象みたいにイダイでつよくて優しくなると思って、そういう名前をつけたんだって言ってた」
「自分で言うと、可愛くないわよ」
「いいんだ。ショウタの理想は『イダイでつよくて優しい』ことだから。『かわいい』は、べつにいらない」
 言って、力なく笑う大人びた声。私はあえて、聞こえなかったふりをした。そうしてアイスの棒をゴミ箱へ投げ入れると、唐突に、
 象太のことを後ろから、力一杯抱きしめる。
「それで? どうした、白状しな!」
「か、カエル! 苦しい! いきなり何するんだ!」
「『いきなり何するんだ』、じゃないでしょうが。やけに渋い笑い方をしおって。何? サツキ姉ちゃんが不安なの? 海外出産だから? 早産だから? 大丈夫だって。サツキ姉ちゃんはあんな華奢な体をしてるけど、ちゃんとあんたを元気に産んだでしょ?」
「そ、そんなのショウタは心配してないぞ。ショウタの母さんは強いからな」
「じゃあ、何よ。さっきから何を悶々としてるわけ?」
 聞いても、ショウタはじっと、答えなかった。
 強い風が吹いていた。風はびゅうびゅうと音を立てながら、おんぼろアパートの硝子を震わせている。
 まるで、ノックでもされているようだと私は思った。
 私達を呼びに来た、何者かの来訪を告げる音のようだとそう思った。
「ショウタは、ただ……」
 象太が言って、目を伏せる。それを見て、私は思わず目を丸くした。象太の目に、いつの間にやら、大粒の涙が溜まっていたのだ。
「ただショウタの母さんが、ショウタの母さんじゃなくなっちゃうのがいやなんだ」
 言われて、私は思わずきょとんとする。サツキ姉ちゃんが『ショウタの母さん』ではなくなってしまうというのは、一体どういう事だろう。一瞬そんなことを考えて、私はすぐに、「ああ」と納得した。
(サツキ姉ちゃんを取られちゃうような気がしてるわけね)
 サツキ姉ちゃんが『ショウタだけの母さん』ではなくなってしまうことが、悔しいわけだ。
 そう言えば、数年前に誰かさんも、似たようなことを言っていた。生まれてきた息子に妻をとられそうだとか、ああ、つまり血は争えないということか。しかし思わずこぼれたその笑みを、象太に悟られるわけにはいかなかった。だって象太は、大まじめなのだ。普段はやけに大人びたことを言うけれど、この小さな体には、紛れもなく五歳の男の子の、素直で素朴な悩みが詰まっているのだ。
「ずっと不安だったの?」
「うん」
「その事、サツキ姉ちゃんには言った?」
「言わない。だって大人はきっと、『そんなことないよ』って言ってすまそうとするから。……、ショウタだって、そんなのわかってるんだ。でも、わかってるのと不安なのとは別なんだ」
 やっぱり、この子は頭がいい。私は思わず微笑んで、しかし続いた象太の言葉に、思わずはっとした。
「カエルだって大人だけど、でもカエルは『ショウタの姉さん』だから言ったんだぞ。……ショウタの母さんには、ゼッタイ言いつけたりするなよ」
 象太の言ったその言葉が、私にはやけに嬉しかった。
 象太を抱きしめる腕に力を込めると、象太は不満げに、「なんだよ」と言って抵抗する。それでも私は放さない。
 ああ、この子は私のことを、仲間だと思って打ち明けてくれたのだ。
 私のことをまだ、純粋で、そして優しい、『子供』の一員として迎え入れてくれたのだ。
「ねえ。それでも、象太はお兄ちゃんになるんだよ」
「……、わかってる」
「お兄ちゃんになるのは、イヤ?」
「いやじゃないけど」
 けど。それに続く言葉は、音を伴わないまま私の心に落ちてきた。それが私の心の中にはねて、居所を掴みきれぬまま、不安げに彷徨っている。
「ショウタはあの本の王子みたいに、『イダイでつよくて優しい』人にならなきゃいけないのに。……でもキョウダイのことを考えるとすごくイヤで、イヤだと思うショウタのことを考えると、もっともっとイヤな気持ちになるんだ」
 ぽつりと再び、私の腕に水滴が落ちた。だけど今度のその水滴が、エアコンの故障によるものでないことくらい、すぐわかる。私はぎゅっと象太を抱きしめて、それから少し、考えた。
 この優しくて賢い甥っ子に、私は何をしてあげられるだろう。
 単なる一人の大人ではなく、象太の友だちとして、ショウタの姉さんとして、どんな言葉をかけたらいいのだ。
 ふと視線をあげると、象太の絵本が視界にはいった。それで、「ああ、そうだ」と思いつき、私はふと微笑むと、窓の外へと顔を向ける。
 相変わらず、強い風が吹いている。
「ねえ。ちょっとこれから遊ぼうか」
 にやりと笑って私が言うと、象太はきょとんとした顔で、怪訝そうに瞬きをした。
「こんな時間に?」
「そうよ。たまには夜更かしもいいでしょう?」
「でも、何するの」
 聞いて私は立ち上がり、勇ましげに、まずは窓を開け放つ。
 明かりの消えた室内に、宿る光は月明かりだけ。強い風を受けて窓辺に置いた雑誌はぱらぱらとめくれ、置きっぱなしになっていた空のペットボトルは音を立てて転がっていく。机の上から何かが落ちた。積み重なっていた公共料金の請求書が、風にあおられ散らばっていく。
 だけどそんなの、これっぽっちも気にならない。
「王子様ごっこをしよう、象太。私が必ず象太のことを、『イダイでつよくて優しい』王子様にしてあげる」
 一陣の風が唸り声を上げ、部屋のカーテンをめくりあげる。それがまるで旗の揺らめく様子に見えて、私はなんだか楽しくなった。
「王子さまごっこ」
 躊躇いがちに象太が言った。「そうよ」と明るい声で答え、私はすとんと座り込む。そうして月を見上げると、静かな声音でこう語った。
「さあ参りましょう、象の国の王子様。国の誰もが、あなたのことを待っています」
「ショウタが、王子なのか?」
 尋ねた象太に、私は「うん」とまず頷いた。「それとも、もっと他のがいい?」と尋ねると、象太はきょろきょろと辺りを見回して、しかしすぐさまこう言った。
「ううん、王子がいい」
 その視線の先には、先ほど読んでやった絵本が置いてある。
「じゃあ、カエルは? カエルは、カエルの国のお姫さまか?」
 ああ、遊びの中でさえ、私は『カエル』のままなのね。そんなふうにも思ったが、言い返す気にはなれなかった。象太の国は、象の国。そこにカエルが紛れているのも、アンバランスでいいかと思えたからだ。
「うーん、私はお姫様ってガラじゃないからなぁ。象の国の王子様の、付き人にでもしてもらおうかしら」
 言って象太に目配せすると、象太は目を輝かせて、「うむ」と短く答えてみせた。
 強い風が雲を追いやり、二人きりのこの部屋に、月の照明を浴びさせる。真夏の夜の、気怠い空気が切り替わる。
 ああ、ほら、開幕だ。
「象の国の王子様は、今、お出かけ中の王とお后様の代わりに、自ら国を守っています。だけど今日、王子様は、お忍びで町へ遊びに行くことにしました」
「どうしてだ?」
 象太が問うた。私は答えない。
「ショウタ王子。どうして急に、町へ行こうと思ったのですか?」
 お付きの『カエル』がそう問うと、『王子』ははっとした顔つきになり、それから少し考えた。そうしてその後、堂々とした態度でこんなことを言う。
「うむ。今日は町でおまつりがあるからな。なにか困ったことがおきてはいないか、王子が見回りに行こうと思ったんだ」
「そうですか。では、わたくしもご一緒いたしましょう」
 カエルがにやりと笑って話す。
「さあ王子、目を閉じて思い浮かべてください。象の国の城門が見えますよ」
 二人は今、象の国を訪れていた。

Thor All Rights Reserved.