蛙と象

【 第二話:報せ 】

 そこまで聞いて、私は思わず「なるほどね」と納得した。思えばサツキ姉ちゃんは、私がこの夏、たった一人で暇をもてあましていることも、その理由も、ようく承知しているのだ。
 私がまだ学生だった頃に親戚となったこのサツキ姉ちゃんは、いつだって、私のことを本物の妹のように可愛がってくれていた。だからついつい先日も、彼氏と別れたこと、随分前から浮気されていたらしいことなどを、涙ながらに愚痴ってしまったのだ。
「ねえ、楓ちゃん……」
 懇願するように、サツキ姉ちゃんがそう言った。ああ、おきまりのパターンだ。
 サツキ姉ちゃんのすることには、いつだってあまりに毒がない。だから私は気がつくと、「それでいいよ」と言ってしまう。
 面倒見のいいサツキ姉ちゃん。いつも無邪気なサツキ姉ちゃん。まあ、たまにはこうして恩返しをしておくのも、悪いことではないだろう。
(どうせこの夏は、予定が全て消え失せたところだったわけだし)
 ちらりと象太へ視線を移すと、彼はじっと私の顔を覗き込んで、「まあ、ショウタは別にいいけどな。カエルとあそんでやるのも楽しそうだ」と言って笑ってみせる。
「顔を合わせる度に言わせてもらってるけど、私の名前は『カエデ』です」
「『カエル』の方が似合ってる。カエルは両目が離れてるから」
「あんたね。女の子に、そういうことを言うもんじゃないわよ」
「……あら。そろそろ行かないと、飛行機に乗り遅れちゃう。……じゃあ、楓ちゃん。象太の事をよろしくね」
 私と象太が火花を散らし始める前に、サツキ姉ちゃんはひらりと身を翻し、おんぼろアパートのおんぼろ階段を下りていく。そうしてくるりと振り返ると、いつも通りの無邪気な顔で、私達に手を振った。
「行ってきまぁす」
 
「カエル。家がぎしぎし言ってるぞ」
 すっかり歯磨きのチェックも終え、タオルケットに身をくるんだ象太がそう言った。先ほどまではあんなに眠たげだったのに、あれやこれやと動き回っているうちに、眠気が覚めてしまったらしい。私は適当に流し読みしていた雑誌を置いて、「ぎしぎし言ってるのは家の本体じゃなくて、あのおんぼろ階段だから大丈夫よ」とだけ答える。
「そうか? この家、吹っ飛ばないか」
「この程度の風で、吹っ飛ばれたら困るでしょ。私達、明日からどこに住むのよ?」
「さっきの話の王子みたいに、旅をするのもいいと思うな」
「あんたは既に、私の家まで旅してきたようなもんじゃない」
 私が笑うと、象太もにやりと笑ってみせた。「ショウタの母さんも、旅のとちゅうだ」と呟く声を聞くと、なんだか楽しくなってくる。
 こうして象太を預かって、正解だったかもしれない。今年の夏は暑いもの。一人でグウタラしていたら、きっと炎天下におかれたアイスクリームのように、どろどろに溶けてしまっていたに決まってる。
「カエル。さっきの本のつづき、読もう」
 象太が唐突にそう言った。
「だめ。お子様はもう寝る時間よ。そもそも、象太。本の続きって言ったって、どこまで記憶に残ってるのよ?」
 聞けば、象太は得意げだ。
「ちゃんとおぼえてるぞ。王子が町のお祭りでダイジン達から逃げるシーンも、鏡のおばけの正体をあばいて、お姫さまを助け出すシーンもぜんぶカンペキだ。さっきは……ええと、王子が旅に出たところまでいったっけ」
 私は思わず瞬きした。何故って、象太が語って聞かせた中には、私が読み聞かせたよりも、先の部分の話が混ざっていたからだ。
「だってショウタは、あの絵本が好きだからな。もう何回も読んだんだ」
 堂々と話すその様子に、私はついつい笑ってしまった。そうだ。私も子供の頃は、気に入った本は何度も何度も読み返していた。最近はそんなふうに、一つの物語に入れ込む事なんてなかったから、忘れていた。
「だったら尚更、続きは明日でもいいでしょ。ほら、早く寝な」
 しかしそうして、自分もそろそろ布団へ潜ろうかと考えた瞬間のことだ。私は思わずはっとして、すぐさまその場へ凍り付く。なにやらぽつりと、水滴が降ってきたのに気づいたからだ。
「カエル。なんか、ショウタの顔に水が、」
「しっ、静かに! 私もそれには気づいたわ。今、その原因を探ってるところだから、何も言わないで。お願い」
 真剣な声音でそう言うと、ショウタもごくりと生唾を飲み込んで、素直にその場で頷いてみせる。
 なんだか、嫌な予感がした。確か一昨年も、似たようなことが起きたのだ。だがどうか、その時と同じ事態だけは勘弁したい。以前『それ』が起きたときには一人でどうすることも出来ず、慌てて当時の彼にSOSを求めたものだ――。
 私は祈るように、注意深く天井を見回した。そうしてすぐにその水の正体を見破って、思わず顔を青くする。嫌な予感がどんぴしゃり、当たったことに気づいたからだ。
「……。カエル。エアコンが」
「言わないで! 私の目にも見えてるから!」
 なんということだろう。私は思わず目を覆い、しかしその直後、床に転がしたままになっていたリモコンの一つへ手を伸ばす。ああ、先ほどから、なにやら蒸し暑いような気はしていたのだ。だがまさか、この熱帯夜に、エアコンが壊れるなんて!
 恐る恐るリモコンを向け、水を滴らせているエアコンの電源をオフにする。私は呆然としたまま、「象太、ゾーキン取ってきて」と声をかけた。
 そうして慌てて考える。この強風の中、窓を開けて眠ることなどできやしない。こういう時、無力な一消費者は一体どうすればいいのだったろうか。そうだ、まずは修理の手配をしなくては。確か取扱説明書に、お客様センターの電話番号が書いてあったはずだ。だがこんな夜中でも、そういう電話は受け付けてもらえるものだろうか? いや、そもそも今晩中に修理とはいかないだろうから、今日のところはひょっとしなくても、この暑さに耐え抜かなくてはいけないのでは――。
 その時だ。ただでさえ混乱しきっている私の耳に、電子オルゴールのメロディが響く。……電話だ。まさか気を利かせた修理業者が自ら電話をしてきてくれたわけでもなし、こんな夜更けに、一体何だというのだろう。
「はい、もしもし?」
 自然と口調に苛つきが混じる。洗面所から大慌てで雑巾を運んできた象太と目があったので、無言のまま「壁を拭いて」と指示を出した。しかしその直後、思いも寄らなかった人物の声を聞き、私は思わず息を呑む。
『ああ、もしもし、楓か?』
「え、あ、……もしかして、タツマ兄?」
 『そうなんだよ、久しぶりだな』と、聞き覚えのある兄の声。父親の名を聞いたからだろう。象太も私を振り返り、ぱちくりと目を瞬かせる。
「どうしたの、こんな夜遅く」
『夜遅く? ああ、そうか。今そっちは夜なのか。いや、ごめん。ちょっと時間とかを気にできる状況じゃなくってな。ところでそこに、象太もいるか? あいつ、まだ起きてる?』
「お宅の息子さんなら、今、ウチで壁の水拭きしてるわよ」
『なんだそりゃ。愛しい息子を苛めてくれるなよ。……ああ、じゃなくて。だったら象太にも伝えておいてほしいんだけど』
 そんなものの言い様に、私はなにやら違和感を覚えていた。タツマ兄ったら、こんなに早口な人だったかしら? それとも半年も英語圏で仕事をするうちに、日本語がどんなに自分の口になじむ言語であったのか、忘れてしまったのかしら。
 しかし私がそんなくだらない質問を投げかけるのに先んじて、タツマ兄の口から、ぽろりとこんな言葉が落ちた。
『あのな、ちょっと早いんだけど……。サツキが、生まれそうなんだ』
「はい?」
『だから、ほら。二人目だよ』
 ちらりと象太へ視線を移すと、この甥っ子も同じくきょとんとした顔で、じっと私を、――私の握りしめた携帯電話を、凝視している。
「え、でもサツキ姉ちゃん、まだ八ヶ月目でしょ? 早くない?」
『そうなんだ。でも初産ってわけでもないし、お腹の子の発育具合もいいから、多分大丈夫だと医者は言ってるんだけど』
「タツマ兄、今、どこにいるの」
『ロスの病院のすぐ前だ。海外出産でサツキはちょっと不安がってたけど、いやぁ、ホント、俺が休みの間でよかったなぁ』
 ああ、なるほど。それでなんだか、言葉に余裕がなかったのね。そんな事を、まずは冷静でありたがる脳で考える。それからはっと息を呑み、今度は私も早口になって、タツマ兄に向かってこう言った。
「ちょ、……ちょっと! だったら今すぐサツキ姉ちゃんのところへ行ってよ! サツキ姉ちゃん、不安がってるんでしょ? タツマ兄ごときだって居ないよりはマシに決まってるんだから、早く、電源切ってさっさと行って!」
『俺ごときって。相変わらず酷いな、カエル』
「あんたの妹の名前は、カエデだっての! いいから、早く!」
『わかったわかった。……あ。そういうわけで、サツキの帰りがちょっと遅れるかもしれないんだ。でも流石に、お前も仕事始まるだろうし、後のことは母さんに掛け合ってみるからさ。それまで、象太のことは任せたぞ』
 兄の背後で、誰かが名を呼ぶ声がする。同時にぷつりと電話が切れて、私は一度、大きく呆れの溜息をついた。
 部屋はじめりと湿っていた。真夏の熱がじわじわと、この場を支配し始めている。しかし。
(二人目……二人目かぁ)
 また甥っ子か、あるいは遂に姪っ子が生まれるのかと思ったら、なにやら気持ちが昂ぶった。そうしてたった今仕入れたその情報を、早速象太に共有しようとして、
 私は思わず、そのまま言葉を失った。
「……。ショウタのキョウダイ、生まれるのか」
 ぽつりと、呟くように象太が言った。
 ぴしゃりと、エアコンからまた水が滴った。頭上にしかない蛍光灯が、軽く俯く象太の顔に影を落としている。
 その表情がいささか青ざめていることに、ここでようやく私も気づいた。
 象太はまるで、世界にたった一人で残されたかのような不安げな顔をして、じっと何かを考え込んでいたのだ。

Thor All Rights Reserved.