風浪のヌサカン


-5-

「ち、──違います!」
 咄嗟に口をついたその言葉は、情けないほど震えていた。
 だが必死であった。なんとかして、使者の怒りをおさめなければならない。そのことで頭がいっぱいであった。唾を飲み、恐怖で竦みそうになる自身を励ましながら、懸命に言葉を探し出す。
 使者とは視線を合わせられぬまま、しかしイスタバルはこう続けた。
「俺、カラヤ、……様の、友達なんかじゃありません。そ、それに、逃げてきたわけでも、ありません……」
 はっとした様子でカラヤが振り返るのに、気づかなかったふりをした。そうしてイスタバルはカラヤの手を振り払い、肩を丸めると、やっとのことでこう話す。
「そうです、俺は奴隷です。だからカラヤと、……カラヤ様と、友達になんてなれません。商売をする船の主人に買われて、今までずっと、船の掃除をしたり、飲み水を運んだりしてました。でも嵐が来て……、ふ、船が壊れて、海に落ちて、それであの浜に流れ着いたんです。──他の人達がどうなったのか、わかりません。だんな様がどうなったのかも、……。でも、誓って、逃げたんじゃありません。本当です。嘘じゃありません」
 口早に話してしまおうとしたものの、徐々に自信なく声量が落ち、惨めさに肩が縮まっていく。
 これでいいだろうか、これで許してもらえるだろうか。何の許しを得ようとしているのかすらわからないまま、イスタバルはそう考えた。
「……。この子以外に、漂流者があった話は聞いていません。あの嵐で船が難破したのなら、助かった可能性は薄いかと」
「ならばこの奴隷の主人も、死んだはずだと?」
「気の毒なことですが。……しかしそれでは、この子を返す先がありませんね」
 イフティラームの長が言うのを聞き、イスタバルはびくりと肩を震わせた。どこにも行くあてがない、そう言って、同情を買えと言われたことを、思い出した。
「お、親もいません。帰るところもありません。……でも働けます。仕事をもらえたら、どんなことでも一生懸命やります。だからどうか、……火炙りだけは」
 騒海ラースの民の船に残った、ヴィラに罰を与えられるようなことだけは、どうか、避けられたなら。
 ダフシャの使者はイフティラームの長といくらか話し合い、この場はイフティラームの長の判断に委ねようと告げた。きっと腹の中では、己の思惑のとおりに事が運んだと喜んでいるはずであろうのに、そんな様子はおくびにも出さない。
 彼らが話し合う間、イスタバルは頭を垂れたまま、己を見るカラヤと、視線を合わせようとはしなかった。カラヤは、──きらきらと明るい目をして、友達になろうともちかけたこの少年は、イスタバルの言葉をどう受け止めたことだろう。
「どうせこの郷に置くのなら、カラヤ様付きの奴隷にでもするのがよかろう」
 ダフシャの使者が、妙案とばかりにそう言った。イスタバルは答えなかった。カラヤも何も、答えなかった。
(カラヤなら、──)
 それでもなお、イスタバルのことを奴隷ではなく友達だと言ってくれるのではないかと、ほんの一瞬期待した。
 図々しい期待であった。イスタバルは自ら、カラヤの手を振り払ったのに。
(俺はきっと、……いつかこの人達を裏切るのに、)
 涙がこぼれそうになるのを必死で食いとどめて、使者が去るのを見守った。どうやらこの後、ダフシャからの客人を歓迎する宴が催されるらしい。本当であればカラヤもそれに参加する予定であったようだが、この少年が断ると、大人達もそれを容認した。
(一緒に行ってくれればよかったのに。そうしたら今は、カラヤの顔を見ずに済んだのに、……)
 気まずさはあれど、しかし、使者が去ったことに安堵もしていた。そうして顔をあげようとして、──己の視界が歪むのを感じ、イスタバルは眉をしかめる。
 何やら足元がおぼつかない。ふわふわとした風景が、左右に歪んで目が回る。真っ直ぐに立っていることができず、その場に思わず座り込むと、誰かの短い悲鳴が聞こえた。
「血が、……!」
 言われてようやく、腹のあたりが濡れていることに気がついた。左手でそっと探ってみれば、脇腹のあたりが、すっかり血で染まっている。
(服、また汚れちゃう、……)
 そういえば、傷を縫ったと聞いていた。きっとそれが開いたのだろう。
 腰帯に手をのばすのに、上手く解くことができなかった。借り物の服を、これ以上汚すわけにはいかないのに──。
 朦朧とする頭で考えるうち、全ての音が遠ざかる。
 名を呼ばれた気がした。
 だがそのすぐ直後には、イスタバルの意識は、闇の中へとかき消えていた。
 
 目を覚ましたのは、夜半であった。
 夜鳥の声が聞こえていた。部屋の中は暗闇であったが、戸を隔てた隣の部屋からは、かすかな明かりが漏れている。
 嗅ぎ慣れた甘ったるい匂いから察するに、神と精霊の家トンコナン・ペカンの一室であろう。全身に汗をかいてはいたが、腹のあたりは濡れていない。どうやら襟の形が違うので、先程とは違う服を着せられているらしい。
 手探りで布団を這い出でて、やっとのことで立ち上がる。手当がされている。目の回るような気怠さは残るものの、歩くことはできそうだ。音を立てないよう注意をはらい、そっと建物の出口へ向かう。ふと見れば玄関に、日中イスタバルの履いていたサンダルが、左右合わせて置かれていた。
(留め具、……誰か、直してくれたんだ)
 そっと一度手にとって、しかしすぐまた元に戻した。そうして裸足のまま出かけようとすると、ふと、背後から優しげな声が聞こえてくる。
「履物は、あまり好きじゃないかしら」
 ぎくりとした拍子に体勢を崩しかけ、咄嗟に柱へ手をついた。恐る恐る振り返れば、そこに、神と精霊の家トンコナン・ペカンの中でも最も年長の巫女が立っていた。
 巫女が手にした灯り油にともる光が、その白髪をゆらゆらと照らし出している。イスタバルは顔を伏せると、「ふさわしくないから、」と呟いた。
「聞いたかもしれないですけど、俺は、奴隷で、……今までもずっと、裸足だったから」
 体が冷えて、思わずぶるりと肩を震わせる。巫女が己の羽織った上着を手渡そうとするのを見て、イスタバルは慌てて首を横に振り、後ずさった。
「ダフシャの人達に見られたら、叱られます」
「使者殿はすでにお休みでしょうよ。いいから、これを着ておきなさい。この時期、夜は少し冷えますからね」
「でも、」
「どこへ行こうとしたのか知りませんが、履物も履いておきなさい。柔らかい砂浜であっても、貝殻を踏むと痛いものですよ」
 否応なしに座らされ、されるがままにしていると、昼間の巫女と同じようにサンダルを履かせてくれた。灯り油を脇に置き、しゃがみ込んだ彼女は手際よく留め具に紐を通しながら、「カラヤ様が」とそう話す。
「つい先程まで、付き添っていらしたのですよ。あなたの傷が開いたのは、きっと自分が走らせたせいだと言って、随分心配されてね。もう時間も遅いので、首長様が迎えに来られて、一緒に帰っていかれたけれど」
 実際は、カラヤのせいではないだろう。しかしイスタバルが黙ったままでいると、巫女は小さく微笑んで、「お散歩しましょうか」とそう言った。
「夜のお散歩も、気持ちのいいものですよ」
 優しい言葉ではありながら、断らせる気はないらしい。もとより、自分には不釣り合いな立派な部屋から抜け出したい一心で、あてもなく外へ出ようしていたのだ。イスタバルには誘いを断る理由がない。結局言われるがまま、この巫女と共に夜のイフティラームを歩くことになった。
「今日は月が細いから、星がよく見えるわねえ」
 なにか話があるのではと思ったが、そういうわけではないようだ。老いた巫女はのんびりと町の中を案内し、やがて浜辺へたどり着くと、イスタバルと並んで流木に座り込み、穏やかな声でこう言った。
「昨日は星揺らぎが多く起こっていたから、心配していたの。だけどよかった。今日の空は随分落ち着いているわ。二つ目の星ヌサカンが、ひときわ強く輝いてる」
 星揺らぎ。イスタバルにはわからなかったが、巫女というくらいだ、星を詠むことができるのかもしれない。二つ目の星ヌサカンとは、一体どの星のことであろう。人々が星やその並びに名をつけて呼んでいることも、大海を旅する船乗り達が星を頼りに方向を定めることも知っていた。だが奴隷として買われてから、具体的な名を習ったことは一度もない。
──あの天に煌くのは、いつか無くした俺達の王冠ゲンマ
 だからイスタバルが知る星の名は、いつか真っ黒な海の上で耳にした、そのたった一つゲンマだけだ。

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