風浪のヌサカン


-6-

 いくらか傾いだイスタバルの身体を、巫女がふと撫で、引き寄せる。
「カラヤ様のこと、守ってくれてありがとう」
 昼間のことを聞いたのだろうか。イスタバルは巫女にもたれかかったまま、「いいえ」と小さく、呟いた。
「きっとカラヤは俺のこと、いやな奴って思ったでしょう。だって本当はカラヤこそ、俺を守ろうとしてくれたのに、……」
 使者の怒りが、カラヤに向いたのが怖かった。だから咄嗟に声が出た。
 昼間はこらえきれた涙の粒が、不意に目元へ湧いて出た。それは大粒の水滴となり、ぽろりぽろりと次々に、イスタバルの頬に落ちてゆく。
(守りたかったのは、カラヤだけじゃないけど、……)
 今も騒海ラースの民の船に乗っているのであろう、妹のことを考える。イスタバルの行動は、主人の希望に添えただろうか。彼女は無事でいるだろうか。
 イスタバルはしばらくの間、巫女の身体にもたれかかったまま、静かにぽろぽろ涙をこぼした。人のいない夜半の浜に、さざ波の音だけが響いていた。
 奴隷であることを知られなければ、友達になれるかもしれないと、そんな事を考えた昼間の自分が疎ましかった。何を勘違いしたのだろう。何を期待したのだろう。しかしそう考えて鼻をすすった、その時。
 カン、と乾いた音がした。木の打ち合うような軽い音が、浜のどこかから聞こえてくる。イスタバルがそっと体を起こしたので、巫女もそれに気づいたのだろう。だが彼女は音に疑問を持った様子ではなく、むしろ初めから知っていたかのように、「あら」とくすくす笑ってみせた。
「もうお元気になられたのかしら」
「……何の音?」
「気になるなら、覗いていらっしゃい。その岩場の先に、岸壁で覆われた浜がありますからね。少し足場が悪いから、気をつけて」
「巫女様は、いかないの」
「そこへは行かないことにしているの。特別な用事がある時以外はね。そういう場所にしておこうって、いつかみんなで決めたのよ」
 巫女の言うことはよくわからなかったが、ならばイスタバルも、行かないほうがいいのではないだろうか。しかし彼女は手にした布でイスタバルの涙を拭い、鼻をかませると、「行ってらっしゃい」と有無を言わさず背を押した。
 そうこうする間にも、打ち合う音は続いている。イスタバルは恐る恐る岩場を登り、物陰からそっと顔だけを出して、その光景を覗き見た。
 動く人影が二つある。大きな影と小さな影。どちらも木剣ぼっけんを振り回しているが、争っているわけではないようだ。小さな影が振り下ろしたその太刀筋を、大きな影が弾き返す。小さな影は一瞬怯んで、しかしすぐまた剣を振りかぶった。
「どうした、もう降参か? お前がむしゃくしゃして眠れないと言うから、こんな夜更けにここまで来たのに」
 苦笑交じりに言うその声に、覚えがあった。昼間カラヤと一緒にいた、郷の長らしき男の声だ。
(じゃあ、子供の方は……)
 一歩前へと乗り出すと、岩場の石がからりと落ちた。イスタバルが覗いていることを気づかれただろうかと慌てたが、そんなことはなかったようだ。二つの人影は一度距離を取り、駆け寄ってまた近づくと、振りかぶって打ち合った。小さな影が圧し負けた、そう見えた直後、長の木剣は容赦なく、小さな影、──カラヤの剣をなぎ払う。
 木剣が、カラヤの手を離れて弧を描き、先の砂浜に突き刺さる。カラヤは声もなくそれを目で追って、呟くようにこう言った。
「……参りました」
 そうして直後の光景に、イスタバルは目を疑った。剣を失ったカラヤが、ふと棒立ちになり、悔しそうに泣き始めたのだ。
 嗚咽を漏らすこの少年は、両手で己の涙を拭い、しかし蹲りはしないまま、声を殺して泣いていた。長が無造作にその頭を撫でると、彼は拳を握りしめ、長の胸を叩きつける。それから絞り出すように、こう言ったのだ。
「奴隷なんかいらない」
 聞いて思わずぎくりとした。間違いなく、イスタバルのことであろう。いらないとカラヤが告げた、強い意志を感じるその言葉に、声もないまま後ずさる。ダフシャの使者はイスタバルのことを、カラヤ付きの奴隷にすればよいとそう言った。だがカラヤがいらないというのなら、──イスタバルはこれから、一体どうなるのだろう。
(この郷を、追い出されたら、)
 それはつまり、主人の命令通りに事を進められなかったということだ。そうして行き場をなくしたイスタバルを、彼らはもう一度、使ってなどくれるものだろうか?
 不安で胸が痛かった。あの巫女はこれを聞かせるために、イスタバルをここへ伴ったのだろうか。しかしイスタバルが浜に背を向け、逃げ帰ろうとした、その時、
「あんなこと、言わせたくなかった。奴隷なんかいらない。友達がいい。俺、本当に、友達になりたかったんだ。俺のこと、特別扱いしないでいてくれる、そういう友達になってほしかったんだ」
 はっとなって、振り返る。そうしてみてからぎくりとした。先程まではイスタバルのことに気づいた素振りなどなかった郷の長が、カラヤを抱きしめ苦笑しながら、イスタバルを振り返っていたのだ。
「お前は難しいことを言うね、カラヤ。友達なんて、なろうと思ってなれるものではないんだよ。こういう風になりたいと、強制してできるものでもない。気づいた時には、なるようになっているものさ。──だが、まあおまえ達は、立場が少し厄介だからね。本当にそう思うなら、もう一度、ちゃんと本人に言ってみなさい」
 尚もしゃくり上げるカラヤから身体を離し、郷の長が手を延べる。その手の先にイスタバルを見て、ぎょっとしたのはカラヤも同じであったらしい。彼はたちまち赤面し、涙を拭って口元をきゅっと引き結ぶと、その場を幾らか後ずさる。余程泣き顔を隠したかったのだろう。一瞬どこかへ去ろうとして、しかし砂浜へ無駄に足跡を残しただけで、彼はすぐまたイスタバルの方へと向き直った。
 逃げないところがカラヤらしい。それでかえって、イスタバルも退路を断たれてしまった。
 そういうことでこの少年に負けるのは、何故かどうしても嫌だった。
 「あまり遅くならないようにな」欠伸混じりのこの長は、浜に刺さった木剣を引き抜くと、カラヤを振り返ってこう言った。
「それから、これだけはよく心得なさい。お前が他の子供と違うのは、ダフシャで生まれたことでも、その王を父親に持つことでもないよ。ただひとつだけ違うのは、やがてこの郷の長になる者として、他の子供の何倍も、周囲の状況をよく見て、どう動くべきか考え抜かなければならないことだ。狡猾になれと言うんじゃない。ただ今日のことだけを考えれば、イスタバルの方がお前よりずっと、勇気の使い方を心得ていただろうな」
 勇気と、長はそう言った。咄嗟にイスタバルが顔を上げると、すれ違いざま、彼は先程カラヤにしていたのと同じようにイスタバルの頭を撫で、「どんな形であっても、」と微笑んだ。
「ダフシャがどう言おうと、この郷に奴隷制はない。私達は君という人間を歓迎するよ、イスタバル」
 
 イフティラームの隠れ浜──岸壁に所狭しと彫られたイフティラームの戦士達の墓、岩窟墓ロコ・マタに見守られたその場所で、二人はその日、夜が明けるまで話し続けた。
「──泣き虫なのはどっちだよ」
 自分の事を棚に上げ、イスタバルが呟くと、カラヤがぎくりと肩を震わせる。「だって、」と弁明しかけ、しかしむくれ顔で言葉を飲み込んだこの少年は、足元の貝殻を蹴り、砂浜へどっかり座り込んだ。
「ここでは泣いていいことになってるんだ。その代わり、他の場所では泣かないって首長様と約束してるんだよ。岩窟墓ロコ・マタには普通、葬儀の時しか人が来ないから、泣いても人に見られずに済むんだ」
 「なのにお前が突然来るから」不満げに言うその声は、しかし怒った風ではない。
 泣ける場所が決められているだなんて、随分不自由なことのように思われたが、カラヤは案外あっけらかんとした様子だ。「そんなことより」と仕切り直すカラヤの目には、まだいくらか涙の跡が残っている。
「ジャッドに教えて貰ったんだけど、『イスタバル』って、『白波の刃』って意味なんだってさ。お前に教えてやらなきゃって思って……。俺が言ったとおり、強そうな名前だっただろ? お前、意味知ってた?」
 「あ、当たり前だろ」思ってもいないカラヤの言葉に、咄嗟に虚勢が口をつく。本当は、自分の名に意味が込められていることなど知らなかった。意味があるなどと、考えてみたことすらなかったのだ。
 けれど。
「それくらい、知ってるよ、自分の名前なんだから……。じゃあ聞くけど、『カラヤ』ってどういう意味なんだよ」
「俺? 俺は、『凪の水面』って意味なんだって」
 「凪?」思わず、怪訝な声で聞き返す。「……どこが?」と素直にそう問えば、カラヤは何度か瞬きして、明るく笑ってこう言った。
「やっぱりそう思う? 首長様が付けてくれた名前らしくて、みんな何も言わないんだ。でも俺も、ちょっと似合わないかなあって思ってた」
「ちょっとじゃなくて、全然似合わない。だってあんた、ちっともおとなしくしてないじゃないか」
「ちょっとは似合うだろ」
「似合わないよ」
「十日に一度はおとなしくしてる」
「絶対ウソだ。二十日に一度って言われても、俺は信じない」
 イスタバルが断言すると、カラヤは口を尖らせる。だが拗ねたように見せているだけだ。彼はじいっとイスタバルを睨みつけてから、ふと、破顔した。
 カラヤの真っ黒なまつげから、留まっていた涙の粒がするりと落ちる。気づけばイスタバルも、一緒になって笑っていた。イフティラームの人々ですら滅多に立ち寄ることがないというこの隠れ浜は、イスタバルにとっても都合が良かった。
 この場所でならイスタバルも、ダフシャの目を気にせずに済んだ。自分の身の上を、一瞬でも、忘れることができたのだ。
「──この郷に残るなら、俺達、同じ年の海神祭かいじんさいに出るんだよな。お前、木剣握ったことある? 銛は?」
 夜明け近く、うつらうつらとした二人は、柔い砂浜に横たわり、白み始めた夜空を眺めていた。イスタバルに至って言えば、最早半分眠っていたといっても過言ではない。傷の痛みは薬で抑えられていたが、疲労はどうにもしがたかった。
「どっちも触ったことない。それ、俺も出なきゃいけないの?」
「うーん、海神様に認めて貰わないと、大人になれないからなあ。じゃあ、剣でも、銛でも、怪我が治ったら教えてやるよ。お前がそういうのを扱えるようになったら、もっと二人で遊べるし」
「……戦うのも、誰かと何か競うのも、俺はあんまり好きじゃない」
 ごろりと寝返りを打ち、イスタバルがそう言えば、「そっかぁ」とカラヤが相槌を打つ。この少年がそういう相槌を打つ時は、大抵、他人の話などちっとも聞いていない時だ。きっとそろそろ、彼も眠たくて仕方がないのだろう。そういえば、「あまり遅くならないように」と言われていたのであった。もう町へと帰るべきだろうか。そんな事を考えていると、ふと、カラヤがむくりと起き上がる。
 そうしてじっと海を見た、カラヤのその横顔を、──イスタバルは生涯、忘れることは終ぞなかった。
 眠たげな目をこすりながら、しかし神妙な顔で起き上がったカラヤは、「でも」と強い口調でこう告げたのだ。
「強くならなきゃ、大事なものを守れない」
 夢うつつの意識の中、しかしイスタバルは友のすぐ頭上に、知った星座を見つけていた。
(あの天に、煌くのは……)
 イスタバルが唯一知る、欠けた環のようなその星座を。
 
 ***
 
 稲妻が空を駆けてゆく。
 雲が立ちこめた夜更けの空に、月は浮かばず星は瞬きすらしない。
 十五の年の春雷の日。この日を待ちわびていた友は、今頃ダフシャの空の下、地団駄を踏んでいるのに違いない。一刻も早く郷へ帰ろう、自分が夜通し船を漕ぐからと言って駄々をこね、同行したジャッドを困らせる様が目に浮かぶ。隠れ浜に寝そべって、一人きりでこの美しい光を眺めていたイスタバルは、想像してつい笑ってしまった。
「土産を買うのを忘れるなよ。ダフシャで売ってる干し芋は、首長様の好物だ。買い忘れたら恨まれるぞ」
 届くわけのない助言をして、持参した木箱に手を伸ばす。その中に託すべきものが揃っていることを確認すると、イスタバルはそれをひとまず、草木のかげへと忍ばせた。
 今はこれでいい。だが最後の日には、全てを詰めたこの箱を、隠してしまわねばならない。簡単に見つかる場所ではいけないが、けれどいつか、カラヤの手に渡る場所へ──。
(ヴィラにこの箱のことを託そう。ヴィラにならこの書簡の束を見つけられるかもしれないとなれば、……万が一の時にも、あいつは殺されずに済むかもしれない)
 雷鳴が轟いている。
 眩い光が舞う度に、砂浜に影が焼き付いた。イフティラームの戦士達の墓、岩窟墓ロコ・マタに囲まれたその場所に、彼の他に人影はない。イスタバルはただ、己一人の影が砂浜に映し出されるのを横目に見ながら、清々しい思いで立ち上がる。
 罪悪感も後悔も、箱の中に閉じ込めた。最後の日には、カラヤに頼んで習った文字で、必要なことを全て手紙にしたためよう。これが手に渡れば、彼はきっと、自分が何をするべきか察してくれるはずだ。
 イフティラームという、この、美しい故郷を守るために。
(カラヤが郷へ戻ってきたら、いつもと同じように振る舞おう。今までどおりに話をして、いつもみたいに手合わせをして、……大丈夫、上手くやれるさ)
 こんなにも光が轟くのに、心はやけに穏やかだ。
 やれるだけのことを、やってみよう。そんな思いが胸にあった。この郷に恩を感じながら、しかしそれを裏切り続けた自分が、──正しく、自分にる為に。
「俺は、いい友達でいられたかな」
 一人ぽつりと、呟いた。きっとあの友人は、イスタバルの行動を知れば、顔を真っ赤にして怒り狂うのだろう。何故相談しなかった、何故一人で立ち向かったのかと、そう言ってイスタバルを問いただすのに違いない。
 彼に全てを打ち明ければ、きっと助けてくれるだろう。彼自身の立場も、ダフシャの思惑も、何もかもを差し置いて。
 だから告げない。
 大切なものを、守りたいから。
「さよなら、カラヤ。──俺の親友ゲンマ

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