風浪のヌサカン


-4-

 男達が立ち去るのを、イスタバルはただ黙って見送った。しばしの間呆然と、木立の中に座り込んでいた。ふと気づけば、服が泥水で湿っている。今朝方降った雨のせいで、地面が濡れていたのだろう。やっとのことで立ち上がれば、サンダルが片方脱げてしまい、すぐ近くに落ちている。引きずり倒された際、どこかに引っ掛けてしまったのだろうか。留め具がちぎれているせいで、履き直そうにも難しい。ただでさえ右腕が使えない今、利き腕とはいえ左手一本で、慣れぬものを履くのは難しいのに──。
──いってらっしゃい。
 そう言って微笑んだ、巫女のことを思い出す。折角着せてもらった服をこんなふうにしてしまったのを知れば、きっと彼らは、イスタバルのことを責めるだろう。この郷の人達は皆優しかったが、イスタバルが奴隷であると知れば、態度を変えるに違いない。
(俺は、……俺が、奴隷だから、……)
 サンダルを履き直すのは諦めて、裸足のまま、壊れてしまったサンダルを、手にぶら下げて歩きだす。
 指示された通りにしなくてはならなかった。指示された通りの場所へ行き、指示された通りの事を告げ、また次の指示を待たねばなるまい。草木を掻き分け、踏み固められた道へ戻り、郷へとずっと降っていく。先程カラヤと同じ道を登った時には、あんなに晴れやかな思いでいたのに、今は足に鉛でも乗せられているかのように、歩くのが酷く億劫であった。
(寝かせてもらっていたのが神と精霊の家トンコナン・ペカン、俺が行かなきゃならないのは、……)
 政務と裁きの家トンコナン・ラュク。それが一体何をする場なのかもわからぬまま、イスタバルは人目を避けながら、言われた通りの場所を目指した。物陰に隠れ、船型に反った人々の家トンコナンの立ち並ぶ脇を通り抜け、──町の中のことはまだよくわからなかったが、町で一番立派な建物だと教えられた通り、それがどれかは一目でわかった。
 目当ての建物を見つけると、それほど離れぬ物陰へ、しゃがみこんで身を寄せた。人が出てくるのを待ってから、姿を現すようにと言われている。できる限り余計なことは考えないように、息を潜めてその時を待った。
 ふと見れば、視線の先で働き蟻が列をなし、巣穴へせっせと餌を運び込んでいた。石が彼らに遠回りを強いているのを見て、その障害物を、ひょいとつまんで避けてやる。しかし蟻達はイスタバルの小さな親切など意に介した様子もなく、己のすぐ前を歩く、別の蟻の後へと従順について行くだけだ。
「──こうして足繁くお越しいただけるのは、我々にとってもありがたいことです。ダフシャとイフティラームの友好を、より深められましょう」
 不意に聞こえたその声に、そっとその場へ立ち上がる。そうして静かに物陰から姿を現して、イスタバルは、思わずぎくりと肩を震わせた。
 そこに複数の人影があった。何かを語らい合いながら、政務と裁きの家トンコナン・ラュクから出てきた人々は皆、一見朗らかに笑い合っている。イフティラームの服を身に着けた人間が大多数。その傍らに立ち、召使いらしき人々に扇がれているのが、恐らくダフシャの使者であろう。そうして立ち並ぶ大人達の中に、一つ、──見慣れた人物を見つけたのだ。
 つまらなそうに口を結び、他所見をしている少年がいる。その場にただ一人の子供でありながら、恭しげに周囲から扱われるこの少年は、──ふと視線を巡らせ、イスタバルの姿を見つけると、驚いた様子で目を見開いた。
「──イスタバル? お前、また怪我が増えてるじゃないか」
 怪訝な様子で声をかけ、ひょいと階段を降りて駆け寄ってきたのはカラヤであった。
 怪我。言われてふと見れば、手足に軽い擦り傷ができている。服を汚してしまったことに比べれば、ちっともたいしたことではないのだが、カラヤはそうと思わないらしい。思わず後ずさるイスタバルの心情などお構いなしに、彼はイスタバルの左手を掴むと、「どうしたんだ」と再度詰め寄った。
「背中に泥が付いてるし、足も」
「……高台から降りてくる時に、……転んで、」
 やっとのことで答えても、目を合わせることなどできやしない。この少年のことだ、きっと納得の得られる答えがあるまで、引き下がらないつもりであろう。しかし当惑するイスタバルが顔を伏せた、その時。
「カラヤ様、その少年は一体何です。肌といい髪の色といい、どうもイフティラームの人間とは見えませんが」
 そう告げる声に、覚えがある。
──牙を折るのが楽しみだな。
 あの日、あの時、イスタバルとヴィラを見下ろしてそう笑った、男の声が脳裏によぎる。もう随分と会ってはいなかったが、はっとなって顔を上げれば、冷ややかな笑みを浮かべるその顔に、やはり確かな覚えがあった。
(俺を買った、ダフシャの官僚……)
 どくりと胸が、緊張に鳴った。
「先日の嵐の後、浜へ流されてきたのです。怪我がひどかったので、手当を。君、歩けるほどになったなら良かった」
 イフティラームの服を着た大人の男がそう言い、イスタバルに微笑みかける。だが対するダフシャの使者は眉間に皺を寄せ、「嵐の後に?」と、まるで自分は関係ないとでもいうように、しらばっくれて問い直した。
「では身元もわからない人間を、郷においているのですか」
「身元がわからないとはいっても、子供です。何を警戒することがありましょう」
「郷の長たるものが、その程度の意識でいるとは嘆かわしい。最近なりを潜めている騒海ラースの民も、何を企んでいるやらわからないというのに。大体──」
 苛立ちを装うその声が、徐々にイスタバルへと歩み寄る。反射的に見上げれば、覚えのあるその顔が、その瞳が、──酷く冷たい眼差しで、じっとこちらを見下ろしていた。
 この男はあくまでもカラヤの身を案じる素振りでイスタバルを突き放すと、「おや、」と不意に笑いかける。
「お前、見覚えがあると思ったら。いつかダフシャの港で見た顔だな。確か商船に買われていった、──」
 イスタバルの肩が、ぎくりと緊張にこわばった。
「待って、」
 咄嗟にそう言いかけたが、言葉は口の中で、音にならぬまま空回りをしただけだ。凍てつくようなその視線から逃れるように顔を背け、またごくりと小さく唾を飲む。先程イスタバルに仕事を告げにきた男達が、ダフシャの使者の付き人として連なっていることに気づいたのだ。
──この郷で少しばかり人間扱いされたからと、勘違いするなよ。
 胸が痛みで疼いていた。ちらとカラヤへ視線を移せば、この少年は眉間に皺を寄せ、怪訝そうな顔でイスタバルのことを見つめている。
──俺、お前の友達になりたいんだ!
 何も知らないこの少年は、キラキラと目を輝かせて、嬉しそうにそう言った。
──故郷も家族もないんなら、このままイフティラームで暮らしなよ。……ここをさ、お前の故郷にしたらいいよ。
 何も知らないからそう言った。まるで自分と同等の人間に語りかけるかのように、
 友人に語りかけるように、イスタバルの手をとって。
「お前、──商船に買われていった奴隷だろう」
 「奴隷、」そう呟いた声の主が、カラヤであるのはすぐにわかった。咄嗟に俯くイスタバルのことなどお構いなしに、ダフシャの使者はこう続ける。
「市場で偶然姿を見た時は、こんな子供に一体何の仕事をさせるのだろうと不思議に思って眺めていただけだったが……。まさかこんな形で再会するとはな。お前、何故こんなところに一人でいる。主人はどうした。もしお前が逃亡奴隷なら、──ダフシャの法では、火炙り刑だぞ」
 火炙り。その言葉に血の気が引いた。「違う」と咄嗟に声が出たが、その後が上手く続かない。
 イスタバルを買ったこの男は、恐らく、イスタバルをこの郷に送り込んだ張本人であろうこの男は、事情など全て承知しているはずだ。それなのにイスタバルと面識があることをしらばっくれるばかりか、火炙りだなどと、何故そんな事を言うのだろう。
(違う、たぶん、指示通りのことを言えばいいんだ。俺は商船に買われた奴隷で、それで、嵐が、……嵐がくるのに置いていかれて、違う、ああ、さっき、指示されたばかりなのに)
──勘違いするなよ。
 冷え冷えとしたその声が、心の内を支配する。
(もし、間違ったら、……)
 緊張と困惑に、身体がこわばり声が出ない。誤ったことをしてこの男の機嫌を損ねでもしたら、一体どうなるのだろう。そう考えれば、まともに思考が働かなかった。血の気が引いて震えが起きた。
「カラヤ様。なんにせよ、下賤のものに近づいてはなりません。──誰か、それを捕らえなさい。本国へ連れ帰って、主人に引き渡すか、然るべき刑を与えなくては」
 肩を掴まれ、思わず震えに息を呑む。
 言わなければ。指示されたとおりにしなくては。しかし言葉が出てこない。まさか今更、本当に声が出ない病にでもかかってしまったのだろうか。
 しかしイスタバルが後ずさりした、その瞬間。
「うるさい」
 耳に響いたその声に、ぎくりと肩を震わせる。頭ごなしに喚き立てる、大人達とは違う位置。イスタバルと近い目線で語られる、しかし怒気を含んだその声の主が誰であるのか、すぐには理解ができなかった。だがそんなイスタバルの左手をとり、──ぎゅっと握る、力がある。
「イスタバルはイフティラームの客人だ。勝手に話を進めないでください」
 じっと強い視線でダフシャの使者を見据え、淀みない口調で続けたのは、カラヤであった。
 使者に付き従っていた人々が、それでにわかにどよめいた。一体何を言い出すのかと、互いに顔を見合わせている。カラヤに言葉を制された使者は、見かけ上それほど気にする様子は見せなかったものの、明らかに気分を害した様子でそこにいた。
「カラヤ様。それに構ってはならないと、お伝えしたばかりでしょう」
「それはダフシャ王親父殿からのご命令ですか? そうだとしても聞けません。奴隷だかなんだか知らないけど、イスタバルは海から流れてきたんだから、海神様からの預かりものです。怪我が治るまで、この郷のみんなで助けようと決めました」
 堂々たる態度でそう語るカラヤを前に、使者が背後を振り返る。先程も使者と話していたイフティラームの男──彼がこの郷の首長なのだろう──はそれを見て、「ええ」と一見穏やかに微笑んだ。
「そのとおり。そも素性がどうであろうと、怪我した子供を放ってはおけませんからな。使者殿、あなたが職務に忠実であることはよく存じ上げておりますが、彼のことはしばらく、この郷で預からせてはいただけませんか。怪我を負っていて、まだ本調子ではないのです。今、ダフシャ行きに同行させたところで、使者殿のお手を煩わせるだけでしょう」
「あなたがそんな態度でいるから、カラヤ様までおかしなことを言うのです。奴隷に情けをかけるような真似をして、……この方は、ダフシャ王の血を継ぐ御方なのですよ」
「ああ、そのことでしたら申し訳ない。この郷には奴隷制がないものですから、ダフシャ流の作法を教えそびれまして。咎めは私が受けましょう」
 飄々とした態度で返すこの郷の人間が、イスタバルを守ろうとしてくれていることはわかっていた。親切なこの郷の人々は、なんの役にもたたぬイスタバルに食料を与え、衣服を与え、傷の手当をしてくれた。同じ郷の人間かのように扱ってくれた。
 けれど。
 「そんなの教わりたくない」ぼそりと呟いたカラヤの言葉が、ダフシャの使者にも届いたのだろう。腹立たしげな使者の視線が、再びイスタバルに突き刺さる。
──妹のことは、せいぜい忘れないでやれ。お前が陸地でヘマをやらかす度、痛い目にあうのは、そのヴィラとやらなんだから。
「俺が誰と友達になったって、かまわないだろ」
 堂々とそう告げたカラヤに、「友達?」と使者が問い返す。
 否定しなくては。そう思うのに、うまく言葉が出ない。口を開き、また閉じて、イスタバルは力なく首を横に振った。一方でカラヤは頑なな態度で立ったまま、意見を変える様子もない。
(ああ、だめだ、……)
 この郷の人達は、ただ善意からイスタバルを助けようとしてくれているのだ。イスタバルが本当は、ダフシャの息がかかった奴隷であるのだとも知らずに。
(それなのに俺のせいで、ダフシャの怒りを買ったりしたら、……)
「──友達ですと? その小汚い奴隷が?」
「俺だって、転べばこの程度の土はつく」
「そういう事を申し上げているのではありません。カラヤ様、あなたはダフシャ王のご子息なのですよ」
「そんなの、俺が望んだわけじゃない!」
 硬いその声に息を呑む。使者の怒りの矛先が、
 カラヤへ移ったことに、気づいたからだ。

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