風浪のヌサカン


-3-

 ふと、それほど遠くない位置に明るい声を聞く。楽しそうに笑い合いながら高台への道を駆けてくる複数の声は、恐らく子供のものであろう。カラヤがそちらを振り返ったのを見て、イスタバルも大岩を降り、顎を引いて口元を結ぶ。視線の先にいたのは、それなりに背の高い者から、手を引かれてようやく歩いているような年頃の者まで数人の、この郷の子供達であった。
「あっ、カラヤ様! さっき首長様が探してたよ」
 「俺を?」と怪訝そうにカラヤが問えば、年長らしき一人が頷いて、「使者様が、」とまず告げる。
「ダフシャの使者様が来たんです。それで、カラヤ様に……」
 ダフシャの使者。聞いてイスタバルはぎくりとしたが、ちらとカラヤを見て、驚いた。つい先程まできらきらと目を輝かせていたこの少年の顔に、いつの間にやら濃い影が落ちていることに気づいたからだ。
「ダフシャが来るのは、明日の予定だっただろ」
「でも、予定より早まったらしくて」
「……。わかった、すぐ行く。イスタバル、後はこいつらに案内してもらって。俺は首長様のところへいかなくちゃ」
 カラヤにそう言われ、イスタバルは緊張に、思わず左の拳を握りしめた。なら自分も戻ると言いかけて、しかしなけなしのプライドがそれを許さない。このお節介な少年に、心細さなど悟られたくはなかった。
「……、カラヤは、どうしてダフシャの使者のところへ行ったの」
 大股に立ち去ったカラヤを見送って、恐る恐る、他の子供達に聞いてみる。すると子供達は互いに顔を見合わせ、「でもなぁ」と勿体ぶった様子で言った。
「そのことを言うと、カラヤ様が怒るから……」
「どうして」
「どうしても何も、だって、なぁ」
 焦らしてはいるものの、本当は、知っていることを話してしまいたくて仕方ないような顔をしている。イスタバルが黙って答えを待てば、彼らは無邪気に、こう言った。
「カラヤ様は、もともとダフシャの人なんだよ。ダフシャの王様の子供なんだ。コウキな生まれの人なんだぞ。でも、ええと、首長様が」
「首長様に子供がいないから、養子になってもらったんだって。ダフシャの役人は大抵ちょっと感じ悪いけど、でもカラヤ様は全然偉ぶらないから、俺達、カラヤ様のことは好きだよ」
「カラヤ様、ケンカも強いし銛打ちも得意なんだ。頭もいいし」
「ダフシャの王様もカラヤ様のことが大事だから、度々使者を寄越してくるんだよ」
 子供達はあくまでも無邪気で、そしてどこか、誇らしげだ。
(ダフシャの、……王様の子)
 ダフシャ。その国のことは知っている。名も知らぬ故郷から流れ、奴隷となったイスタバルは、その名の国に買われたのだ。短い間のことではあったが、そこで暮らしたこともある。
──こんな痩せっぽち、海へ出して長くもつのか?
 ふいに脳裏へ蘇ったその声に、ぎくりと肩を震わせる。季節が二度巡るより前に聞いたその会話は、今も鮮明に思い出すことができた。
──西の民族は、身体が丈夫なことだけが取り柄でして。ああ、でも、この兄妹は物の覚えも良い方です。子供の奴隷をお探しなんでしょう。お買い得ですよ。
 暗い海で小船に揺られ、ようやく陸地にたどり着いた。だが人心地つくいとまも無く、首に縄をかけられ、馬や羊と同じように市場に繋がれていたあの日。不安に泣くヴィラを抱きしめて、じっと押し黙って震えるイスタバルを見下ろした、その男の冷たい視線を、今も、忘れられないままでいる。
──かの大国、ダフシャの方と取引させていただけるなど、願ってもないことです。金額の方は、勉強させていただきますよ。これ程でいかがです。
──よかろう。……怯えてばかりかと思えば、案外強い目をするじゃないか。これは、牙を折るのが楽しみだな。
「だからさ。カラヤ様のことを呼び捨てになんてしてたら、大人達に叱られるぞ」
 無邪気なその声で現実に引き戻され、はっと小さく息を呑む。脳裏を渦巻く過去の声に、思わず意識を奪われていた。
 高台に残った彼らはいつの間にやらイスタバルを取り囲み、カラヤに代わって郷を案内するには、どこへ行くのがいいかなどと頭を突き合わせて考え始めている。律儀なことだ。しかしイスタバルはおずおずと、彼らの誘いを断った。
 とてもではないが、今は、郷の観光を続けるような気分にはなれなかった。
 高台を降り、もと来た道を少し逸れて、神と精霊の家トンコナン・ペカンへ向けて一人とぼとぼと歩いていく。一人になりたい気がしたが、どこへ行けば一人になれるのかもわからない。
 何故こんなにも心が翳るのか、イスタバルにはわからなかった。
(カラヤ……。あいつ、友達になろうなんて言ったけど)
 カラヤの口にした言葉を、間に受けたつもりは少しもなかった。カラヤの身分がどうであれ、そんなものにはなれないと、初めから理解していたはずだ。歪な傷の走る左手を、奴隷であることの象徴のような醜い手を、ぎゅっと強く握り込む。
(そうか、あいつ、俺が奴隷だって知らないから、)
 親切なこの郷の人達は、イスタバルの正体を知らないからこそ、きっと優しくしてくれるのだ。イスタバルがダフシャに買われた奴隷であることも、このイフティラームへ流れ着いたのが単なる偶然ではないことも、まだ、何も知らないからこそ──、イスタバルのことを一人の人間として、まるで自分達と同等かのように扱ってくれるのだ。
(知られたく、ないな、……)
 このまま身の上を知られずにいられれば、彼らは優しいままでいてくれるだろうか。
 カラヤはイスタバルのことを、友達だと言い続けてくれるのだろうか。
 微かな期待を孕んだその思いが、ぽつりと胸に波紋を浮かべる。だが、──その瞬間。
 不意に視界が横転し、思わず小さく息を呑む。一体何が起こったのか、すぐには判じ得なかった。だが次の瞬間イスタバルの身体は、道から逸れた鬱蒼と茂る緑のうちに、投げ出されていた。
 背を強く地面に打ち、息が詰まって咳き込んだ。右腕がずきりと悲鳴を上げる。何事かと必死に視線を巡らすイスタバルを見下ろすように立つのは、覆面をした、見慣れぬ二人の男である。
「……誰、」
 震えを隠せずそう問うが、すぐさま口を塞がれた。どうやら彼らに肩を掴まれ、道の脇へと引きずり込まれて、それで転倒したらしい。頭を地面に押し付けられるような体勢から、なんとか抜け出そうと身を捩ってはみるものの、強い力に抗えない。
「お前の仕事を伝えに来た」
 言われてぎくりと、肩を震わせた。イスタバルがおとなしくなったのを見て取って、男がそっと手を放す。イスタバルは恐る恐る体を起こし、その場に座り込んだまま、自らを見下ろす二人の男を、じっと仰ぎ見た。
「こんな捨て策、どうせすぐに奴隷が死んで、終わりかとも思ったが──、騒海ラースの民の船で生き延びた上、あの嵐をもやり過ごすとは、案外根性があるじゃないか。イフティラームの連中にも、まだそれほど不信感はもたれていなさそうだ。上出来だよ」
 彼らの側に、イスタバルの返答を期待する様子はない。血の気の引いた顔のままイスタバルが黙りこんでいると、男達は一方的に、その用件を言って聞かせた。
 イスタバルがこの土地で、当面するべきことは三つ。今までに教え込まれた文字を忘れぬよう復習し、しかしこの郷の人々には、読み書きができるのだと悟られないようにすること。慈悲を乞い、この郷で暮らしてゆく許可を取り付けること。自分の境遇を説明する際、指示されたとおりの筋書きに則ること。
「お前は商船で使われる奴隷だったが、あの嵐で、乗っていた船が難破した。それで偶然、この郷へ流れ着いたんだ。他の乗組員の生死は一切不明。どこにも行くあてがない、そう言って同情を買え」
「……、はい」
 拒絶などできようはずもない。震え声で頷けば、彼らは満足げに笑ってみせた。
 肉付きのいい、どちらかと言えば大柄な男だ。騒海ラースの民ではない。ならばダフシャの人間だろうか。そういえば先程、ダフシャの使者がイフティラームを訪れたようだと聞いたばかりだ。この男達も、それに随従してきたのかもしれない。
「あの、……」
 用は済んだとばかりに背を向ける男達に、震える声で声をかけた。片方の男がうざったそうに振り返るのを見れば、緊張に心がしぼんだが、それでも勇気を奮い立たせなければならなかった。どうしても、気がかりなことがあったのだ。
「ヴィラが、……妹がまだ、騒海ラースの民の船にいるんです。ヴィラは夜、俺がいないと怖がって泣くから、あの、だから、」
「だから、なんだ?」
 苛立ちを隠さぬその言葉に、さっと背筋に寒気が走る。男に肩を掴まれた。小さな悲鳴を上げたイスタバルを前に、男達に容赦はない。肩を掴むその手が、イスタバルの左腕に走る歪な傷跡に触れたのを感じれば、顔にも背にも汗が湧く。
「この郷で少しばかり人間扱いされたからと、勘違いするなよ。お前は奴隷だ。お前も、その妹も、所有者に従順であること以外に価値などない。そのお前が今、一体、何を言いかけた?」
 左腕の傷跡が、痛みを伴い熱を帯びる。そうだ、この傷を刻まれた時だって、──刃を突きつけられ、泣き叫ぶヴィラを助けようと、必死に慈悲を乞うたのだ。けれど大人達は容赦なくイスタバルを力でねじ伏せると、身じろぎもできなくなるほど痛めつけてから、炙ったナイフで肌を裂いた。
「妹のことは、せいぜい忘れないでやれ。お前が陸地でヘマをやらかす度、痛い目にあうのは、そのヴィラとやらなんだから」
 恐怖で肩が、ぎくりと震えた。
 それ以上、何を言うこともできなかった。

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