外つ国のゲンマ


第三章 冠 -1-

 寒さの厳しいトビトの故郷、ナフタリは、テッサリア共和国連邦内の極北に位置する小さな島にあった。土地の大半は年中雪に覆われ、海は凍りつき船を出すこともままならない。そんな島で生まれたトビトは、しかしいつだって母の背で、彼女の歌を聞いて育った。
 母の顔はおぼろげにしか思い出すことができないものの、その優しい歌声は、今もトビトの内にある。歌うそばから積もる雪の中に消えてゆくようなその歌声は、素朴で、しかし暖かかった。
 島にはこぢんまりとした祈りの場があり、そこには足踏み式のベビーオルガンが置かれていた。母は稀に、歌いながらそれを弾いた。誰に教わったわけでもなく、独学でその扱いを覚えたのだと言う彼女は譜面を読むことすらできなかったものの、そのたった三十九鍵を愛していた。
 父はトビトに物心がつくより以前、狩りの最中に死んだらしい。
「父さんは、この島を守るユキヒツジになったの」
 それが母の口癖であった。灰褐色の毛皮に、顔の左右にぐるりと巻いた大角を持つ野の羊は、ナフタリでは古くから神の使いとして崇められてきた聖獣であり、町のシンボルでもあった。
「父さんと結ばれた時、ひとつ、約束をしたのよ。どちらかが最期の時を迎えたら、必ずぎゅっと手を握って、けっして放さずにいましょうって。そうして繋ぎ止められた魂は、この土地を守る獣になって、もう一方を見守り続けましょうって。──母さん、約束どおりにしたわ。だからあなたの父さんは、どんな時も私達を見守ってる。私達を助けてくれるの。それをどうか忘れないで」
 歌うようなその声で、母は何度もトビトに言った。そうしてトビトの手を握り、頬に顔を寄せて、こう願ったのだ。
「母さんの最期の時は、どうかあなたが手を取って。そうしたらずっと、あなたを守ってあげられる」
 死の色の濃い土地であった。葉の細い木々が立ち並び、乾いた風が吹き抜ける、夜の長い土地であった。けれど、トビトがそれを不満に思ったことは一度もない。この土地で生まれたトビトはこの土地しか知らず、いつか来る最期の日を語る、ナフタリの人々との生活は、彼にとっての日常であった。
 そんな生活に転機が訪れたのは、トビトが七歳の頃のことである。共和国の中枢から、老年の監査官がナフタリを訪れることになった。そのもてなしの一環として、トビトはこの監査官の目の前で、ベビーオルガンを奏でる役を仰せつかったのだ。この頃のトビトもまた、母と同じく譜面を読むことなどできなかったが、しかし耳で覚えた三十九鍵の扱いは、すっかり母より優れていた。
「くれぐれも、無礼のないようにね」
 トビトを案じて言う母に、幼いトビトは胸を張った。
「心配しないで、大丈夫だよ。どんな人がきても、きっと楽しくなっちゃうような、きらきらした音でおでむかえをするからさ」
 トビトの奏でる音の世界は、その頃いつも輝いていた。トビトが吹き込んだその風はいつだって、オルガンというトビトの第二の喉を通り、美しい旋律を紡ぎ出した。極寒の故郷の人々が、トビトのオルガンと、それに合わせて歌う母の歌声をどれほど歓迎したことか。頬を紅潮させ、軽やかな笑い声を響かせる彼らの表情は、トビトの心をも踊らせた。
 足踏み式のベビーオルガンは、足元に設けられたふいごを奏者自らが踏むことで、風を起こし旋律を紡ぎ出す。身長の足らないトビトは立ったまま、鍵盤にしがみつくように演奏していたものだ。ナフタリを訪れた監査官がそれを見て、あまりに喜ぶものだから、トビトも得意になって知る限りの曲を聞かせてやった。
 アカデミーで学んでみる気はないかと声をかけられたのは、半年ほど後のことである。
 紹介されたのは、全寮制の音楽アカデミーであった。なんともありがたいことに、実技試験に合格すれば学費は国の補助で賄うことができ、生活費などは例の監査官が、全額支援してくれるという。
 トビトのように辺境に生まれた下級市民にとって、それは夢のような申し出であった。噂を聞きつけた故郷の人々は、毎夜トビトを祝いに訪れ、常冬の土地を離れることを羨んだ。だがどんなに言祝がれても、トビトにはその羨望の理由がわからなかった。冷たく、残酷な死の香りのするその土地を、それでもトビトは愛していたからだ。
 トビトが望まないのなら、無理をすることはないと母も言った。母と別れるのは寂しく、恐ろしいことでもあった。けれどトビトと母とを養う親戚達が、馬鹿を言うなと一喝したのだ。
「アカデミーへお行き。お前がこのままナフタリにいたって、何の役にも立ちやしない。お前はあの玩具みたいなオルガンの腕を買われたそうだがね、オルガニストといえば、町では花形の職業だ。なにせ、神殿や祈りの場で演奏をするおかげで、神官様とのコネも作りやすいんだから。トビト、落第なんて許さないよ。母親に少しでも楽な生活をさせてやりたいなら、何をしてでも、その道で職を得るんだ」
 否と言えるわけもなかった。
 そうしてトビトは追い立てられるかのように、故郷を離れることになった。
「トビト。どんな時でも謙虚に、先生のお話をよく聞いて過ごすのよ」
 別れの際、母はトビトの髪を撫で、泣きそうな声でそう言った。
「寂しくなったら、あの星座を見上げて、母さんのことを思い出して。牛飼座の東にある、冠座ゲンマという春の星座……。お前がこれから奏でるオルガンは、パイプオルガンというそれは、楽器の王様と呼ばれることもあるのですって。母さんもあの星座を見るたび、楽器の王様に愛されて、きらきらした冠をかぶるお前の姿を想像するわ。──大丈夫、お前の奏でる音楽は、いつも希望に満ちているから」
 言い聞かせるような母の言葉に、トビトはおずおずと頷いた。見知らぬ土地は恐ろしかったが、それでも、優しい母を助けることができるなら、出来る限りのことをしようと、そう決意をしてもいた。
「約束する。僕、絶対に冠をかぶって、母さんのことを迎えに来るよ」
 ぽろぽろと涙を零した母は、しかし最後に微笑んだ。
 確か、そうであったはずだ。
 トビトは今でも、母の言葉をよく覚えている。だが何故なのかその表情を、彼女の優しい微笑みを、どうしても思い出すことができないのだ。だからトビトはずっと、母と奏でた三十九鍵ベビーオルガンの音だけを胸に生きてきた。
 優しく温かいその音色を。
「──なあ、あいつナフタリの出身なんだってさ。ナフタリってどこだか知ってるか? ほら、北の果ての」
「聞いたよ、あれだろ? アザラシやセイウチの内蔵を生のまま食べるっていう」
「なんでそんなやつがアカデミーにいるんだ? はあ、下級市民と同じ教室にいるってだけで嫌気がさすのに」
 アカデミーで、友人を作ることは難しかった。在校生のほとんどが上級市民の子息であるその学舎で、ただでさえ下級市民の出身者は肩身が狭く、中でも、最低限の身だしなみやマナーも知らない田舎者のトビトは、どうしたって周囲からは浮いていた。始めはなんとか周囲に馴染もうと努力したものの、上級市民の子らが執拗にトビトを爪弾きにするものだから、他の子供達も巻き添えを恐れてトビトに近づこうとはせず、トビトもそのうち、馴れ合うことを諦めた。
 それでも、母と奏でた三十九鍵のその音が、トビトの心を灯していた。周囲の仲間に入れてもらえなくとも、せめて懸命に学び、己の音を奏で続けた。アカデミーに設置されたパイプオルガンはネフィリム神殿のそれよりいくらも小さかったが、トビトは三段の手鍵盤を、連なる足鍵盤を、両側に並ぶ音栓ストップを、自らの喉で歌うように操った。
 トビトが良い成績を出せば出すほど、周囲は過敏にそれを妬み、尚更トビトを遠ざけた。だがトビトも、全くの孤独であったわけではなかった。一人でオルガンを弾くトビトに、時たま話しかける者がいたからだ。
「どんなにお前を見下したって、成績が悪ければ、みんな三年で落第だ」
 そう言ったのは、一学年上のオルガン専攻生である。けっして友好的な態度ではなかったものの、彼はトビトのレッスンにふらりと訪れては、何かと難癖をつけ、一方で担当教員以上に、細やかな指導をしてくるのが常であった。
「最近、祈りの場のオルガンを弾いて、小銭を稼いでいるらしいな。就労は禁じられていないが、落第するなよ。このぬるいアカデミーで、お前まで居なくなったんじゃ、張り合いがないからな」
「……先輩は、僕のレッスンに顔を出し過ぎじゃありませんか。ご自分の卒業試験だって、近いのに……」
 おずおずとトビトが言い返せば、そのオルガン専攻生──バラクは心底苛立った顔をして、トビトの演奏の粗を指摘した。
 正典派の高位神官の子息として生まれ、音楽の才能にも恵まれた、このオルガニストが、しかし誰よりも実力主義であり、心の底からオルガンを愛していることを、トビトもよく承知していた。
(僕は改門派に拾われて、バラク先輩は正典派の家に生まれた、……)
 だからきっと、この距離がちょうどいいのだろう。もし何のしがらみもなく、このオルガニストと、まるで友人のように音楽を語り合えたなら。そんな思いはあったが、望みを口には出さなかった。その代わり、トビトもバラクのレッスンの時には、そっと身廊に身をおいて、彼の演奏を楽しんだ。
 トビトに先んじてアカデミーを卒業する彼は、必ず高位神殿の──さもすれば、最高位であるネフィリム神殿のオルガニストの座ですら勝ち取ってみせることであろう。そうなれば次は、自分の番だ。
(卒業試験で優秀な成績を出して、オルガニストとしての冠を手に入れる。そうしたらきっと、生まれをとやかく言われることもなくなるだろう。自分の力で、生きていくのに十分なお金を稼ぐこともできる。……約束通り、僕は必ず、冠をかぶって母さんを迎えに行くんだ)
 そして母と二人、豊かな町で穏やかに暮らすのだ。
 この頃のトビトはまだ、それができると信じていた。
「──いい拾い物をした。学のない下級市民の信仰心をまとめあげるのに、お前の音楽はうってつけだ」
 アカデミーで学び、トビトが実力をつければつける程、それを取り立てた監査官は喜んだ。
 トビトの恩人ともいうべき支援者──改門派の神官でもあったこの男は、単なる慈善でトビトに学びの機会を与えたわけでなかった。改門派と正典派、共和国内に二派存在する神官団の派閥は互いに反目しており、それぞれの政権を盤石なものにするために、民衆の心を掴みプロパガンダに用いやすい芸術家を、己の傘下に多く取り込もうと画策していたのだ。
 どちらの教義に興味があるわけでもなく、ただ改門派の神官に拾われた故にそこに属したトビトであったが、それでも十分、彼の演奏は神官達の思惑通りに機能したと言えただろう。神官達が人々の前で神の教えを説く宣教の場には、トビトも必ず同行した。そうして与えられた衣服を身につけ、神官達の指示のとおりに大小様々なオルガンの音色を響かせる彼の音楽は、人々の心を魅了し、信仰心を掻き立てた。
 トビトにとっての音楽は、彼に唯一与えられた才能であり、周囲にとってその天質は、利用すべき資源であった。
 テッサリア共和国において、パイプオルガンを自在に操る技術を有するということは、──神の声を代弁する、この楽器を奏でるということは、つまり、そういうことであったのだ。

:: Thor All Rights Reserved. ::