第二章 共犯者 -3-
アマレク家。確かにそれがバラクの持つ家名だが、何故イナンナが知っているのだろう。高位神官を多く排出するアマレク家と、敵対する鉄塊の島民。その間に、何の関わりもあろうはずがないのに。
「いや、本人のことは名前しか知らないんだ。けどその父親の、アマレク家のサウルっていう人物について調べていてさ。これを君に伝えるべきか、わからないけど……。反戦派だった私の父は、以前から鉄塊の島民とテッサリア共和国民の和解の為に、共和国内でも賛同者を募っていたんだ」
イナンナのその言葉を聞いて、トビトは空になったスープ皿を持つ手に、ぎゅっと些か力を込めた。
聞けば、陸地との和解を訴えていたイナンナの父親は、陸地の権力者と以前から書簡を交わしていたのだという。彼が出した書簡は、鉄塊の島民の船が秘密裏に接岸しやすいシトゥークの町から、決まったルートで人々の手を渡り、このギデオンの町の誰かに届けられていた。
そうと知ったイナンナは、彼女の父の名を騙り、同じルートで書簡を出した。それをこの数週間の間、ある時は貨物列車に忍び込み、ある時は乗合馬車を使い、自分自身も度々運び屋に扮しながら、ただひたすらに追って来たというのだ。
「父の考えの賛同者なら、ダムガルを殺そうという私の行動にも、協力してくれるかと思ったんだ。結局、門前払いされただけだったが」
暗い予感に汗が落ちる。いつの間にやら心臓は、早鐘のように打っていた。まさか、まさかと思うのに、何故だか顔が上げられない。
続いたイナンナの言葉を、トビトは蒼白になって受け止めた。
「だけど、どうしてもわからないことがひとつある。父は、マサダで鉄塊の島民の襲撃が起こることすら、共和国内の賛同者へ事前にリークしていた。つまりあの書簡の受取人──アマレク家のサウルは、鉄塊の島民の動向も、あの襲撃のことも、全て知っていたはずなんだ。なのに彼は何故、共和国にとって有利に働くように動かなかったんだろう」
イナンナが、首を傾げてそう言った。書簡を追って行き着いたのは、──アマレクの家のサウル、バラクの父親であり、正典派の高位神官でもあるその人であったのだと。
「共和国の神官が、……反戦派とはいえ鉄塊の島民と、秘密裏に書簡を交わしていた、……」
頭の中を整理しようと、ぽつりとそう言葉に出して、トビトは肩を震わせた。
鉄塊の島民は海上の蛮族。神に見捨てられた、憐れな民族の末裔達──。人々にそう説く神官団が、テッサリア共和国の政を一身に取り仕切る神官団が、宿敵たる鉄塊の島民と、秘密裏に情報を取り交わしていた。その上で──、
マサダの襲撃が起こることを事前に察知していながら、それを公にせずにいた。
「改門派の集会が、……そこで行われることを、知っていたから、……?」
自分自身も気づかぬうちに、トビトはそう呟いていた。
──鉄塊の島民の襲撃だ! 早く逃げろ、死にたいのか!
──西の港が使える! 一人でも多く神官を逃がせ、なんだってこんな時に!
あの時。あの襲撃の際、飛び交った恐ろしい喧噪が、トビトの脳裏に甦る。
あちこちで響いた火薬の音に、建物の崩壊する爆発音。不協和音の如く重なる、不審、怒り、恐怖の声。崩壊した建物に押しつぶされ、痛みに叫び、身動きがとれず藻掻くトビトに背を向けて、我先にと駆け出す人々。銃を抱えてそれを追う、屈強な体つきの鉄塊の島民の兵士達、──
「トビト、君、何か知っているのか? その、改門派って一体何なんだ?」
イナンナが身を乗り出してそう問うても、トビトはすぐには答えなかった。答えることが出来なかったのだ。しかし必死に己の言葉を探り当て、腕を抱き、震えを押し隠すように、口早にこう説明する。
「テッサリア共和国の神官団にも、対立する二つの派閥があるんだ。旧文明の宗教の内、限られた一部の教典のみを正当なものとする正典派と、複数の教典を許容し融合をはかった改門派……。あの日、マサダの襲撃の日、僕は集会に行ったんだ。そう、あの日……、あの日マサダでは、改門派の集会が行われることになっていた。僕もそれに参加するために、マサダを訪れて──」
何のための震えであろう。己にそう問いかけても、ついぞ答えは得られない。
「酷い有様だった。町はめちゃくちゃ、あちこちに、息があるのかわからない人間が横たわっていて、……改門派の神官も、何人も亡くなったんだ。そのせいで、派閥内も随分荒れた、……。
書簡を受け取ったはずの、アマレク家のサウルは、改門派と対立する正典派の神官だ。あの日、改門派が壊滅的な痛手を負ったことで、今では政治のほとんどを牛耳っている、正典派の……。でも、まさか、政敵を不利に追い込むためだけに、そんな大事なことを黙っていたなんて。だって神官以外にも、何十人も犠牲になったんだ。あんな、あんな惨状を、もし事前に知っていたなら、」
これは、この国の闇を目の当たりにした、恐れからくる震えだろうか。
神官同士の不毛な派閥争いに、巻き込まれたことに対する怒りだろうか。
それとも。
ふと、トビトに触れた何かがある。トビトは咄嗟にそれをはね除けて、しかしそれが気まずそうに眉根を寄せるイナンナの手であったことに気づき、ごくりと息を呑み込んだ。
「……、ごめん」
「いや、謝るのは私の方だ。やっぱり、君に聞かせる話じゃなかった」
戸惑った様子で言うイナンナに、咄嗟に首を横に振る。
「知れてよかった」
その言葉が己の口から飛び出したことに、トビトははっと息を呑む。
恐れからくるものではない。
怒りでもない。──この震えは。
「知れてよかった。あんたに会えてよかった。あんたを助ければ、マサダの襲撃を起こした、ダムガルを殺すことができる。ダムガルの裁判を取り仕切る、神官達にも一泡吹かせることができる。その上、──あんたの思惑どおり、共和国と鉄塊の島民の全面衝突を避けられるかもしれないだなんて、まるで英雄みたいじゃないか。抜け殻みたいなこの僕に、神様が一度だけ、機会を与えてくださったとしか思えない」
──君が死地を探しているなら、それを提供することはできる。
イナンナはトビトにそう言った。それだけだって空っぽのトビトにとっては、何にも勝る恩恵だと思われたのに。
「全て終わらせられるだけだって、幸せだと思ったのに。……あんたのおかげで僕の死に、きっと価値が与えられる」
「価値、……」イナンナが、ぽつりとそう呟いた。
ふと視線を上げた先に、錦糸の頸垂帯──ユキヒツジのモチーフが刺繍された、美しい掛け布が垂れ下がっている。トビトの故郷、一年の殆どを雪に覆われる極寒の地、ナフタリから贈られたその品を、トビトはいつだって後悔の念に苛まれながら眺めてきた。
約束を果たすことが出来なかった。手酷い裏切りをした。
それでも最期に、価値あることを成し得たなら。
「僕は赦してもらえるだろうか」
言葉は、滲むように零れ出た。
自身の発したそれに怯え、思わず身体を竦ませる。その肩にそっと触れたのは、イナンナの手だ。気づけば彼女はトビトのすぐ隣に腰掛けて、じっと様子をうかがっている。トビトが黙ったままでいると、彼女は気遣わしげに、だが力強くその肩を撫ぜた。
「……トビト。もしよかったら君のこと、もっと聞かせてくれないか? もっと知っておきたいんだ。手を貸してくれる君のこと、私の共犯者のこと、──私が目的を達するために、殺さなきゃならない人のこと」
「僕のこと?」青ざめたまま、思わずそう問い返していた。トビトについて、一体何を知ろうというのだろう。改門派の、元オルガニスト。マサダの襲撃で足を失い、価値を失ったが故に放逐され、今はカルカントとしてネフィリム神殿に仕えている。他人が知りたがるトビトの象など、それが全てであろうのに。
「面白い話なんて、何もない」
「面白くなくていい。君の話を聞きたいだけだ」
優しいばかりの口調でないのが、彼女らしい。出会って間もない相手にそう思うのを不思議に感じながら、しかしトビトが黙っていると、彼女は続けてこう言った。
「君の足を奪った、憎い鉄塊の島民の一員である私に手を貸してまで、死を望む君は、──一体、何に赦されたいの」
トビトに問うその目には、有無を言わせぬ力がある。
気づけば小さく頷いていた。彼女に全てを話してみようと、そう思った。そんな事をしたからと言って、何がどうなるわけでもない。しかしこれまで、誰の関心も得ることのなかったトビトの人生に、誰かが耳を傾けてくれるのなら。
おずおずと、しかし順を追って、トビトは彼女に語り始めた。己にはおよそ持ちえない、何某かの意志を灯したその瞳に、導かれてゆくかのように。