外つ国のゲンマ


第三章 冠 -2-

「故郷から手紙が届いたのは、宣教同行にも随分慣れた頃だった」
 ベッドに腰掛け、項垂れたまま、そっと自らの両手を開く。トビトの両手足はその頃、全てオルガンを奏でるためのものであった。楽器の王に付き従う、声なき従者のそれであった。
「ナフタリで暮らす母さんが、事故に遭ったという報せだった。氷の薄まった湖面に落ちて、酷い凍傷を負ったと、手紙にはそう書かれてた。一命はとりとめたけど、自分で歩くことも出来ず、ただ、……僕に会いたいと言っている、って」
 アカデミーで学び始めてからのち、トビトが故郷へ帰ることは一度もなかった。凍った海を隔てたナフタリは遠く、そこへ至るまでの旅費も、休暇も、捻出することが難しかったのだ。故郷からの手紙を受け取ったその時も、環境に変わりはなかった。むしろトビトの演奏が評判を呼べば呼ぶほど、神官達は宣教の場にトビトを伴わせようとしたし、彼らの支援を受ける身であるトビトには、それを拒める自由もなかった。
──母さんの最期の時は、どうかあなたが手を取って。そうしたらずっと、あなたを守ってあげられる。
 幼い頃、幾度も聞いたその言葉は、トビトの耳に残っていた。だが、まだその時ではないはずだと、独りよがりな確信もあった。優しい母はいつだって、トビトのことを守ってくれた。トビトのことを励ましてくれた。トビトの故郷の記憶の中に、今も偉大に存在し続ける母が、そんなに呆気なく、その時を迎えるはずなどないと思えた。
 アカデミーの卒業試験まで、三ヶ月を切っていた。試験で高い評価を得、高位神殿のオルガニストの椅子を勝ち取れば、余裕のある暮らしができる。ナフタリから母を呼び寄せて、中級市民の使う病院で、医者にみせることもできる。
 その椅子を、勝ち取る自信がトビトにはあった。
「ただ支援者の不興を買うことだけが怖かった。オルガンは全て神殿や祈りの場の所有物だから、アカデミーを卒業した上で、神官の支持を得なければ、オルガニストになれはしない。アカデミーの寮からナフタリまで、片道でも一月はかかる距離だ。帰れるはずがなかった。帰るべきじゃないと思った。それで僕は、故郷に返事もできないまま、──改門派の集会に参加するため、マサダの町にある神殿へ向かったんだ」
 「マサダ、……」トビトの話にじっと耳を傾けていたイナンナが、初めてぽつりと呟いた。しかしトビトは彼女に見向きもしないまま、ただ小さく頷くだけだ。
 マサダの、あの襲撃の日。末席に座らされていたトビトはその耳で、誰よりも先に異変に気づいていた。窓の外に何やら、耳慣れぬ音が聞こえていた。それが人々の悲鳴と、そしておそらくは銃声であると理解するまでに、それほど時間は要さなかった。
 様子がおかしい、外でなにか起こっているようだと伝えたものの、集会を解散し、避難しようと決まるまでに、思った以上に時間がかかった。会を指揮していた神官達も、まさか自分達のいる神殿にまで、攻め込まれるとは思いもしなかったのかもしれない。だが降って湧いた兇刃は、鉄塊の島民アトラハシスの襲撃は、すぐに神殿の喉元へまで到達した。
──海を彷徨う鉄塊の島民アトラハシスに、永遠の土地を!
──不当に追われた土地を、血によって取り返せ!
 ようやく避難が決まったものの、高位神官を優先させる方針により、トビトは最後の最後まで、逃げることすら許されなかった。神殿からも火が出たが、どこかしらに用意されていたという地下通路への抜け道や、狭い裏口に神官達が殺到したので、最終的には使用人達と共に、正面出口から外へ出た。
 そうしてトビトはマサダの町の、その惨状を目にしたのである。
「内地へ逃げようとした途中、崩れた建物の下敷きになって、それで右足を潰された。助けを呼ぶ内に意識が朦朧としてきて、気づいたら数日後、施療院のベッドの上にいたんだ。その頃はまだ神官の関係者だったから、看護は手厚かったよ。ひと月も経たない内に、慣れない義足と一緒に追い出されたけどね。でも、……」
 絞り出すようにそう言って、ふとトビトは立ち上がった。そうして無機質な壁に掛けてあった、場違いなそれに手を伸ばす。
「実のところ、鉄塊の島民アトラハシスばかりを恨む気持ちは、あまりないんだ。きっとこの足は、僕にとっての罰だから」
 ユキヒツジの刺繍が施された、世界に一つしかない頸垂帯ストーラ。故郷から、最後の手紙とともに贈られたそれを見る度に、トビトの心は途方もない罪悪感の渦に呑まれ続けてきた。
「施療院を追い出されてしばらくの間、どうしたらいいかもわからないまま、安宿にずっと籠もってた。そのうち所持金も尽きて、途方に暮れていたところに、偶然近くへ宣教同行に来ていたバラク先輩、……アマレク家のバラクと再会したんだ。神殿のカルカントとして雇ってもらえることになって、この町に部屋を借りて、それでようやく、故郷から荷物が届いていることに気がついた」
──母さんの最期の時は、どうかあなたが手を取って。
「神殿のオルガニストは神官と同じように、錦糸で刺繍された頸垂帯ストーラを肩から提げることになっている。大抵、頸垂帯ストーラの模様にはその家の紋章を使うんだけど、……僕の故郷にはそんなものはなかったし、頸垂帯ストーラの話なんて、故郷への手紙に書いたことすらなかったんだ。けど、どこかで誰かに聞いたんだろう。母さんは僕が届けた仕送りを、ほとんど錦糸を買う為に使って、これを作っていたらしい。──息を引き取る、ほんの数日前まで」
 オルガニストとなり、この頸垂帯ストーラを身につけたトビトを見るのが、楽しみだと話していたそうだ。けれど彼女の息子はついに故郷へは戻らず、母の最期を看取ることもなく、そうまでして得ようとしたゲンマすら、手にすることなく生きている。
「共和国とか、鉄塊の島民アトラハシスとか、改門派も正典派も、僕、本当はどうでもいいんだ。イナンナ、あんたは共和国と鉄塊の島民アトラハシスの全面衝突を避ける為にここへ来たと言ったけど、もしあんたがこの国を滅ぼすために来たんだと話したとしても、きっと従ったよ。僕はずっと、僕のことなんかなんとも思っちゃいない他人に利用されることで生きてきて、それで、本当に大切なものは全て失った。だから誰かに利用されて死ぬのなら、それこそ似合いの死に方だと、──そう思えて、仕方ないんだ」

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