外つ国のゲンマ


第一章 神の声 -3-

 晴れた春先のことであった。春とは言ってもまだ冷たいその風は、古い外套の隙間から、容赦なくトビトの肌に突き刺さる。殴られて熱を持った身体が冷えるのを感じながら、外套の裾が風に遊ばれるのをされるがままにして、トビトはじっと海を見た。
 果てのない海。この海の先になにがあるのか、最早人智の及ばぬ世界。かつてこの星の周りを巡っていた人工衛星はいずれも寿命を迎え、宇宙の些末なゴミと化したと聞いている。海を隔てた遠い国々との交流はなく、近海の海へ漁に出ることはあっても、必要以上に沖へ向かう者などありはしない。生態系の変化した海には化け物のような大型生物が多く棲むため危険であり、また、そうでなくとも鉄塊の島民アトラハシスと呼ばれる旧文明の船に乗った人間達に、身ぐるみ剥がれて命を落とすのが関の山だからだ。
 鉄塊の島民アトラハシス。かつて海面上昇エンリルが起こった際、陸地の所有権を奪い合う争いに破れ、海上を彷徨うことになった流浪の民の末裔達。過酷な海をどう生き抜いているのかは知れないが、土地を得ようとする彼らが、トビト達共和国民にとって、招かれざる客であることだけは確かであった。
 沿岸部での略奪行為に、都に潜入してのテロリズム。今日の裁判も、総統府に囚われた鉄塊の島民アトラハシスの男──多くの共和国民を死なせ、トビトの右足をも奪ったマサダの襲撃を指示したと目されるその男を、裁くためのものであった。
 きらきらと照る海面が、ふとトビトの目を灼いた。そうして視線を足元に落とし、思わず小さく笑ってしまう。膝から下をばっさりと切り落とされた、不完全なトビトの右足。一年半前、鉄塊の島民アトラハシスの起こした襲撃に巻き込まれ、失われることになるその時まで、それはトビトの自慢の足であった。
「どうせ奪うなら……、命ごと全て、何もかも、奪ってくれればよかったのに」
 疲れ切った声で、呟いた。全て奪ってくれればいい。最早怒りも湧いてこない。ただ空虚なその言葉だけが、トビトの喉を渇かしていく。
 杖をついて義足を引きずり、殴られた傷を庇うように、町への道を降りはじめた。今夜は広場に市が立つ。できるだけ人混みを避け、手短に買い物を済ませて家へ帰ろう。明日からもまた、変わらぬ日々が続くのだ。せめて殴られずに済むよう、体を休ませておかなくては。
 だがトビトが溜息を吐いた、その時。
 前方に、何やら人影があった。子供だろうか。そうだとすれば、引き返すようにと伝えてやらねばなるまい。この先にあるのは神殿と、テッサリア共和国連邦の中枢たる総統府だけなのだ。下級市民はそこで働く者以外、立ち入ることを禁じられている。トビトとて、神殿より向こうの総統府区画には向かったことすらないのだ。この道を使うような下級市民の子が誤って迷い込みでもすれば、子供もその親も、厳しく罰せられるだろう。
 だが目を凝らしたトビトは、こちらへ向かってくるその人物を見て、思わず眉間に皺を寄せた。
 確かに小柄ではあるが、こうして見るとどうやら、子供というほど小さくはない。頭からすっぽりとローブを被った風貌だが、その人物は確固たる意志を持って、坂を上がってくる様子である。
 ギデオンの町に住む下級市民が、無闇にここを通るはずはない。だが、ならばトビトと同じくこの先の施設で働く者かとも考えてみても、この時間から働くような役職に心当たりがない。足を止めたトビトが黙って凝視していると、また一陣の風が吹いた。
 力強いその風が、冷気を伴い駆け抜ける。その人物は怯んだ様子で身を竦ませ、しかし抗う間もなく、風にローブを乱されている。
 頭から被っていた布が、ぱさりとその肩に落ちる。
 はっとした様子で見開いたその目と、トビトの目があった。
 知らぬ顔の青年であった。
 日によく焼けた健康的な肌の色に、ざんばらに切った黒い髪。トビトと同じ年頃のように思われるが、それより幾分背が低い。相手はぎろりとトビトを睨み、気まずげにローブを被り直すと、また神殿への坂道を上がっていく。
「あ、──待って!」
 すれ違いざま、咄嗟に相手の肩を掴んでしまってから、トビトは小さく息を呑んだ。自分でも、何故そうしたのかわからなかったのだ。道をゆくのが分別のつかぬ子供であったなら、呼び止めなければと思っていた。だが実際はそうでない。知らぬ顔だが、これ程までに堂々と道を上がってゆくのだから、最近雇われた人間なのかもしれない。あるいは。
(気まぐれにここを歩いただけの、……上級市民だったりしたら)
 ゆったりとした袖のシャツに、色の掠れた鳶色のローブ。この青年の身なりから、まさかそんなはずがないと思いながらも、トビトの肝がふと冷える。弾かれたように手を放し、「僕はただ、」と言い訳がましく言葉を続ければ、不意に視界がぐらりと揺れた。咄嗟に後ずさった際、義足が泥濘ぬかるみにはまり込み、体勢を崩したのだ。
 奥歯を噛み、目を瞑って身構える。また転倒する、そう思った。しかしそうなるより早く、──トビトの腕を引く、強い力がある。
「大丈夫か」
 問うたのは、まだ幼く、思ったよりも高い声であった。トビトははっと目を開き、自身の置かれた状況に気づくと青ざめて、──思わず短く、悲鳴を上げる。
 己の右手と左肩とが、先程の青年にしっかり抱きとめられている。青年、いや、女性かもしれない。トビトを支える腕の力は強いものの、こうして間近で見れば、存外に首も細く肩幅も狭い。だがその瞳だけは陽に照る海面のように、ぎらぎらと強く輝いている。
「私に、何か用でも?」
 問われ、慌てて首を横に振った。そうして咄嗟に身を引けば、彼女はようやく手を放し、しかし隙のない様子で周囲に視線を配ると、「君は?」と続けてトビトに問うた。
「君は一体何だ? 坂を降ってきたということは、神官か?」
 トビトの身なりを見れば、神官でないことなど一目瞭然であろうものだが、表情は至って真剣だ。「違う」とトビトが小さく返せば、彼女はそれでも視線を逸らさず、何か考えるような仕草をしてから、こう言った。
「まあ、いい。神殿に用があるんだ。案内してくれないか?」
 「え、」と思わず声を漏らしたトビトのことなど、彼女が構う様子はない。くるりと踵を返したこの人物は、当然のようにトビトの腕を引いた。
「放してくれ。あんた、一体何者なんだ」
「神官ではない、という意味では、君と同じさ」
「そんな事はわかってる。それより、神殿へ行ってどうする気だ。今日は礼拝も裁判も、もう全て終わってる。大体、神殿内に入れるのは、中級以上の市民だけだ」
「ふうん。共和国にも、随分立派な身分制度があるようだ」
 聞いて尚更困惑した。この言い草ではまるで彼女が、共和国外の人間であるかのようではないか。
(……まさか)
 まさか、そんなはずがない。共和国外の人間が、こんな風に当たり前の顔をして、まるで善良な一市民のような顔をして、辺りを歩いているわけがないのだ。海面上昇エンリルで陸地が絶たれてからというもの、テッサリア共和国連邦にとっての国外というのは即ち海の外のことであり、最早存在すら確かではない他の陸地の人間でないとすれば、そこに住んでいるのは、──獰猛で野蛮な、鉄塊の島民アトラハシスの人間だけなのだから。
──鉄塊の島民アトラハシスの襲撃だ! 早く逃げろ、死にたいのか!
 耳にこびりついた雑音が、脳裏に強く甦る。
──向こうはもう駄目だ、火のまわりが早くて近づくことすらできん!
──お願いします神官様、この子だけでも、連れて逃げていただけませんか。
──なんだってこんな日に限って、ああ、畜生!
──高位神官から逃がせ、お前は後回しだ!
──誰か、……誰か! 瓦礫に足を取られて動けないんです、どうか、どうか助けてください……!
 ごくりと唾を飲み込んで、彼女の後についていく。トビトには正直、自分が何故そうして大人しく、彼女に従うのかがわからなかった。この人物は有無を言わさぬ態度でトビトの腕を引いたが、しかし義足を引きずって歩くトビトに配慮しているのか、速度は随分緩やかだ。
 手を振り払ってゆくこともできる。そうするべきだ。トビトの中の冷静な部分が、己に対し、そう語りかける。
 だが。
──どうせ奪われる夢だったなら、……どうして全て、奪わなかった。
 どろりと湧き出た希望の光が、まるで彼女の手から伝染したかのように、トビトの指先にちらついた。
 わかっている、手を振り払うべきだ。今日までと同じ日々を、続けていこうと思うのなら。
 トビトに与えられたこの生を、永らえようと思うのなら。

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