外つ国のゲンマ


第一章 神の声 -4-

「……、正面へ回ったって、神殿内には入れないよ。カルカントの通用口を使えば、話は別だけど」
 おずおずとトビトが呟けば、先を歩く彼女は、驚いた様子で振り返る。「案内してくれるのか?」と問うその言葉が疑い深げなのを見て、トビトは思わず苦笑した。
「いいよ。神殿に用があるんでしょう」
 我ながら随分と、おかしなことをしているものだ。立ち止まった彼女の脇を通り抜け、先程かけたばかりの鍵を解く。そうしてトビトはこの奇妙な人物を、ふいご室へといざなった。
 慣れた石造りの階段を上がり、ふいごの横を通りすぎる。周囲に人がいないことを確認し、神殿の内と外とを隔てる、鉄の扉に手をかけた──。
 蝶番の軋むかすかな音。吹き抜けになった神殿の二階、パイプオルガンの演奏台コンソールがある階へと続く扉が開くにつれ、視界を刺すその眩い光に、トビトはそっと目をすがめる。
 夕陽の落ちる頃合いであった。昼夜を問わず薄暗いふいご室とは違い、ステンドグラスの張り巡らされた神殿内は、沈みゆく夕焼けの光を一身に取り込んで、きらきらと柔く輝いている。
 扉を開けきったトビトが脇へ寄ると、例の人物は一言も発さないまま、神殿内へと踏み込んだ。そうして吹き抜けから階下の祭壇を見、連なる連邦州旗を見、天井のモザイク画を仰ぎ見ると、ぽつりと小さく、言葉を零す。
「これが、……芸術」
 感慨に耽る彼女を見て、トビトは思わずぎくりとした。じっと神殿内を見渡す彼女の瞳に、うっすらと、涙の線が浮かんだように思われたのだ。見てはならないものを見た。何故だかそんな気になった。だが涙と見えたものは、どうやらトビトの見間違いであったらしい。はっと振り返った彼女は控えめに、しかしどちらかと言えば脳天気な調子で、トビトに向かってこう言った。
「質問をしても良いだろうか」
 既に裁判の片付けも終わった神殿内に、人の姿は他にない。そうでなくとも、前後を無数のパイプに囲まれたパイプオルガンの演奏台コンソール付近は、身を隠すのにもおあつらえ向きだ。少しばかり、ここで会話を続けたところで見咎められはしないだろう。
 それでもトビト自身は扉をくぐらず、ただ小さく頷いた。彼女は頬を綻ばせ、勢い込んでこう問うてくる。
「あの天井の絵は、どうなっているんだ? 塗料で描かれたようには見えないが」
「あれはモザイク画だよ。小さなタイルを集めて、絵になるように埋め込んであるんだ」
「タイルを集めて、わざわざ……? ではあの像は? まるで薄絹をまとったように見えるが、石像だろう。何故石で、あんなふうに布の質感を出す必要が?」
 彼女の質問は突飛なものが多かったが、それでもあまりに真剣だ。トビトはあくまでも扉の外から足を進めず、しかしわかる限り、尋ねられる様々なことに答えていった。トビト自身は博識な方ではないが、神殿内においてのみ言えば、それなりのことを学んでいる。そうしていくつかの質問に受け答えていくと、彼女はしかし、どこか他人事のように「美しいな」とぽつり、呟いた。
「芸術の非合理性について、理解は出来なかったけど、……でも理解とは別のところで人の心を震わせる、それがきっと芸術なんだろうな」
 トビトはそれに答えなかった。この国に管理された芸術が、ただ人々を魅了するためだけにあるのではないことを、身をもって理解していたからだ。
 そうして続いたその質問に、トビトは言葉を詰まらせた。
「君は随分詳しいな。神官じゃないということは、学生か? この辺りでは、何かしら秀でる才能があれば、どんな生まれであっても教育を受ける機会があると聞いたんだが」
 「ああ、」曖昧に頷いた。
「一昨年まで、音楽アカデミーで学んでいて、……。パイプオルガンの専攻だったから、神殿内のことは、少し詳しいんだ」
 「オルガン」と聞き返すのを見て、トビトは語らず視線だけで、彼女を取り囲む、巨大な楽器を振り仰ぐ。彼女もそれを追うように、今更ながら周囲に並び立つ無数のパイプを見回して、──唖然とした様子で、呟いた。
「この巨大な装置が、……オルガン?」
 見上げてなお余りある、ネフィリム神殿のパイプオルガン。天に向かって並び立つ無数のパイプは銀色に輝き、意匠の凝らされた天使の彫刻が演奏台コンソールを、そして神殿の内部を見守っている。
「オルガンのこと、噂には聞いてたんだ。裁判の判決が下ると、この楽器が、判決内容に応じた曲目を奏でるんだろう? このパイプから音が出るのか。……パイプの数にも驚いたけど、その、椅子は一つしかないのに、鍵盤が四つもある」
「足元にあるのも、鍵盤だよ。オルガニストは一人で、その全てを操るんだ。正確な数を知る人はいないけど、このオルガンには五千八百ものパイプが設けられているって聞いてる。七十二個並んでいる音栓ストップで、発音するパイプ群を選択して、鍵盤で旋律を奏でるんだ。今は何の音もしないけど、裏のふいご室から風を送れば、鍵盤が押されることで風箱から特定のパイプに空気が送り込まれて、音が鳴るようにできてる」
「……。君は、このオルガンの奏者なのか?」
 目の前の巨大な楽器に気後れしたように、おずおずと彼女が問う。トビトは一度目を伏せると、「いいや」と軽い口調で言った。
 確信を得て、笑ってしまった。もし彼女がこの国の人間であったなら、神殿内に設けられたパイプオルガンのことを知らぬはずはなく、トビトのような身なりの人間が、まさかこのネフィリム神殿のオルガニストであるなどと、考えるはずもないのだから。
「そうなれたらよかったけど、この足じゃ、ね……。マサダの襲撃に巻き込まれたんだ。僕は元々足鍵盤の演奏技術で点を稼いでいるオルガニストだったから、この足じゃ、続けられなくて、……」
 ぎゅっと拳を握りしめ、顔に微笑みを貼り付ける。
「……、つまらない話をしてごめん。そろそろ外へ出ない? あまり長くここにいて、神官に見つかったら厄介だ」
 トビトが言えば、彼女はもう一度ちらと神殿内を見回して、それから小さく頷いた。
 鉄の扉を閉じ直し、ふいごの横を通り抜ける。彼女が後ろについてくるのを感じながら、トビトはふと、「自己紹介が遅れたけど、」と振り返らぬままそう言った。
「僕はトビト。あのオルガンに風を吹き込むカルカントだ。あんたは?」
 応えはすぐには返らない。それでもしばし待っていれば、「イナンナ」と囁くような声があった。
 イナンナ、やはり女性名だ。だがそんなことはどうでもいい。ふいご室を出る直前、トビトは唐突に足を止めると、──震えを隠して、振り返る。
 薄暗いふいご室の一画。閉ざされた窓の隙間から射し込む、ぼんやりとした柔い光が、目の前に立つ彼女の輪郭を照らし出す。先程まであんなにも楽しげに神殿内を見回していたこの人物は、しかし今ではにこりともせず、ただ真っ直ぐにトビトのことを見据えていた。
「イナンナ。あんたと偶然出会えたこと、僕はとても嬉しいんだ。ずっと願っていたことを、これでようやく叶えられる気がする」
 イナンナは応えない。だが既に多くのことを、彼女は察しているのだろう。彼女が己のローブの下に、そっと手を差し入れたのを見て、トビトは浅く目を伏せる。
 嵐の再来を、待ちわびていた。
「この国の人間じゃ、ないんでしょう」
 突き放した口調でトビトが告げれば、イナンナの目蓋がちらと揺れた。
「あのマサダの襲撃の時、あんたもその場にいたのかな。あんた達のこと、僕はよく知らないけど、……。でもあの日のことは覚えてる。僕は用があって、マサダの港を訪れていたんだ。そこへ、巨大な鉄の塊が乗り込んできた。鉄塊の島民アトラハシスの襲撃だ」
 嵐を。いっそあの時と同じように。
 トビトの住むこの窮屈な世界を容赦なく蹂躙し、根底から覆す、
 猛々しい、凶悪な、嵐を。
「酷い光景だった。銃声と、人々の叫び声が辺りに充満して、町はパニックになって、……子供も老人も関係なく襲われた。建物には火が放たれて──。イナンナ。あんたもその光景を見たんじゃないのか。あの鉄の船から飛び降りて、陸地の奪還を叫びながら、銃を片手に、逃げ惑う共和国人を追いまわして、」
 言いかけたその言葉を、最後まで発することは出来なかった。
 イナンナが不意に手を伸ばし、トビトの胸ぐらに掴みかかる。石の壁に追い詰められ、強かに背を打ち咳き込んだ。彼女のもう一方の手に鋭利なナイフが握られているのを見ながら、しかしトビトは抵抗しない。
「本当にそうだったら、どうする?」
 されるがままのトビトを相手に、イナンナの言葉は挑発的だ。
 鉄塊の島民アトラハシス。旧文明の船に乗り、海を彷徨う、──獰猛なテロリスト達。こうして単身陸地に上がった彼女の目的は、一体何であるのだろう。マサダで襲撃を起こしたのと同じように、この町でも、また凄惨な事件を引き起こそうとしているのだろうか。
 だが、
 目的など、トビトにとってはどうでもいい。
「悪いが案内を頼んだのは、その粗末な義足の君相手なら、何かあっても十分応戦しうると判断したからだ。トビト、どういう意図であったにせよ、見ず知らずの私を案内してくれた、君の善意に報いたい。ここで私と会ったことは、一切忘れてくれないか」
 押し殺したイナンナの声に、トビトは唾を飲み込んだ。何某かの決意を宿したイナンナの瞳は、濡羽色ぬればいろのその目は、トビトの視線を鋭く射抜き、まるで獣の形相だ。
 しかしだからこそ都合がいい。相手が獰猛な鉄塊の島民アトラハシスであればこそ、──トビトの望みは、叶うのだから。
 暗い希望を抱いたまま、手の内に汗をかきながら、そっと静かに息を吐く。
「肝の座ったやつだな。死が恐ろしくないのか」
 聞かれてトビトは笑ってしまった。
「怖くないよ」
 まるで己に言い聞かせでもするかのように。だが縋るように、本心から。
「怖くない。僕はもう、死んでいるようなものだから」
 射抜くような視線は変わらないものの、胸ぐらを掴むイナンナの手から力が抜けた。首元に押し当てられていたナイフがおろされたのを見て、トビトは無意識に息をつくと、乱れたシャツを掻き直す。手足ががたがたと震えるのを堪えることは出来なかったが、それでもトビトは喉を湿らせると、項垂れて、イナンナに対しこう続けた。
「あの日、あのマサダの襲撃で、──僕は右足も支援者も、守らなきゃならない約束も、何もかも全て失った。命があっただけ良かったと、他人はそう言ったけど、僕はそんなふうに思えない。このまま生きてゆくよりも、死んでしまおうと何度も思った。けど自殺者は死後、神の国へ行けないと聞くから」
 なけなしの信仰心をせめてもの言い訳に、「だからあんたが」とトビトは言った。
「あんたが殺してくれるなら、残りも全て奪ってくれるなら、僕にとってはそれが、それが何よりの救いなんだ」
 イナンナはぴくりとも表情を変えず、ただ隙のない目でトビトのことを見据えている。トビトの言葉に他意があるのではないかと、疑ってでもいるのだろうか。
 しばしの逡巡の末、イナンナはその声に戸惑いの色を残しながら、「君が、」とトビトにそう言った。
「君が右足を失ったこと、気の毒だとは思うが、責任を取って殺してやるようなことはできない。私は確かに鉄塊の島民アトラハシスの一員だが、マサダの襲撃には関与していないし、あの事件は私達にとっても最悪の事態だったんだ。そうでなくとも、こちらだって、陸の人間には散々な目に遭わされてきた。──ただ、」
 「君が死地を探しているなら、それを提供することはできる」存外に柔いその言葉に、トビトはそっと顔をあげた。対峙するイナンナは、じっと真正面から、トビトのことを見据えたままだ。意思の強い目。何かを為そうと奔走する者の目。トビトの持ち得ないそれは、海に照るあの夕焼けのように、心を眩く灼き焦がす。
「トビト。君は私達のことを恨みに思っているのかも知れないが、それを承知で頼みたい。力を貸してくれないか。神殿内のことに通じている、君のような人間の協力を得られるならありがたい」
 イナンナが、不意にトビトに手を延べた。思うより小さな、しかし力強いその両手が、痩せたトビトの手を握る。気後れしたトビトが咄嗟に身を引こうとしても、けっしてその手は放されない。
「誓って言うが、私は君達に害を為そうとやって来たわけじゃない。陸と海との人間が、全面衝突するのを避けたいんだ。囚われた鉄塊の島民アトラハシスの裁判が、ここで行われているのは知っているだろう? 君が足を失ったマサダの襲撃は、まさしくあの男が仕組んだことだ。だけど襲撃で死んだのは共和国民だけじゃない。あの男にけしかけられ、陸に上がった鉄塊の島民アトラハシスだって、そのほとんどが死んだんだ。それなのに、──あの男は、今ものうのうと生きている」
 イナンナの言葉は明瞭だが、そこには隠しきれない、静かな怒気が込められている。
「……どうか私を助けてくれ。しくじるわけにはいかないんだ。代わりに全てが無事に済んだら、その時も君が死を望むなら、私が君を死なせてやろう。
 私は鉄塊の島民アトラハシス改革派、指導者エフライムの娘、イナンナ。父はマサダの襲撃が起こることを事前に知り、それを食い止めようとして、あの男、分艦長のダムガルに殺された。陸の人間と語り合い、歩み寄るべきだと説く父が、あいつらにとって邪魔だったから、──。あれは私の父の敵だ。陸と海とが争い合う、歪みに生まれ出た膿だ。私は、」
 イナンナが、まっすぐな眼でトビトに言った。
「私はあれを、殺しに来たんだ」

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