外つ国のゲンマ


第一章 神の声 -2-

 七十二音栓ストップ五千八百パイプ、四段手鍵盤に足鍵盤を設けたネフィリム神殿のパイプオルガン。それ単体で四階建ての建物ほどの高さを有する、この巨大な楽器を響かせるには、数人がかりで足踏み式のふいごを踏み、パイプを唸らせるための風を送る必要がある。テッサリア共和国連邦の威信を担う、荘厳にして壮麗たるネフィリム神殿。そこで行われる日々の礼拝やその他の行事の裏にはいつも、トビト達カルカントの働きがあった。
 神殿内に響くパイプオルガンの音色が重なりを増すのと共に、必要とされる風量もまた増してゆく。ひんやりと冷えた石造りの部屋の中。しかし呼吸は弾み額には汗が流れていた。トビトはそれを袖で拭い、手すりを握りしめると、右の義足で大きくふいごを踏みしめる。
(そろそろ曲の中盤だ。風圧を上げなきゃ、──ああ、でも、その前に)
 もう一節。もう一節で曲の旋律が変わる。
 目を閉じ、耳を澄ませ、胸で息をしながらふいごを踏む。そうして汗の伝う手で、他のカルカント達に向けて合図をしようとした、──その時。
 かくんと不意に足元が揺れ、トビトは短く息を呑む。板状の同じふいごを踏むカルカントが突然リズムを違えたことで、鉄の義足を滑らせたのだ。
「あっ、……」
 冷や汗が背に湧いて出た。合図に使っていた右手を、咄嗟に手すりへ向けるものの、ほんの少し届かない。そうこうしているうちに、左手までもが手すりを離れてしまった。
 派手な転倒音とともに、板状のふいごの上へ尻餅をつく。「おい、何やってる!」即座に聞こえたその罵声に、さっとトビトの血の気が引いた。立ち上がらなくては。しかしそうは思うのに、義足がふいごの端にひっかかり、上手く抜き出すことができないのだ。
 聞こえてくる旋律は、既に曲調が変わっている。神殿内部の人々は、──オルガニストであるバラクは、転倒音に気づいただろうか。
 周囲から聞こえた舌打ちに、思わず俯き肩を震わせる。やっとのことで義足を引き抜き、立ち上がろうと藻掻くトビトに、差し伸べられる手などはない。
 じわり、じわりと湧く汗が、身体の芯を震わせた。それでも黙って奥歯を噛み締め、どうにかその場へ立ち上がる。そうしてまた旋律に耳を傾けると、トビトはようやく、風量を上げる指示を出した。
(……、最低だ)
 このまま曲が、終わらなければいい。そう考えながら柔くふいごを踏みつけて、トビトは小さく息を吐いた。どうかこのまま、体力が尽きて意識を失う程になるまで、ただ黙々と、ふいごを踏んでいられたのなら。
(今はただでさえ、鉄塊の島民アトラハシスの裁判のせいで気が立っている神官も多いのに、……。仕事を終えたら、きっとまた、酷く殴られるのに違いない)
「これだから、元オルガニスト様は」
 周囲から聞こえた呟きと、それに追随する明らかな嘲笑に、トビトはただ背を丸めて、振り返ることができないでいた。
 神殿にパイプオルガンの音を響かせるため、風を送り続けるカルカント。遠い昔、人類の文明が栄華を極めていた頃には、電動式のモーターファンが受け持っていたと聞くその仕事は、今では人間が行う肉体労働に逆戻りしている。不自由な義足を引きずって歩くトビトには、向いていないことなど、彼も重々承知であった。細身で非力な彼のことを、他のカルカント達が馬鹿にしていることだって知っている。
(けど、僕にはこれしかないのだから)
 トビトの持ちうる財産は、オルガンに関する知識だけなのだから。
 曲が収束に向かうにつれ、徐々に風量を落としてゆく。オルガニストの奏でる気高く細い高音が、罪人と神官団の退席した神殿内に消えてゆく。
 最後の一音が絶えたのを聞くや、トビトはぎゅっと拳を握りしめ、肩を落として身構えた。カツカツと怒りをあらわにして、こちらへ向かう靴音がある。パイプオルガンの演奏台コンソールから直接ふいご室へと続く鉄の扉は、いとも容易く開かれた。
「トビト。今日はよくも恥をかかせてくれたな」
 部屋に入るなりそう言ったのは、今年で十七になるトビトにとって、ひとつ年上のバラクである。ネフィリム神殿の常任オルガニストにして、近々神官団への参加が内定している彼の性質を、トビトはよく承知していた。正典派高位神官の子息であり、その生まれに見合った高慢な性格の男。それでいて、恐ろしく繊細な感性を持つ完璧主義者──。アカデミー在籍時代、トビトともその腕前を競い合っていた男である。
「……、申し訳ありません」
 目を合わせられぬままそう言えば、ぐいと前髪を掴まれた。他のカルカント達は静かに笑い声を上げ、我関せずといった様子で帰り支度を始めている。
 無理矢理あげさせられた視線の先には、静かにいかるバラクの顔があった。彼の肩には、彼がオルガニストであることを示す──美しい頸垂帯ストーラが下がっている。
「足をなくしてオルガニストとしての競争から脱落したお前を、……落ちぶれた改門派に属していたお前を、カルカントとして推薦してやったのは何故だと思ってる」
 髪を放され、ほっとしたのも束の間、横っ腹を強く殴られた。ふいごの脇に立てかけてあった、トビトの杖で殴られたのだ。義足では体重を支えきれず、冷たい石造りの床に倒れ込んだトビトを見て、バラクは尚もその背を蹴りつける。
「音楽の機微を理解しない単なる肉体労働者カルカントと違って、お前なら、オルガンの構造を理解しているからだ。どの旋律に幾つの音栓ストップが解放され、どれだけの風量が必要とされるか、判断ができるからだ。それなのに、今日のあの無様な采配はなんだ」
「申し訳、ありません……」
 バラクが再び杖を振り上げるのを見て、せめて頭を守るように両腕で抱え込み、しかしトビトは抵抗しないまま、ただ譫言うわごとのように謝罪の言葉を繰り返した。抵抗できるだけの立場も、腕力もないのだから、大人しく殴られておいて、彼の機嫌がおさまるのを待つしかない。そのことを、トビトはもう十分に学んでいる。
「この神殿のパイプオルガンは、無学な民草に神官団の威光を知らしめ、国外の蛮族共にテッサリア共和国の国力を知らしめるためのものだ。また今日のような無様を晒してみろ、ただでは済ますものか、──」
 低い声でそう語り、杖を振り上げるバラクの一方で、先に退室したカルカント達の声が、開きっぱなしの窓の外から聞こえている。明るい空の下、帰路についた彼らは笑い声を上げて、口々にこう言いあった。
「トビトのやつ、教育を受けたオルガニスト様と言っても、あのザマじゃあな。ああ、違った。元オルガニスト様か」
「あいつ、極北の出身らしいぜ。下級市民の中でも最底辺の身の上で、改門派あがり、片足も無いとあっちゃ、このご時世でまともに生きていけねえよ。ああ、やだねえ、あの若さでお先真っ暗。俺ならとっくに死んでるわ」
 薄暗いふいご室に、彼らの声は明るく響く。心が軋むその音を、悟られぬよう顎を引く。
 するとたちまち頭上から、苛立った様子のバラクの声が降ってきた。
「二度と無様を晒すな」
 そう語るその声は、威圧的で、冷ややかだ。
「足を失った以上、ここでカルカントとして生きる以外に、お前に道などあるわけがない。その知識だけがお前の価値だ。お前には、──オルガンの他に、何も、ないんだから」
 この日もバラクはカルカント達の声が聞こえなくなるまで、トビトの事を殴り続けた。こういう時、彼はいつだって、見せしめのように暴力を振るい、しまいに退屈そうな息をついて、ふいご室を出ていくのだ。
 殴られた傷を冷やすのに、冷たい床はちょうど良かった。バラクが退出した後も、トビトはしばし感慨もなく床に横たわり、──そのうち這うようにして、やっとのことで起き上がる。
 部屋の端に投げ捨てられていた杖を拾い、くたびれた外套を身にまとう。通用口に鍵をかける頃には、辺りはすっかり静まっていた。他のカルカント達の姿はおろか、神殿を管理する神官達の姿もありはしない。
 襤褸ぼろ布のような出で立ちのトビトに、構う者がいないのは好都合だ。どうせ顔を合わせたところで、彼らはトビトを嘲笑うか、中途半端な哀れみの目を向けるか、そのどちらかでしかないのだから。
 惨めさはあっても、悔しさなどは湧いてこない。そんな感情があったとして、何の足しにもならないことを、トビトはよく承知している。
 正面階段を避け、裏手にある労働者用の道へと歩んでいく。こちらはトビトのように、正面階段や上級市民用の自動昇降機の使用を許されない、下級市民のための道であった。
 切り立つ崖に沿って踏み固められたこの道は、なんの舗装もされてはいない。ただトビトは、ここから見えるその景色を、他の何より好いていた。
 海抜の高い、開けた土地に建てられたネフィリム神殿。トビトのいるこの裏道からは、眼下に広がるギデオンの町を一望することができ、そのすぐ向こう側にぎらぎらと輝く、──尽未来際に続くかのような、大海を見渡すことができたのだ。
 海面上昇エンリルにより、地表の多くを失ったこの世界。わずかに残った土地を奪い合うように生きる人々は、今も領域を侵し続けるこの海に、いつだって背を向けてきた。
 人間を始め、地上に暮らしていた多くの生き物が生活の場を奪われた海面上昇エンリル。多くの土地が海に沈んだことから、石油・石炭類の採掘は困難になり、また十分な発電設備も敷設出来ないことから、かつて栄えた科学文明は、やがて限られた特権階級にのみ恩恵を与える貴術となった。都市部はどこもかしこも人で溢れ、電力を買うよりはるかに安価な人間の労働力は、どこへ行っても有り余っている。
(アカデミーを追い出されて居場所を失った僕に、カルカントの仕事を与えてもらったことには感謝してる。望まれるような仕事をしたい思いはあるし、言われたとおり、この仕事がなくなったら、僕なんて他に生きるすべもない、──だけど)
──ああ、やだねえ、あの若さでお先真っ暗。俺ならとっくに死んでるわ。
 永らえることに価値のある人生なのかすら、途方に暮れるトビトには、もう、見当もつかないのだけれど。
(願わくば、……)
 何の影もない水平線を睨みつけ、震える指で神への祈りの紋を切る。右の拳を左の掌で握りしめ、目を閉じると、トビトは静かに息を吐いた。
 嵐の再来を、待ちわびていた。

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