外つ国のゲンマ


第一章 神の声 -1-

 いつも変わらぬ、夢を見る。
 遠くから喧騒の聞こえる中、トビトはただ脇目もふらず、指を滑らせ足を踊らせ、ある一曲を奏でていた。眼前にあるのは古びた譜面と、四段並んだ手鍵盤。白鍵は黄楊つげ、黒鍵は黒檀。左右に並ぶいくつもの音栓ストップすらも自ら操作する彼は、足元に敷かれた足鍵盤で、更に低い旋律を重ねていく。
 喧騒がまた近くなる。だがそれでも、トビトの音楽は止まらない。
 銀色に光る無数のパイプに囲まれた、パイプオルガンの演奏台コンソール。猛り狂うような大風が、オルガンのパイプを震わせてゆく。力強い音。人々の心に寄り添う、重厚たるパイプオルガンのその旋律。だがその背後に誰かの悲鳴が重なったのを、トビトは確かに聞いていた。
 泣き叫ぶ子供の声。避難を呼びかける男の声。続いたのは銃声であろう。腹の冷えるその音が、人々の発する悲哀の声が、絡み合い、反発し、しかしいつしか、不可思議な調和に辿り着く。
 このままここにいては、トビトも騒動に巻き込まれるだろうか。
 脳裏をよぎった一瞬の焦燥に、彼は思わず苦笑した。そうだ、このままでいれば確実に、トビトも渦中に取り込まれる。この演奏台コンソールは今まさに、荒れ狂う大海の真っ只中にあった。既に船底には穴が空き、足元には海水が波打っている。だがそれは、きたる未来の話ではない。既に起こった、過去の話だ。
 これが夢であることを、トビトは十分理解していた。
 あの時のようでそうではない。これはそういう夢であった。あの時トビトは、息苦しい会議室の中に閉じ込められていた。気難しい顔をした重鎮達にこうべを垂れ、身の程に不釣り合いな絹の衣装を身に着けて、オルガンのそばを離れていた。
(あの時もし、傍らにオルガンがあったなら)
 トビトはそれを奏でただろうか。今のトビトには、その答えがわからない。だが夢の中のトビトはいつだって、耳に覚えのある銃声を、建物が崩壊するその音を、泣き叫ぶ人々の声を理解していながら、しかしどこへ逃げることもせず、ただ音楽を奏で続けた。
 足元の水が深くなる。段々と自由が奪われていく。そうだ、もはやトビトに自由はないのだ。いや、トビトに真の自由など、用意されたことは一度もなかった。
 ふと気づけばトビトの脇に、一人の女が立っている。ごわごわとした毛皮をまとい、角のある大きな獣を傍らに伴った、その女の表情はわからない。女は声を掛けるでもなしに、トビトを見つめるばかりであった。
「ごめんなさい」
 女に視線は向けぬまま、ぽつりと小さく、呟いた。トビトを見つめる女の肩には、ユキヒツジのモチーフが刺繍された、美しい頸垂帯ストーラがさがっている。
「あなたの願いを裏切った。約束だって守れなかった」
 足が凍てつき、指はすっかりかじかんでいた。演奏を止めはしないのに、しかし音楽は瓦解する。自由を失った旋律は、あてなく彷徨い消えてゆく。
(ああ、今日も最後まで、奏でることは出来ないのか)
 失意が胸を浸したが、それがトビトの常であった。満たされないその思いを、再認識するだけのこと。
ゲンマには手が届かなかった。その為に、その為だけにあなたを裏切ったのに。ごめんなさい、──ごめんなさい、母さん」
 波が立つ。女の幻影が消えてゆく。指がもつれ、取り散らかったその旋律から、ようやくそっと手を放す。気づけば既に、演奏台コンソールはトビトの側になく、彼はただ荒波の中、静かに立ち竦んでいた。だがしかし、その足元すら、波に攫われ、おぼつかない。
(ああ、そうだ。そもそも僕がこんな所に、立てるはずもないじゃないか)
 視界がぐらりと歪んでいく。同時に体の支えが消えた。凍てついたトビトの右足が、不意にその場から消え失せたのだ。
 トビトを囲むその海が、嵐のような大波が、無抵抗のままの彼の体を取り込んでゆく。気づけば水中に投げ出されていた。手を、足を、頼りないその首元を、荒々しい波が総て攫ってゆく。奔流に押し流され、前も後ろもわからない。
(息が、……)
 バラバラになるような錯覚を覚えながら、真っ暗な闇に流されてゆく。だがトビトはされるがまま、藻掻くことすらせずにいた。
 これは夢だとわかっていた。藻掻こうが、流されようが、行き着く場所は変わらない。
(ああ、これが、)
 これが真実ほんとうであったなら、どんなによかったことだろう。
 
 脱力感を覚えながら、浅い眠りから眼を覚ます。未明の頃であった。縦に裂けたカーテンの隙間へ手を伸ばし、そっと外を覗き見れば、立ち並ぶ安アパートの間の空にはいまだ、数多の星が輝いている。
「……、ごめんなさい」
 消え入るような声で呟き、目元を袖で乱暴に拭う。
 一人きりの狭い部屋。はめ殺しの窓に、色の褪せた古いベッド。不揃いな食器を積み重ねた棚の近くには、夢で見たのと同じ、場にそぐわない錦糸の頸垂帯ストーラが、所在なげに垂れ下がっている。
(もう、仕事に出かけなきゃ、……)
 いつもの朝。代わり映えのない目覚め。ベッドの脇に立てかけていた、冷たい粗末な鉄の棒を手に取ると、トビトははらはらとまた泣いた。もはや悲しい思いもないのに、溢れるこの水滴が何であるのか、トビトにはちっともわからない。
「ごめんなさい、……」
 ただ嵐の再来を、心の底から待ちわびていた。
 
「神官団各位、審議の結果を」
 石の壁を隔てた向こう側から、厳格な声が漏れ聞こえている。
 テッサリア共和国連邦、最高位の政府機関にして全国教の権威を示すネフィリム神殿。人々の精神的支柱であるその建物では、今、一人の男の裁判が行われていた。
 一面に多色大理石が切りはめられた床に、モザイク画の描かれたアーチ状の天井。ステンドグラスで彩られた窓からは柔い光が挿し、その脇には等間隔に、連邦州旗が吊るされていた。鳥獣を配した祭壇に、巧緻な彫刻を施された壁。吹き抜けに覗く上階には、壮麗たるパイプオルガンが構えている──。
 そんな中、長く続く身廊の中心に、縄を打たれた男の姿があった。
 罪人であることを示す鼠色の衣服を身に着け、項垂れたこの男は今、彼の罪を問う裁判のただ中にある。
「緋の神官団は極刑を求める。この男は宿敵たる鉄塊の島民アトラハシスの指導者的存在であり、大勢の共和国民が害を被ったマサダの襲撃にも荷担した。見せしめの意味でも、即刻死罪にするべきだ」
 黒のローブに赤い頸垂帯ストーラを纏い、太陽の紋の胸章を身に着けた女が言った。するとそのすぐ直後に、青い頸垂帯ストーラに樹木の紋の胸章の男が、割り入るようにこう語る。
「蒼の神官団は、身体の自由を奪った上での無期懲役を求めます。我々にとって、脅威たる外敵の情報を得るのに有用でしょう」
「しかしそれでは、共和国民の多くは納得しない。神官団が鉄塊の島民アトラハシスの略奪行為を容認した、と受け取られでもしたら」
「共和国民の多くというのは、沿岸部に住む下級市民どものことか? これだから、頭数頼みで下級市民に媚びを売る改門派の方々は困る。もっと大局を見ていただかなくては──」
 神官達が、口々に男の処遇を語る。荘厳な神殿内で交わされるその醜い派閥争いの様子を、神殿二階に設けられた薄暗いふいご室の窓枠に腰掛け、窺っていたトビトは、無感動に小さな溜息を吐いた。
(極刑なら『ヨナを呑み込んだ者は』、懲役刑なら『ふたつのパン』。だけどこの調子じゃ、いつもと同じ曲目だろうな)
 そんなことを考える側から、トビト達のいるふいご室に、年若い神官が訪れた。「曲目は、『彼こそは知る』」と手短に用件のみを伝えたこの神官は、しかしトビト達ふいご手──カルカントと呼ばれる人々には一瞥もくれず、さっさとその場へ背を向ける。それを見送ったトビトは、今まで覗き込んでいた窓から身を放し、その足で、──鉄の棒をはめ込んだだけの、粗末な右の義足を引きずり、立ち上がった。
 神官団による、神権政治が行われるテッサリア共和国。ここでは裁判の結果を民衆に広く知らしめるため、神殿に設けられたパイプオルガン、──神の声を代弁するとされるその巨大な楽器で、結果に応じた曲目を奏でることになっている。『彼こそは知る』、つまり今日の裁判でも、罪人の処遇をどうするか、定められなかったということだ。トビトは背後を振り返ると、部屋に詰めていた他の男達に、「三台からでお願いします」と目を合わせぬまま控えめに言った。
「あまり大音量で始めて、今日こそ判決が下ったと期待させてはいけないので、……。曲の性質上、中盤で徐々に風量をあげる事になります。僕が合図をするので、あとの方はそれまで待機を」
 トビトが言い終えるより早く、男達は既に各々の持ち場へと向かっている。
 神殿内部とは石の壁で隔てられた、薄暗いふいご室。六台並んだ大型のふいごに位置どった男のうち、三人が足でふいごを踏み始めると、強い風の音がした。それと時を同じくして、石壁を隔てた神殿からは、重い旋律が流れ始める。
 空気を震わす力強い音。人々の心に静謐に宿る、重厚たるパイプオルガンのその旋律。この神殿の常任オルガニストであるバラクが奏でるその旋律に、じっと耳を澄ませながら、トビト自身も不自由な足を引きずって、ふいごの前に位置どった。

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