外つ国のゲンマ


第五章 自由の音 -4-

「イナンナ」
 同じようにこの場所で、彼女の名を呼んだのは、たった一日前のこと。あの時トビトは熱心に祈るイナンナに、悲壮感すら覚えるその背中に、自分の姿を重ねていた。
 意志の強いその瞳に、その立ち居振る舞いの内に、さもすればぽきりと折れてしまいそうな、危うげな芯があるのに気づいていた。たった一人で責任を背負い、ギデオンの町を訪れた彼女はしかし、トビトという共犯者の出現を歓迎した。
──ほんの一瞬でいいんだ。取るに足らない器だと、誰もが捨てた欠け皿を、輝かせることができるかな。
 月も星もない暗い海。欠けた襤褸ぼろ船を必死に漕ぐイナンナが、ずっと助けを求めていたことに、トビトはとっくに気づいていた。
 冷たい海に足を取られ、息も絶え絶えにそこへ浮かんだトビト自身も、きっと、ずっと求めていたのだ。闇の中を懸命にわたる、その勇敢な欠け皿を。
「……、トビト?」
 顔色を失ったその人物が、それでもそっと振り返る。トビトの姿をそこに見つけたイナンナは、息を呑み咄嗟に駆け寄ろうとして、会衆席に蹴躓いた。トビトが手を延べそれを支えれば、イナンナはその手を掴み返して、ごめんと、震える声で繰り返す。
「君が神兵に連行されたって聞いて、私が、君のオルガンを聞きたいなんて、軽々しくそんなことを言ったから、……私のせいだ。私のせいなのに、でも何もできなかった。君を巻き込んでおきながら、君との約束も守らず、君のことも、この国の事情もろくに知らないくせに、私は、……」
「助けを呼んでくれたじゃないか」
「それしか思い浮かばなくて、……。そう、私は、……君との約束が守れなくても、君がそれを望まなくても、どうしても、君に死んでほしくないんだ。あのきらきらした、心に火を灯してくれるような音楽を、どうしても失くしたくないんだ……。こんな事を言ったら、君はまた怒るかな……」
 消え入るようなその声を聞き、そっとその手を握り返す。そうしてトビトはふと、静かに息をつくと、「ありがとう」ともう片方の手で、イナンナの髪を優しく撫でた。
 トビトと自分を似た者同士と称した彼女は、きっと、こうしてほしかったのではないだろうか。悪夢にうなされる夜はそれを払うかのように優しく胸を叩き、子供をあやすように髪を撫で、とりとめもない身の上話を聞く。──彼女がトビトに、そうしたように。
「もう大丈夫。僕の心にも、イナンナが火を灯してくれたから……。心配かけてごめん。僕、とてもお腹が空いているんだけど、イナンナはどう? また牛肉を買って帰ろうよ。料理のレパートリーはそんなに多くないけど、トマトのスープセリャンカでも、串焼きシャシリクでも、君の食べたい物を作るよ。何が食べたい?」
 トビトの手を取り俯いていたイナンナが、顔を真っ赤にして眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結んで顔を上げた。涙を堪えてでもいるのだろうか。トビトが思わず吹き出せば、イナンナは尚更顔を赤くして、「笑うな」と声をあげる。
「君は私の事、お人好しだと言ったけど、……私なんかより、君のほうがずっとそうじゃないか! だ、だから私みたいなのに利用されるんだ、君が優しすぎるから、……君が、君は、とても立派な人なのに」
 あまりにまっすぐなその言葉を聞いていると、トビトのほうが赤面してしまう。トビトはイナンナから手を放し、脇に挟んでいた封筒を手に取ると、それをイナンナに差し出した。
 バラクから預かったその封筒は、ずしりと重い。
「……これは?」
「譜面だよ。大切なものだから、なくさないで」
「譜面? でも私、譜面の読み方なんて、」
 困惑した様子で言うイナンナに、「開けてみて」とそう告げる。彼女は尚も訝しげな表情で封筒の表裏を見、中身を覗き見てから、はっとした様子で顔を上げた。大量の譜面の間に挟まれているものがなんなのか、彼女も気づいたのだろう。
「ジウスドゥラが、岩礁に身を隠している」
 トビトが言えば、イナンナは肩を震わせた。「祝いの海鳥ジウスドゥラ、」呟く彼女の声は、明らかな狼狽に揺れている。
「それは、父さんの作った組織の名だ。鉄塊の島民アトラハシスの改革を目指す、反戦派の核となる人達の……、でもその人達はみんな、ダムガルに殺されたはずだ」
「……、牢の中で、ある人と会った。君と同じ黒髪で、意思の強そうな目をした人に。その書簡の差出人は、今、マサダ襲撃の首謀者であるダムガルとして、牢に囚われている」
 「え?」と返す、イナンナの声が震えている。まさかと問うイナンナに、トビトはもう一度、改めて右手を差し出した。
「その人から、君には手出し無用と伝えてくれって言われたんだ。君がダムガルを殺さなくとも、仲間の鉄塊の島民アトラハシスが、彼を殺すからって。それでこの場は収まるからって。でもそんなの駄目だ。生きてたんだもの。生きてまた会えるんだから、……殺すのじゃなく、迎えに行こう。堂々と助けに行こう。そうしようよ、明けの春雷イナンナ
──いつか君に、君には、居場所が見つかることを願ってる。
 そう言い捨てて立ち去ったイナンナの気持ちが、今のトビトにはよくわかる。自分にはもう叶わない願いだとしても、彼女にとってそれが可能なら、なんとしてでも、
 その手助けを、したいと思った。
「封筒には、エフライムさんがこれまで、正典派に向けて送ってきた書簡の一部が入ってる。その存在を公開すると言って脅かせば、正典派の神官達とも、十分に交渉できるはずだ。ジウスドゥラというのが、生き残っていた仲間かもしれないなら心強い。その人達とも協力して、そして、エフライムさんを解放しよう」
──約束する。僕、絶対に冠をかぶって、母さんのことを迎えに来るよ。
(あなたとの約束は、何ひとつも守れなかった僕だけど、……。母さん、僕はこの人と一緒に、……冠の欠片を拾いに行くよ)
 
「──話はわかった。お前に協力するのはいいが、ひとつ、条件がある」
 もしも、未来を変えられるなら。
 トビトの提案を聞いたバラクは、まず初めにそう告げた。そうして、どんな条件でも呑むと言ったトビトを相手に、彼はこう続けたのだ。
「名を偽っているとはいえ、鉄塊の島民アトラハシスのダムガルは、神殿での裁きを待つ重罪人だ。それを解放するのなら、──神の声が必要だろう」
 神の声。パイプオルガンの、その旋律。
 テッサリア共和国では、裁判の結果を民衆に広く知らしめるため、その結果に応じた曲目をオルガンで奏でることになっている。極刑ならば『ヨナを呑み込んだ者は』、懲役刑ならば『ふたつのパン』。無罪放免となるのなら、──『善きものの門』、その曲を。
「弾いていただけるんですか」
 恐る恐るトビトが問えば、バラクは苛立った様子でトビトの胸ぐらをつかみ、「お前が」と有無を言わさぬ口調で言った。
「お前が弾くんだ、トビト。あのネフィリム神殿の神の声を、お前が奏でて解放しろ」
 ネフィリム神殿の神の声を、──パイプオルガンを、トビトが。
 驚いたトビトが二の句を告げずにいると、バラクは口早にこう言った。
鉄塊の島民アトラハシスの反戦派を再興させ、陸と海の争いを緩和させるために、エフライムを解放したいというのはわかった。正典派の老害共も、あの書簡を公表されるくらいなら、エフライムの解放もやむなしと判断するだろう。
 だが現状、正典派が牢の管理を行っている以上、あれだけの重罪人を独房から取り逃がしたとなっては、派閥の威光に影がさす。そういう事を考える連中だ。だからエフライムの解放は、裁判の直後、移送中に行われることにしろ。そしてその時お前は──あのパイプオルガンで──解放の曲を奏でるんだ」
 言われて、トビトはごくりと唾を飲んだ。トビトとて、神官団の重鎮達が考えそうなことに、想像が至らないわけではない。バラクの言うことはもっともだ。しかし。
「あの神殿のパイプオルガンを、……僕が奏でていいんですか」
 目の前のバラクをじっと見据え、そう問えば、彼は呆れた様子で溜息をつく。
「気が変わった。俺が弾く」
「だ、駄目です、僕が弾きます。弾かせてください」
 咄嗟にトビトがそう言えば、「初めからそう言え」と悪態をつかれた。
「裁判中の鉄塊の島民アトラハシスを取り逃がすなんて、歴史に残る大事件だ。そこに、お前の音楽を残していけ。主義主張のない、お前の能天気な音楽も、──俺は正直、嫌いじゃなかった」

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