外つ国のゲンマ


第五章 自由の音 -3-

「……ジウスドゥラ?」
 馴染みのない言葉に問い返すが、この男は、話は終わったとばかりに座り込み、最早トビトに取り合おうという様子もない。そうして、尚も食い下がろうとするトビトを制するように、さっと傷跡の走る左手を上げた。つられて思わず言葉を止め、耳を澄ませてみて、トビトはごくりと、唾を呑む。
 二人の入れられた牢よりどこか離れたところから、剣呑な雰囲気のする声が聞こえていたのだ。
 会話の内容まではわからない。だが一方が苛立った声を上げ、困惑するもう一方を物ともせずに、こちらへ向かって歩んでくる。トビトが固唾を呑んで様子をうかがっていると、そのうちそれが、知った人間の声であると知れた。
「あの男が改門派に属していたのは、もう一年以上も前の話だ。今はネフィリム神殿のカルカントにすぎん。集会だと? あの男がそんなものを開いたところで、一体何の脅威がある」
 そう毒づいてトビトの牢の前で足を止めたのは、トビトのよく知るオルガニスト、バラクであった。
「バラク先輩、……?」
 思わずそう呼んでから、はっと小さく息を呑む。アカデミーを追い出されて以来、周囲から、そう呼ぶことを禁じられていたのだ。しかしバラクは咎めることはせず、ただ手に持った灯りを掲げてトビトを見、汚物を見るかのような目つきで、眉をひそめてみせただけだ。
「随分な顔だな」
 言われてみて、気がついた。頭から水を浴びせられた上、神兵に殴られたために、鼻血まで出ていたのであった。慌てて手の甲で顔を拭えば、出血は止まっているものの、まだ血がこびりついている。トビトがそれを拭う傍ら、バラクはちらと周囲を見回して、例の男の姿を見ると、露骨な舌打ちをした。
「エフライム……」
 バラクがぽつりと呟いた。
──私は鉄塊の島民アトラハシス改革派、指導者エフライムの娘イナンナ。
 やはりその名だ、間違いない。だがその名がバラクの口から出たことで、トビトはぎゅっと、鉄格子を握る拳に力を込めた。
 エフライム。バラクが確かにそう呼んだ。つまりバラクは、この男がダムガルではないことを、──マサダ襲撃の真の首謀者ではないことを、知っているのだ。
「お前の足を奪った鉄塊の島民アトラハシスと同じ区画に収監とは、随分な高待遇だったようだな、トビト。カルカントから、政治犯に昇格とは恐れ入る。だが夜が明ければ、またいつも通りに礼拝が始まる。お前はお前の仕事をしろ」
 突き放すように言うバラクの言葉と、腑に落ちない様子の神兵が牢の鍵を開けるのとは、ほぼ同時のことであった。トビトはちらと、エフライムと呼ばれたその男へ視線を移し、しかし彼がこちらへ完全に背を向けてしまったのを見て、促されるまま鉄格子の戸をくぐる。
「エフライムさん、」
 呼びかけても返事はなかったが、しかしバラクに義足を蹴り飛ばされた。転倒しそうになり、慌てて鉄格子にしがみつく。エフライムの側に既に会話の意思がないことを見てとると、トビトは俯き黙ったまま、バラクとともに牢を出た。
 東の空が、既にいくらか白んでいた。人気のない大通りを、ひやりとした風が抜けていく。トビトは思わず首を縮め、しかしさっさと立ち去ろうとするバラクの後を必死で追った。神兵に奪われた杖は戻らなかったが、不思議と、歩むその足に危うげはない。
 そうしてなんとか追いつくと、振り払われるだろうことを承知で、トビトはその肩に手を置いた。
「助けてくださって、──ありがとう、ございました」
 緊張を隠しきれないまま、まずは一言そう告げる。
 まさかあんなところにまで、この男がトビトを迎えに訪れるなどと、考えてもみないことであった。アカデミー在籍時代であればまだ、時たまぶっきらぼうな労いの言葉をかけられることもあったにせよ、最近ではこの男の苛立った顔しか見た覚えがない。だがバラクは予想に反し邪険な態度ではなく振り返ると、「オルガンを弾いたらしいな」とまずは短く、そう言った。
「妙な女が訪ねてきた。男のようななりをしていたが、お前の知り合いか? お前から二度もオルガンを奪ったら許さないと、喧嘩腰に食ってかかられたが」
 イナンナだ。トビトははっと息を呑み、しかしその言葉を肯定できぬまま、いくらか目を伏せた。
 イナンナが、バラクに助けを求めに行った──。トビトが神兵に連行されたことを、彼女もどこかで知ったのだろう。だが、それにしたって。
(万が一にも神官達に素性が知れたら、窮地に追い込まれるのは、イナンナの方なのに)
 「その人は今どこに?」と問えば、「知らん」と簡潔な答えがある。そうして続けて、彼はぴしゃりとこう言った。
「お人好しにもほどがある」
 お人好し。もしやバラクも、イナンナの素性を知ったのだろうか。一瞬そうも思ったが、どうやらバラクのその言葉が指しているのは、トビト自身のことのようである。バラクはじっとトビトを見据え、苛立ちを隠さぬ口調でこう言ったのだ。
「俺が、お前を助けただと? そんなつもりは一切ない。あれだけ毎日のように殴られておいて、よくそんな勘違いができたものだな。俺はお前が、ただオルガンを弾いただけで神兵に連行されたらしいと聞いて、その事を腹に据えかねて来ただけだ。奴らの越権行為は目に余る。オルガニストが、オルガンを弾いて何が悪い」
 その怒りの矛先は、今日はトビトに向いていないらしい。トビトは無意識にほっと息をつき、しかし投げつけられた言葉を咀嚼して、静かに顔を上げた。
「……、僕は今でも、オルガニストですか」
「弾いたんじゃないのか、祈りの場で。それとも弾こうとしただけか」
「それは、えと、弾きました。あの、ほんの数曲」
 バラクには叱られてしまいそうな、粗末な出来ではあったけれど。心の中で補足して、しかしトビトは己をじっと見るバラクに気づき、思わずいくらか顎を引いた。
 バラクが何か言いかけて、逡巡の末、口を閉ざす。だがトビトには、バラクが何を言おうとしたのか、何故だかわかる気がしていた。
 だからだろう。迷わずに、こう問えたのは。
「……、先輩は知っていたんですか。あの日マサダで、鉄塊の島民アトラハシスの襲撃が起こること」
 バラクはすぐには答えなかった。徐々に昇りゆく日を背に、しかし彼の視線はまっすぐに、トビトを捕らえて放さない。彼はそうして一度もトビトから目を逸らさず、ゆるゆると首を横に振った。
「知っていたら行かせなかった。この国のオルガニストは、……いや、オルガニストに限らず全ての芸術家は、人間を人間たらしめる、そのための文化を絶やすまいとする国家に保護され、代わりに政治に利用される。その覚悟が、俺にはあった。
 お前のように何の覚悟もなく芸術の世界へ踏み入って、主義主張もなくただ他人に利用され、食い荒らされるばかりの馬鹿者がどうなろうと、知った事か。だがそれでも、──くだらない勢力争いに消費されるのは、それが自分だろうが、他人だろうが、許しがたい」
 バラクは、淀みのない口調でこう言った。
「お前は、俺と同じオルガニストだ」
 もし何のしがらみもなく、このオルガニストと、まるで友人のように音楽を語り合えたなら。アカデミー在学時代、そっと身を潜めてこの男のオルガンを聴く度、トビトは密かにそう考えた。
──もし僕を拾ったのが、改門派の神官でなかったなら。
──もし僕が正典派だったなら。
──もし神官内に、派閥の軋轢なんてなかったら。
──共和国と鉄塊の島民アトラハシスの間に、諍いがなければ。
「……もし、」
 緊張で手足が冷え切っていた。こんなことをこの男に言うべきなのか、わからない。それでも行動してみたいと思えた。
 もしもの話など、きっとバラクは嫌うだろう。もし、過去の前提が違っていたなら、トビトは今でも、壮麗なパイプオルガンの前にいただろうか。そんなことはわからない。どうせ過去など変えられない。
 それでもトビトは彼に、一つ、大きな提案を持ちかけた。
 もしも、未来を変えられるなら。
 トビトのその提案を、バラクははじめ、ただ黙って聞いていた。彼の立場を考えれば、難しい提案であることはわかっていた。だがバラクは一つだけ条件を加えた上で、トビトの提案を受け入れた。
 そしてその日──、バラクから目的の物を受け取ったトビトは、急ぎ、トビトがオルガンを弾いた、あの祈りの場へと向かった。そこに彼女が現れる保証はなかったが、他のどこへ向かうより、確かな予感がそこにはあった。
 明けやらぬ空の下、人気の失せた会衆席。その最前列にはやはり、肩を丸めて座り込む、心細気な人影が一つ、座している。

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