外つ国のゲンマ


第五章 自由の音 -5-

「蒼の神官団はあくまでも、この男の極刑を認めないつもりでいるのか。何故こうも刑の決定を先送りにしようとするのだ」
「正しく裁きを行うために、議論を重ねているに過ぎん。逆に極刑を急ごうとする改門派の方々にうかがうが、早急にこの男の口を封じねばならぬ理由でもお持ちなのですかな」
 赤い頸垂帯ストーラに太陽の紋の胸章を身につけた改門派の神官の言葉に、今度は青い頸垂帯ストーラに樹木の紋の胸章をつけた正典派の神官が、歯切れ悪くそう告げる。吹き抜けになった上階──パイプオルガンの演奏台コンソール付近に佇むトビトは、いつもとは少し違ったやり取りを、黙したままで見守った。
 テッサリア共和国連邦、最高位の政府機関にして全国教の権威を示すネフィリム神殿。一面に多色大理石が切り嵌められた床に、モザイク画の描かれたアーチ状の天井。柔い光の差し込むステンドグラスは、イナンナとともにそれを見た日と同じように、トビトの視界を眩く灼いた。けれど以前ほど心を揺るがさずに済むのは、トビトにも今、為すべきことができたためだろうか。
(この風景も、見納めだ)
 天に向かって延びている、無数のパイプを振り仰ぐ。見上げてなお余りある、ネフィリム神殿のパイプオルガン。それはかつて、トビトの求める冠の形でもあった。
 その偉大な楽器をたった一人、演奏台コンソールから見上げるトビトは今、──オルガニストの祭服に、袖のない綾織のローブを纏った出で立ちでいる。
 その肩には、ユキヒツジの刺繍が施された、絹の頸垂帯ストーラを身につけて。
「随分男前じゃないか」
 ぼさぼさになっていた髪を整え、バラクから借り受けた祭服を纏ったトビトを見て、今朝方、イナンナがそう言ったのを思い出す。その時には曖昧な返事しかできなかったくせ、一人きりになった今になって、照れくささが湧いて出た。つい頬が緩むのを、必死に堪えて佇んでいる。
 神殿へ向かうより前に、イナンナとは別れを済ませた。今頃彼女は神殿の外で、閉廷のその瞬間を、固唾をのんで待っているはずだ──。
 
 あの日、エフライムを助けようと決めたその時から、彼女はすぐさま行動を起こした。「ジウスドゥラは岩礁に身を隠している」その言葉だけを頼りに、彼女は生死不明の仲間に向けて手紙を書いたのだ。その手紙は暗号めいて、トビトには理解のできぬものであったが、──それを彼女らのやり方で港に残した数日後、彼女は死んだものと思われていた、反戦派の仲間達と再会したのである。
 ダムガルの暗殺を画策していた彼らであったが、正典派との書簡が手に入ったこと、エフライムを解放できるかもしれないことを聞くと、迷いなく、イナンナに協力しようと申し出た。彼らにとってもダムガル暗殺は最終手段であり、エフライムを救えるのなら、それに勝る方策はないようだった。
「俺達が不甲斐ないばかりに、お嬢さんに辛い思いをさせてしまった」
「長かった髪まで切っちまって、これじゃまるで少年じゃないか」
「あの小さかったお嬢さんが、たった一人で陸へ渡って、どんなに苦労してここまでやって来たかと思うと、……」
「……、湿っぽいのはやめろ。その呼び方もやめろ、恥ずかしい」
──君の演奏は、まるで人の声だ。楽しかった頃の、……故郷の声だ。
 イナンナの故郷の声が戻ったことを、トビトは微笑ましく見守った。羨ましさがなかったわけではない。けれど明るく笑うイナンナを見るにつけ、トビトもまた、幸福を感じずにはいられなかった。
「裁判の日、解放の曲を奏でたら、……その後、君はどうするつもりでいる?」
 ある日そう問うたイナンナは、しかしトビトの答えなど、初めから待つ気はないようだった。彼女はそっとトビトの手を取り、「私達といかないか」と、意を決した様子でそう言ったのだ。
「父さんを解放できたとして、鉄塊の島民アトラハシスの内部はまだしばらく、過激派の勢力が強いままだろう。君には、不自由な思いをさせるかもしれない。今回出航したら、長いこと、陸には戻れないかもしれない。だけど、……」
 トビトになにか返したいのだと、その手をぎゅっと握りしめ、イナンナは静かにそう言った。
「この町へ来た時、私にはもう何もなかった。そう思ってた。あるのはただ、父さんから受け継いだ遺志だけ。なのに君は、私に沢山与えてくれたばかりか、失くしたものすら、全て取り戻そうとしてくれている」
 「結果的にそうなっただけだ」とトビトが苦笑すれば、イナンナは首を横に振り、「それでも」と食い下がる。
「私は君に救われた。……私じゃ君を、救えないだろうか」
──母さんの最期の時は、どうかあなたが手を取って。そうしたらずっと、あなたを守ってあげられる。
 ぎゅっと手を握る姿を見れば、何故だか不意に、母の言葉が思い出された。
 無意識の内に、イナンナの手を握り返していた。しかしトビトはやっとのことで、やんわりとそれを押し返すと、「君には既に救われた」と笑って話す。
「これが終わったら、一度、故郷のナフタリへ帰ろうと思ってるんだ。子供の頃に離れたきり、一度も帰っていないし、……母さんの墓参りもしたいしね。だから君とはいけない。でもいつか、落ち着ける場所を見つけたら、君達の方法で手紙を書くよ。そうしたら、どんなに先になってもいいから、一度だけ僕に会いに来て」
 トビトが言えば、イナンナもそれを否とは言わなかった。そしてついに、──その日を迎えたのである。
 
 長く続く身廊の中心に、縄を打たれた男の姿があった。罪人であることを示す鼠色の衣服を身に着けたこの男は、何を訴えるわけでもなく、ただ黙ってそこにいる。彼はそうして待っていたのだ。神でもなく、神官でもなく、彼を、──ダムガルを、仲間である鉄塊の島民アトラハシスが殺しにやって来るのを。
「曲目は、『彼こそは知る』」
 いつもと同じく、年若い神官がそれだけを告げにふいご室へと向かってゆく。トビトはそれを視線で追うと、小さく、ふいごの方へ頭を下げた。この巨大なオルガンに、風を送り込む神の肺。トビトがいなくなってからのカルカント達は、何の統率感もなく無闇矢鱈とふいごを踏むばかりであると、確かバラクが嘆いていたが──、だからこそ、トビトの心は高鳴った。
「──嵐を、」
 ぽつりとそう呟いて、演奏台コンソールへ歩み寄る。歩くのに、もはや杖は必要なかった。真っ直ぐに背筋を伸ばしたトビトは、ただその席へ腰掛けて、いくつかの音栓ストップを引き出した。
「閉廷、閉廷──!」
 事情を承知しているはずの、神官長の堅い言葉とともに、ふいごが動き始めた。風の流れが、オルガンの脇をすり抜けてゆく。
 緊張などは少しもなかった。ただトビトは、巨大な楽器の中心に設けられた、小さな小さなその演奏台コンソールで、深く、長く、息を吸う。
 トビトの手足は、その肺は、もはや暗海の内にはない。
 まずは神官の希望通り、これまでに幾度となく聞いてきた、『彼こそは知る』を奏で始める。誰の耳にもとどまっている旋律であろうから、できる限りバラクの癖を真似たつもりだが、本人にそれを言ったら、どんな顔をしてみせるだろう。
(左足はペダルを踏むのに専念したい。足鍵盤を使えない以上、使える低音は限られる。……だけど)
 階下から、正面の戸を開く音。神官達はきっと今頃、そこに立つ人物の姿を、怪訝に思っていることだろう。
「その男を渡してもらおう」
 朗々たるイナンナの声が、旋律の向こうに聞こえていた。
──鉄塊の島民アトラハシスだ!
 誰かが叫んだ、それと同時に、──トビトは音栓ストップを切り替えて、高らかな音を響かせる。そうしてすぐさま奏で始めた。罪人の無罪放免を報せる、『善きものの門』、その曲を。
 この日のために、部屋に積み上がっていた未開封の荷物を全て開け、譜面を何度も読み込んだ。足鍵盤の音を間引く分、曲を間延びさせないために、手鍵盤の旋律を編曲する必要があったからだ。手元に楽器はなかったから、音を記憶で奏でながら、木箱に縞模様を描き、そこで指を動かした。
 指が重い。鍵から鍵までのその距離が、途方もないもののように感じられた。
 それでも音を追いはしない。
(追わない。僕が導くんだ。僕は、──この鍵盤の上でなら、)
 どこまでだって、駆けてゆけるのだから。
 解放を意味する『善きものの門』。猛々しい声を上げているのはイナンナと、ジウスドゥラの人々だろうか。神官達は体裁上、彼らを止める素振りはするが、衝突まではしないはずだ。改門派の神兵達はろくな武器を与えられておらず、正典派の神兵達は、この奪還劇が茶番であることを知っている。
 外の混乱が収まらぬまま、『善きものの門』を奏で終えた。そうしてトビトは目を閉じ、深く息をつくと、もう一曲、──騒動の真っ只中にいる友人に、捧げるための曲を奏で始めた。
(たった一人でこの陸地に踏み入った君が、仲間と共に、どうか無事に、向かうべき場所へ旅立てるように、……)
 これと決めて温めていた、『戦女神の凱旋曲』。軽やかなその旋律は、時に絡まり、立ち止まり、しかし暗闇を駆け抜けてゆく。
──私達といかないか。
 イナンナはトビトに、そう問うた。トビトが長らく死を望んでいたことを知る彼女はきっと、ひとり取り残されるトビトのことを、心配してくれたのだろう。
──私は君に救われた。……私じゃ君を、救えないだろうか。
 彼女の言葉は優しかった。彼女と共に行けるのなら、鉄の島もいいかと思えた。責任感の強い人だ。あの時トビトが頷いたなら、きっと彼女はトビトの手を取り、守り導いてくれたのに違いない。
 だがだからこそ、ようやく自由になった彼女を、縛り付けることはしたくなかった。
 喧騒が遠のいていく。トビトもそろそろ演奏を終え、この場を去らなくてはならない。そうして奏でた最後の音を、その鍵盤を、トビトは長く、手放せないままでいた。
 最後の一音が鳴り止まない。トビトを取り囲む無数のパイプ群には、いまだ、神の呼吸が息づいていた。
「さよなら、イナンナ。──きっといつか、また会おう」

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