鳴き沙のアルフェッカ


第三章 海神祭 -1-

 カン、と木剣ぼっけんのかち合う音が、会場の中を抜けるように響いていく。
 受け止められた。だが退き時ではない。木剣を握る手に、より一層の力を込めてカラヤが前へ踏み込めば、その場がわっと明るく湧いた。
「カラヤ様は、相変わらずの人気者だな」
 対峙した相手、——イスタバルはにやりと笑い、しかしおもむろに重心を落とすと、カラヤの木剣を受け流す。その剣が瞬時に弧を描き、違わずカラヤの胴へ向かえば、広場モンガに集う観客達は、また明るく声を上げた。
「そっちもな。キャーキャー言われていい気になるなよ」
 すれすれで相手の攻撃を躱し、退いて間合いを取る。肩で息をしながらカラヤが言えば、イスタバルは頬に流れた汗を、己の腕で雑に拭った。
 その日、その時。
 カラヤがあれほど待ちに待った、十五の歳の前夜祭。
 人で埋め尽くされた広場モンガの中心で、カラヤとイスタバルは今、互いに一振りの木剣を携え対峙していた。
 今年の参加者は、イフティラームのくにに住む全ての集落から集められた三十人。昼前から始まった競い合いで、カラヤとイスタバルの二人はそれぞれに当たった対戦者達を相手に技をかけ、あるいは適度に場外へ追い出し、順調にここまで勝ち残ってきた。
 対戦表は、参加者の実力を考慮した上で作られる。だからカラヤもイスタバルも、はじめから理解のあるところであった。
 決勝で当たるその人物が、己の最もよく知る友になるであろうことを。
 木剣がまた音を立ててかち合い、弾かれる。両者の剣が一瞬空へ浮いたのを見るや、カラヤは左手を剣から離し、右足を大きく踏み込むと、瞬時に相手の懐へ潜り込んだ。実力は拮抗している。このまま打ち合っていたのでは、いつまで経っても決着がつかない。ここでひとつ、決め手になる技をかけなくては。
 木剣を持つイスタバルの両腕の間へ、空になった左手を差し入れ、捻り倒そうと身を捩る。しかし一歩先んじてその動きを読んだのであろうイスタバルが、思い切りよく木剣の柄を引いてよこしたところへ、カラヤは腕を強打した。
 熱狂する周囲からの応援の声。体制を立て直すためにもう一度距離を取り、カラヤは、ふと視界に入ったその人物の姿に、つい、小さく笑い声を零してしまった。
 地べたに座り、あるいは立ち上がって拳を振り上げ、こちらを見守る観客達——イフティラームの民達の間には、麻の布で天蓋を張った貴賓席が設けられている。そこには首長であるムハイヤラや、警備隊長のミスマール、他に祭を取り仕切る神官達が座しているのが常であるが、その中に一人、場にそぐわぬ仏頂面をした、壮年の男が座しているのが見えたのだ。
 今日の日のため、わざわざ祭の様子を見学に来た、宗主国ダフシャの役人だ。これまでであればイフティラームの祭のことなど、報告書を受け取るだけで済ましてきたかの国が、今年に限り、わざわざ使者を立ててよこした。それがどういう意味なのか、この使者が一体何を見に来たのか、カラヤはよくよく承知している。
(ダフシャの下っ端役人め。俺の実力をとくと見て、ダフシャ王に伝えろよ。俺はお前達の駒にはならない。美しいこのイフティラームの郷は、イフティラームの人間のもの。強欲なダフシャの王の手先になど、俺が成り得るはずがないのだと、今日、はっきりと見せつけてやる)  突きを繰り出したイスタバルの技を辛くも避けきり、咄嗟に右の腕を伸ばす。突き出されたままの剣を片手で抱え込み、左手の剣を振り下ろせば、イスタバルの舌打ちする声が聞こえてきた。同時にまた、観客達がワッと湧く。
——祭で証明しよう。
 迷いをみせたイスタバルに、心の底からカラヤは言った。
——海神様にも、この岩窟墓ロコ・マタに眠るイフティラームの英魂達にも認められるような戦いをして、俺達はイフティラームの人間なんだって、二人とも、胸を張ってそう言おう。
 そうだ。ここで武勇を見せつけて、カラヤは今日こそ心の底から、この郷の人間として生まれ変わるのだ。その為には、普段鍛錬を積むためにしているような生易しい戦い方でいてはいけない。全力でこの友に立ち向かい、そして、——勝利を勝ち取らなくては。
 剣先を垂らし、張り合いの声を上げて駆け、下方から斬りつける要領で木剣を薙ぐ。両手を振り上げたままのイスタバルは、それを受け止める体勢にない。今だ。このまま打ち込めば、カラヤの勝ちは確実なものになる。そう考えた。
 しかし。
 不意になにやら、視界が揺れた。戦いの高揚感は変わらないのに、気づけば息が上がっている。ほんの一瞬、妙な違和感がカラヤの腕に駆け巡った。
 手先が痺れて、顔を顰める。それは一瞬のことだった。
 だがその一瞬が、
 この戦いの勝敗を決めた。
 イスタバルの振り下ろした木剣が、カラヤのそれを弾き出す。受け止めなくては。しかし掌中に力が及ばない。カラヤの木剣が彼の手を離れ、弧を描いて空に舞う。全身に汗が吹き出した。体勢を立て直さなくては。そう思うのに、まるで目に見えぬ何者かに手足を押さえつけられてでもいるかのように、ちっとも身体の自由がきかないのだ。
 我が身の思わぬ裏切りに、目の前が闇に閉ざされる。しかし、——その闇の中にあってすら、イスタバルの眼光がぎらりと輝いたことだけは、カラヤの意識に確かであった。
 イスタバルが返す手で、己の木剣を握り直す。荒い息をつくイスタバルと、刹那、目があった。だが長くは続かない。
 息が詰まって、膝をつく。
 イスタバルの木剣は、違わず、容赦なく、カラヤの胸元を突いていた。
 膜鳴打楽器クンダンの音が鳴り響く。同時に二人の周囲からは、——大歓声が沸き起こった。
 人々が喝采の拍手をもって、勇士の戦いを褒め称える。わっと駆け寄る人々が、イスタバルの腕を取り、蹲るカラヤの肩を叩いた。
 そこに勝者と敗者がいた。
(——敗けた)
 胸の奥に、言葉が落ちる。
 敗けた。カラヤは敗けたのだと、その実感が、じわりと遅れて訪れる。
 人々に揉みくちゃにされながら、しかしカラヤは必死に、その頬に笑みを貼り付けようとした。敗けは敗けだ、認めなくては。いつまでも打ちひしがれていたのでは、きっと人々に笑われる。そうは思うのに、後から後から訪れる、その実感が、胸を締め付けて煩わしい。
「カラヤ、」
 取り囲む人々の間に分け入るようにして、座り込んだままでいたカラヤに伸ばされた手があった。イスタバルの左手だ。戦いの後だ、彼も消耗しているのだろう。いびつに刻まれた例の傷跡へ沿うようにして、玉のような汗が滲んでいる。
「……、いい、自分で立てる」
 断って、すぐにその場へ立ち上がる。一瞬視界がまた揺れた。ふらりと身体が傾ぐのを、イスタバルの腕が支える。今度は拒絶もできないままでいると、不意に、——気まずげな表情でこちらを見る、この親友と目があった。
(勝ったのはお前の方なのに、)  何故そんな、情けない顔をしているのだ。そう考えればカラヤの腹に、ちらりともやが湧いて出た。
 おぼつかない足取りで、人々の熱気に押されながら、しかし己を支えるイスタバルの胸ぐらへ手を伸ばす。顔を寄せて相手を睨めつけ、カラヤは押し殺した声でこう言った。
「そんな顔するな。俺は全力で戦った。お前だって、そうだろう」
 イスタバルは、カラヤの言葉に応えない。
「敗けたことは悔しいさ。でもおまえにそんな顔をされたら、悔しいよりも虚しいよ。……約束しただろ。海神様にも、歴代の英魂達にも認められるような戦いをしようって。俺達ちゃんと、それに見合うだけのことは出来たよな?」
 イスタバルはそれでも、なかなか応えを返さない。しかしそうこうするうちに、二人を取り囲むイフティラームの人々が、また盛大な歓声を上げた。祭具を手にした神官達が、歩み寄り皆の前に立ったのである。
 例年、前夜祭を勝ち抜いた人物は、祭主の証にして戦いの神のシンボルである水牛の角と、勇者の証である鯨の骨で作られた剣とを神官達から賜ることになっている。だが神官のすぐ脇に立つその男を見て、カラヤは思わず眉を顰めた。先程まで貴賓席で仏頂面をしていたダフシャの使者が、何故だか、神官の隣に控えていたのだ。

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