第三章 海神祭 -2-
「皆、静まれ」
重々しく投げかけられた神官のその言葉に、興奮冷めやらぬ様子で浮かれていた人々が、徐々に声を落としていく。広場に満ちていた熱狂が、静かな期待に移り変わったのを見て取るや、神官の一人が杖をついた。それに付き従っていた巫女は巨大な水牛の角と剣とを掲げると、人々に囲まれたイスタバルへ向けて、そっと歩み寄ってくる。
響き渡る膜鳴打楽器の音。巫女が歩みを進めるに連れ、人だかりが割れ、道ができた。勇者を称えるための道。イスタバルを祭主として、海へ送り出すための人の道。例年通りのその光景に、カラヤもイスタバルから手を放し、奥歯を噛み締めて、皆と同じように頭を垂れる。
「イスタバル。神と精霊の家はお前を、本年の祭の主として認めます」
勇者の証たる鯨の骨の剣を手渡しながら、抑揚のない声で、巫女が静かにそう告げた。しかし彼女は祭主の証たる水牛の角を、いつまでも手渡そうとはしない。
「それから、」と耳元に聞こえたその声に、カラヤはふと顔をあげた。しかしそうしてみて、——瞠目する。
水牛の角を手にしたままのこの巫女は、まっすぐに、カラヤに顔を向けていたのだ。
「それから、祭主たるイスタバルに同行する付き人として、カラヤを任命することに致しました」
「付き人、……?」思わぬ話に、言葉が漏れた。だが事の異様に首を傾げたのは、勿論カラヤだけではない。
その年の勇者、祭主に選ばれた人間が、海の祭壇——沖の孤島に設けられた櫓へ向かい、祭壇に火を灯す。それが、海神祭の流れである。祭壇にはあらかじめ海を渡った神官達が待機しているものの、通常、祭主はイフティラームの浜から海の祭壇まで、己一人で船を漕ぎ入れるのが伝統だ。それなのに。
「神官方。これは一体、どういうことですか」
祭主に付き人を同行させるだなんて、そんなことはカラヤの知る限り、これまでに一度もなかったことだ。怪訝な思いのままそう問えば、巫女自身も浮かない様子で眉間に皺を寄せ、その背後を振り返る。彼女の背後——人々の前に立つのは神官達と、そして、ダフシャから来たあの使者だ。
「神と精霊の家は今年から、祭主に海を渡らせるにあたり、……一名、付き人を同行させるものとしました。付き人の指名は随時神官衆が行いますが、今年は首長の後継ぎであるカラヤ様に、そのお役目を受けていただきます」
その言葉の端々から、どうやら神官達ですら、納得の行かない決定であるのだということは容易に知れた。つまり。
神官達はその背景を告げることはしなかったが、そこにどんな力が働いたやら、誰の目にも一目瞭然であった。宗主国ダフシャ。神官達に、祭事の手順を違わせるなどと、かの国の圧力以外にはありえない。その上、彼らが指名した付き人、カラヤは、——ダフシャ王の血を継ぐ人間なのだ。
「郷の祭事に関わる重要な決定を、何故今まで話さなかった」
カラヤの肌にふつふつと、徐々に怒りが湧いて出る。
「まさかたった今、俺が……俺が敗れたからといって、無理矢理に作った制度だとでも言うんじゃないだろうな」
強い口調でカラヤが問えば、それまで脇に控えていたダフシャの使者は、有無を言わさぬ口調でこう返す。
「勝負に勝とうが敗けようが、いずれこの郷の長となるカラヤ殿が、郷の祭事について見解を深めることは必要です。別に、たいしたことではないでしょう。ただ首長の後継ぎとして、海神祭に参加すればいいだけの話です」
「俺はこの郷の神官と話している。部外者には黙っていていただきたい」
思わずそう食ってかかるも、使者は飄々とした態度を取るばかりで、歯牙にもかける様子がない。
「部外者とは心外です。この祭はイフティラームと、それを統べるダフシャの繁栄を祈念するための祭であるはず。——第一、ダフシャ人である私を部外者というのであれば、カラヤ様、あなただってダフシャの側の人間でしょう」
「黙れ!」
今にも相手に飛びかかり、木剣で打ってやりたい衝動を、抑えることができなかった。しかし身を乗り出したカラヤの腕を、咄嗟に掴む者がある。
「カラヤ様!」
顔を真っ青にしたイスタバルが、荒げた口調でそう呼んだ。「放せ」とカラヤがそう言えど、「駄目だ」とこの友は譲らない。
「相手はダフシャ王が寄越した使者だ、これ以上は不敬にあたる。——この瞬間も、祭事の場には違いありません。事の次第は祭のすべてが終わってから、……神官達と、直接お話しになるのがいいでしょう」
他人行儀なその言葉に、カラヤの熱が幾らか冷めた。ふと見れば貴賓席に座るムハイヤラも苦い顔をして、黙って首を横に振る。
事を荒らげるなということか。悔しいが、ダフシャとイフティラームの力関係を考えれば致し方のないことであろう。わかっている。しかし。
冷たい目をしたダフシャの使者が、カラヤを、そしてイスタバルを睨めつけてから、ふん、と小さく笑ってみせる。勝ち誇るようなその笑みに、カラヤは怒りを向ける相手のないまま、力任せに、巫女の持った水牛の角を取り上げた。そうしてそれを無理矢理に、イスタバルの左腕へと押し付ける。
「これは、お前が受け取るべきものだ」
怒りを押し殺してそう言えば、イスタバルは困惑した様子で浅く目を伏せ、ようやくカラヤの腕から右手を放すと、おずおずとそれを受け取った。
ダフシャの使者が颯爽とその場を後にすれば、それに付き従うかのように、神官達も退場する。先程まで明るく湧いていたイフティラームの人々は黙り込んで、気遣わしげに、カラヤ達から離れていった。
腸が煮えくり返っていた。だがカラヤにはどうしようもない。
カラヤは握りしめた拳を震わせて、しかしそれを、ただ黙って振り下ろした。