鳴き沙のアルフェッカ


第二章 疑惑と問責 -2-

 騒海ラースの民。この一年、にわかによく耳にするようになったその言葉を聞けば、カラヤの背筋に汗が湧く。左掌に残る傷跡へ、気づかぬうちに、爪を立てる。
「かつてこの海で非道な略奪を繰り広げた騒海ラースの民が、昨年、このイフティラームの海神祭に乱入した。祈りが妨げられたことだけが問題なのではない。やつらが再び、ダフシャの勢力下に姿を表したことが問題なのだ。
 お前達もよく承知しているだろう。騒海ラースの民の獰猛さは獣と同じ。かつて我らの祖先らは、猛威を振るう騒海ラースの民に立ち向かうため、ダフシャを筆頭にイフティラーム、ザミール、タンムズ、アイヤールの五国で奴らに立ち向かい、我らの陸地と海とを守り抜いたのだ。それなのに昨年、——沖合の祭壇だけとはいえ、お前達は、騒海ラースの民にその侵入を許してしまった。それも奴らは周到に、何年も前からこの郷へ、内通者を潜り込ませていたというではないか。お前達はそれに気づきもせずに、その内通者を、——昨年の祭主に任命した」
——最近色々、考えちゃってさ。例えば、……俺なんかが祭に参加してもいいのか、とか。
 この一年間、嫌というほど思い返したその言葉が、カラヤの脳裏に蘇る。
——俺みたいな他所者が、その大役を担うことになったりしたら、……海神様や、ここに眠っている戦士達の英魂がお怒りになるんじゃないか、罰が当たるんじゃないか、なんて。
 「その件については、お答えしかねます」カラヤの隣に座したムハイヤラは、きっぱりとした口調でそう言った。
「確かに騒海ラースの民の連中は、この郷の兵士の配置をよく把握していた。内通者がいた可能性はあります。しかし、……昨年の祭主であったイスタバルは、十分に勇敢な男でした。海の祭壇に押し寄せた騒海ラースの民の兵どもを一人で相手取り、己の命が絶えんとする中で、狼煙を上げて我々に異変を報せた。それが功を奏して、我々は奴らが陸に上る前に迎え撃ち、追い払うことができたのです」
「では何故その男は、海の祭壇へ行く前に、付き人であったカラヤ殿を沖の岩場に置き去りにしたというのだ? 大方、海の祭壇で騒海ラースの民と合流し、共に陸を襲う予定であったのに、仲間割れでもして争いになったというところであろう」
「聞くところによればカラヤ殿は、麻痺毒を盛られていたというではないか。状況証拠は揃っている。その男が、騒海ラースの民の手引をしたに決まっている」
「歴代の戦士が眠る岩窟墓ロコ・マタに、その男の墓すら彫ったらしいな。何故そのようなことができる! まさかおまえも、騒海ラースの民と通じているのではあるまいな」
「——そのようなわけがございません。ただ我々は、誇り高き戦士の魂を尊重するまで。あの者が騒海ラースの民と通じていた確固たる証拠がない以上、郷の為に戦い、命を落とした者に敬意を払うのは、当然のことです」
 断固たる口調で言うムハイヤラの言葉にも、使者どもは耳を傾けない。
「カラヤ殿はどう思われる」
 突然矛先を向けられて、カラヤは小さく息を呑む。左掌を掻きむしっていた指先が、緊張に強張った。
「そうだ。カラヤ殿は祭主の付き人として、直前までその男と行動をともにしていたはず。あなたが一番、真実から近いところにいるはずだ」
「カラヤ殿は実際に毒を盛られているんだ。件の男をお許しになるはずがなかろう」
「そもそも何故、こんなに立派な後継ぎがいながらにして、イフティラームの人間は他所者を祭主に選んだのだ」
 向けられるすべての言葉が、まるで抜き身の刃のように、カラヤの全身に突き刺さる。そうだ、頭ではわかっている。あの時、あの事件の直前まで、カラヤはイスタバルと共にいた。いやそうでなくたって、カラヤはイスタバルのことを同胞だと、親友だと思っていたではないか。それなのに、——何故彼があのような行動に出たのか、カラヤには、ちっともわからないのだ。
——いつかあんたが首長様の座を継ぐ時、縒り芦の冠をかぶったあんたの隣に、俺も、イフティラームの戦士として立てたらいいな。
——あんたの言う通り、二人揃って、俺達はこの郷の人間なんだって言って胸を張ろう。そうしたら俺も本当に、この郷の人間に、なれるような気がしてきた。
(……、真実を知りたいのは、俺の方だ)  乞うて教えてもらえるのなら、いくらだって乞うただろう。だがどんなに事の次第を問いただしたくとも、心の内を明かそうとしなかったことを詰りたいと望んでも、カラヤの思いは何ひとつとしてかなわない。
「あの男が本当は何を考えていたのかは、……俺にもわかりません。ですが、」
 やっとのことで震えを隠し、カラヤは一言一言を噛みしめるようにして、その場の全てにこう告げた。
 一年前、イスタバルにつけられた左掌の傷跡からは、うっすらと血が滲んでいる。
「皆さんの仰るとおり、あの男と一番長く行動を共にしていたのは俺です。あの男の正体が何者だったのか、一体何をしようとしていたのか、……突き止めるのは、自分の役目だと思っています」

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