鳴き沙のアルフェッカ


第二章 疑惑と問責 -1-

 春雷はいまだ轟いている。
「本日の会食で席に着かれるのは、上座より順にダフシャ執政官のジャーシャム・ポド様、神官のグラハム・クナガ様、神事補佐官のビドゥ・コンゴート様、……」
 政務と裁きの家トンコナン・ラュクの裏手にある自室へ帰り、黙々と身なりを整えるカラヤの一方で、帳面を見るでもなくつらつらと、ジャッドが席次を連ねていく。一度で聞いて、全て覚えてしまわなくては。ダフシャからの客人達は手ぐすねを引いて、こちらの落ち度を待ち望んでいるのだから——。そんなことを考えながら、独演舞踏パレポ・サングバの紋様が縫い込まれた布を手に取り、髪を覆い隠すように頭部へ巻きつけていく。ふと、背後の扉が開く音を聞いて振り返れば、警備隊長のミスマールが立っていた。
「カラヤ様、……ご立派になられましたな」
 頭の先から爪先まで、すっかり正装を身にまとったカラヤを見て、ミスマールはいくらか微笑んでみせた。その言葉はいかにも感慨深げで、彼の本心から出てきたものであろうと思えたが、しかしカラヤは素直に、それに応えることができなかった。
「お前は近頃、随分痩せたな」
「まあ、私ももう歳ですからな。しかし腕っ節を落としたつもりはございません。ダフシャの使者殿がおいでになっている間、くれぐれも粗相がないように、しっかり勤めさせていただきますよ」
 そう言って彼は笑ったが、昔の豪気さはそこにない。息子のように可愛がっていたイスタバルをあんな形で亡くしてからというもの、彼はすっかり気を落として、急に老け込んでしまったのだ。
 カラヤとイスタバルが技を競い合ったあの日から、事件が起きたあの日から、あっという間に一年が過ぎ、今年もまた春雷の季節が訪れた。
 心やすまることのない、陰鬱とした一年であった。だがこうして再びその日を迎えたからには、——カラヤもこの警備隊長も、互いに務めを果たさねばならぬ。
「カラヤ様、席が整いました。ダフシャの方々もじきに参られます」
 女官の一人に声をかけられ、カラヤは小さく頷いた。宗主国ダフシャの人間達。常であれば春になる度、こちらから挨拶に出向き、その場でやり取りを済ますだけのかの国の人々が、今年に限って大人数でぞろぞろとイフティラームのくにを訪れたのには、当然ながら理由がある。
 その理由と、またそれにより起こるであろう応酬を想像すれば、カラヤの胸は憂鬱にいささか萎縮した。
「カラヤ様、」
 穏やかな声で、ジャッドがそう声をかける。
「あまり緊張を召されませぬよう。会食の場では首長様も、私も、ミスマールもお側におります」
「心配ない。——武者震いをしただけさ」
 やっとのことで、苦笑交じりにそう告げる。カラヤは一度目をつむり、大きくひとつ深呼吸した。それから「行こう」と声をかける。
「不本意だが、……親父殿の国の人々に、少しは好かれる態度でいなきゃな」
 
「カラヤ殿、少し見ないうちに、また頼もしくなられましたな」
 見覚えのある男が政務と裁きの家トンコナン・ラュクに入ってくるなりそう声をかけてきたのを聞き、カラヤはただ微笑んで、両拳を胸の前で突き合わせ、イフティラームの戦士としての礼をとる。真っ先に入ってきたのは、毎年ダフシャでの春の挨拶でも顔を合わせる、執政官のジャーシャム・ポドだ。その後ろには十数名の者が連なっており、彼らも、女官達に促されるまま席についていく。
 「ようこそおいでくださいました」と首長のムハイヤラが声をかける傍らで、厚顔無恥な使者どもは、我先にと盃へ手を伸ばしている。カラヤはそれを押しとどめるように、己がまず真っ先に酒を手に取ると、執政官に酌をした。
「イフティラームの米と、山間の湧き水を用いて醸造した酒です。以前貴国への手土産として持参したこともございますが、この土地の食べ物と合わせてご賞味いただけますれば、また格別のものとなりましょう」
 「これは、これは」と執政官が頬を緩ませ、盃を持つ。と同時に屋外から、轟きの音が割りいった。
 春雷。光が降るのは海の先だが、入り江にほど近いこの辺りでは、室内にいてさえその轟きが響き渡る。客人共が肩を震わせるのを面白おかしく見物して、「お気になさらず」と涼しい顔でカラヤは言った。
「今晩は折よく春雷の夜です。こちらがどう思おうが、明け方まで、轟きは響き続けるでしょう」
「何が、折のいいものか。こうして近くで聞いていると、何やら気味が悪いわ」
 使者団のうちの一人が言えば、他の者達も同調するように、含み笑いをしてみせた。
「気味が悪いなどと。この郷では春雷をこそ一番の守護神と崇め奉っているのだから、そのようなことを申しては無礼であろう」
「これは失敬。確かに、毎年このように派手に轟くのなら、崇めたくもなりましょう。他にすがるものもないとなれば、特に」
 誰かがそう結論づけて、またくすくすと笑い合う。
 つまり、イフティラームなど雷が少し派手なだけの、他に何もない郷だと言いたいのだろうか。憮然としたカラヤが、「春雷の多く轟く年は、それだけ米が実ります」と言えば、それすら彼らは一笑に付した。
「まあ、それはよろしい。ところで春雷が轟いたということは、今年の海神祭かいじんさいも近々執り行われるということ。今年こそ、昨年のような不手際はないと考えていてよろしいか?」
 執政官のその言葉に、カラヤは小さく唾を呑む。来た。彼らはそれを問うために、わざわざこの郷まで訪れたのだ。
「昨年のことでは、皆様方にもご心配をおかけすることとなり、弁明のしようもございません」
 まずはムハイヤラが、姿勢を正してそう言った。
「しかしながら、今年こそは万全を期して、海神様に誠心誠意の祈りを捧げるべく、準備を進めております。供物についてはこちらの資料に、それから、」
「海神への祈り、そう、確かにそれも重要だ。この郷と、ひいてはそれを統べる我が国の繁栄の祈念に、落ち度など当然あってはならぬ。だが、肝心なのはそこではあるまい」
 ムハイヤラの言葉を遮るようにそう言って、執政官が盃を置く。そうして彼は身を乗り出し、続けてこう問うてきた。
騒海ラースの民への対策は済ませたのか、と聞いているのだ」

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