世界を包んだ子守歌


「歌なんて、もう大嫌いになろうと思う!」
 律儀に続けてきた日記帳へ、力任せにそう書きつける。そうしたら、少し気分が晴れ晴れした。
 合唱部も辞める。カラオケだってもう行かない。だって、行っても仕方ないもの。お別れするのは寂しいけど、好きなのに離れなきゃならないよりは、嫌いになってしまった方がずっとずっと気楽だと思う。
 うん、まずは中古屋ね!
 私はうずたかく積まれたCDを一枚ずつ、丁寧に紙袋へ入れていった。ライブコンサートのDVDも、もう要らないか。売ってしまおう、何もかも。大した値段はつかないかも知れないけど、この部屋ではもう見たくない。部屋のコンポも誰かにあげよう。後できちんと、埃を払っておかなくちゃ。
 私は鏡に映った自分を見て、困ったように眉根を寄せた。しまった、しばらくは鏡もはずしておくべきだったか。なんだか心がしんみりしてしまう。
 私は鏡に手を伸ばし、そこに映った自分の顔に思わずまじまじと見入ってしまった。別段綺麗でもなければ、それ程酷いわけでもない(と、思う)面白味のない顔。だけどその頭部には、幾重かに包帯が巻かれている。
 頭部への強い衝撃による中途失聴。命があっただけ良かった、と両親は泣いて喜んだ。
 私は一度も泣けなかった。
 私は鏡をクローゼットの隅に置いて、それからふう、と溜息をつく。危ない、危ない。滅入ってしまうところだった。そんなことを思いながらベッドに腰掛け、すぐ仰向けに寝そべってみる。そうすると、枕元に置いたウサギのぬいぐるみと、何とはなしに目があった。
 いいわね、あんたは悩みなんて一つもないような顔をして。
 私はからかい半分にそんなことを思いながら、目を閉じた。ああ、なんだか急に眠くなってきた。いけない、寝るなら電気を消さなくちゃ――
 
 目を覚ますと、そこは見知らぬ森だった。いや、森にしてはどうにも不思議な場所である。沢山木が生えているから森と言って間違いはないと思うけれど、どの木もまるでクレヨンで描いた落書きのようなのだ。大体、どうしてこんな所にいるのだろう。私がぼうっとした頭で考えていると、目の前を何かが駆け抜けていった。
 うさぎだ。あの、ぬいぐるみの。
 あまりのメルヘンさに、私は思わず言葉をのむ。
 夢、なのだろうか。そう問いたくても、問う相手がいない。私が戸惑いを隠せずにいると、先程のうさぎが律儀に戻ってきた。
 うさぎは何やら切羽詰まった様子で、私に向かって話しかける。けれど私には、そのぬいぐるみが何を訴えようとしているのやらさっぱりだった。そっと頭に手をやってみると、そこに包帯が巻かれているのがわかる。ああ、なんて中途半端なメルヘンなのだろう。夢の中でもやっぱり私は、聴力を失ったままだったのだ。
 うさぎの瞳に涙が浮かんだ。私は困って視線を逸らす。するとうさぎが私の視界に回り込んで、またなにやら訴え始めるのだ。身振り手振りを一応見てはみたけれど、それでもやっぱり意味がわからない。
 私、手話だってまだろくに使えないのよ。そう思ってうんざりと溜息をつくと、うさぎは何かに思い当たったかのように、私の目をじっと見つめてこう『言った』。
「ねえ、僕たちの世界を助けて! この世界を救うためには、君の歌が必要なんだ!」
 一体、どこのファンタジーですか。
 私の胡散臭そうな視線に気づいたのだろうか。うさぎは私の周りを飛び回って、必死に何かを訴えかける。どうやら視線がしっかりとあった時にしか、うさぎの声は私に届かないらしい。けれどもとぎれとぎれの情報から得たところによると、どうやらこの世界は危機に瀕していて、それを救うために私の歌が必要なのだという。
 なんて夢。歌なんて、大嫌いになろうと決意したばっかりだったのに。
 残念ね、助けを求めるのが少し遅すぎたわ。心の中で、私はそう呟いた。少し前までの私なら、どんな歌でもお好み通り歌ってみせたでしょうに。今だって、けっして歌えない訳じゃない。耳が聞こえないからといって、声帯まで壊してしまったわけではないもの。だけど。
 考えてもみて。あなたが……まあそれなりに、私くらいに、歌を歌うのが好きな人だったとする。だけど突然、聴力を失って。声の出し方だって知っている。沢山の曲も知っている。歌おうと思えば、いくらだって声は出せるわ。だけど自分の耳で、音を確認することは出来ないの。どんなに気持ちよく歌っても、音はばらばらかも知れない。記憶なんて曖昧だもの。少しずつ、少しずつ、音というものを忘れていって、しまいには――
 そう思ったら、とてもじゃないけど歌えやしない。良い歌を歌うための条件は、まず自分に自信を持つこと。そして歌を楽しむことだと私は今まで信じていた。だけど、今の私にはどちらも出来ない。歌うのが怖い。誰かにそれを、聞かれるのが怖い。
 なのにどうして、こんな夢を見るの。
 俯くと、うさぎが心配そうに私のことを見上げているのがわかった。だけどそれも一瞬で、うさぎはくるりと体の向きを変えると、どこかへぴょんぴょこ駆けていってしまう。
 ――ちょっと、待ってよ!
 なぜだか追いかけてしまった。私は森の中を、うさぎの後について一息に駆けた。夢の中なのに、走るとすぐに息が上がった。退院したばかりで、走るのなんて久々だったのだ。
 そのうち視界がぐらついてきて、私は立ち止まって息を整えた。ふと視線を上げると、いつの間にか辺りは森ではなくなっている。……見知った公園だ。もう随分行っていないけれど、昔はここでよく遊んだ――
「はーい! 次、私ね!」
 滑り台のてっぺんから、急にそんな声がした。目を合わせてはいないのに、何故聞こえてきたのだろう。私は声の方へ目を向けて、驚いた。そこにいたのは、他でもない幼稚園の頃の『私』だったのだ。滑り台のてっぺんで、友達と一緒に当時流行っていたアニメの曲を歌っている。今見るとどうにも恥ずかしい。だけど、間違いなく『私』だ。
 少し歩くと、今度は小学校が見えてきた。音楽室から歌声が聞こえる。そっと窓を覗き込むと、やっぱりそこに『私』がいた。
 気持ちの悪いことに歩けば歩くほど、私の周りは『私』のオンパレードだった。帰宅途中は鼻歌交じり。学校へ行っては友達と一緒にピアノやオルガンで伴奏をつけて、部屋に帰ると大好きなグループのCDを聞きながら、歌詞を口ずさむ。
 ああ、段々嫌になってきた。
 私ってば、どうしてこんなに――歌が、大好きなんだろう。
 立ち止まると、誰かに足を叩かれた。柔らかい感触で、それが誰なのかはすぐに知れる。視線を下ろして、苦笑した。
「ねえ、僕たちの世界を助けてくれる?」
 ああ、そのためにあんなものを見せたのね。私はにこにこと笑いながらしゃがみ込むと、うさぎへ向かって思いっきり強いデコピンをかましてやった。
 鈍感な私にだって、わかったわよ。つまりはこういう事でしょう。
 すっくと立ち上がり、一度大きく深呼吸する。私は森へ帰ってきていた。今、私の周りには、部屋のぬいぐるみ達、両親、友達、今までに私の歌を聞いてくれていた誰も彼もが集まっている。
 どうせ、夢の中だもの。
 そんな風にも、少し思った。だけど手を抜こうとは思わない。私はめいっぱいに息を吸い込むと、音を紡ぎ始めた。童謡、ポップス、合唱曲、それから最後は、大好きな――
 私自身の声は、最後まで遂に聞こえなかった。
 だけど私の心は戻ってきた。なぜだか、そんな風に思った。もう二度と、歌を嫌いになろうなんて馬鹿なこと、考えたりはしないだろう。多分この世界の危機って、そういうこと、だったのだ。
 これでいいんでしょう? と、私はうさぎに目配せする。うさぎが嬉しそうにはね回るのを見ていたら、なんだか、目許が熱くなってしまった。やだな、どうして泣かなきゃならないの……
 
 目を開けると、そこは私の部屋だった。電気をつけたまま、ベッドに横たわって眠ってしまったらしい。私が大あくびをしていると、唐突に部屋の扉が開かれた。お母さんだ。ノックくらいしたのかも知れないが、今の私には聞こえない。
 お母さんは私の前に新聞の記事を持ってきて、慣れない手話でこう言った。
「諦めるなよ!」
 にっと笑って、ガッツポーズ。記事には、聴力を失っても尚あがく、一人のミュージシャンのことが書かれていた。
2008/2/26
『世界を包んだ子守歌』お題提供:miwa様

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