もう二度とない「今」を


「今日は、カットとパーマで大丈夫?」
「はい。……あ、久しぶりに前髪も作ろうと思ってるんですけど」
「分け目はいつもの辺りでいい?」
「それで、大丈夫です」
 君とこんなやりとりを、もう何回交わしただろう。そんなことを考えながら、君の長い髪に手を伸ばす。
「これで最後かもしれないね」
「でも、実家はすぐ近くですもん。きっとこれからも、たまに寄らせてもらいます」
 君はそう言って、笑った。
 
 君に初めて出会ったのは、もう十五年も前のこと。あの頃の君はまだ中学に入り立てで、重そうな縁のある眼鏡をして、髪を三つ編みに結っていた。
 校則が厳しいから、なんて言って真っ黒な髪を伸ばしていた君の姿は、免許を取り立ての新人美容師だった俺には、なんだか特異な存在に見えたんだ。この平成の世の中に、こんなレトロな女学生がいるものかと、時代錯誤に感じたことも認めよう。そんな君がある時から、店に来るたび俺の名前を呼ぶようになった。
 無精な君は、あまり髪にも気を遣わない。半年くらい、店に来ないこともざらにあったね。だけど俺はいつの間にか、年に数回しか会わない君のことを、妹みたいに思ってた。
 
 俺が髪を切る間、中学生だった君の目は、鏡越しに俺の手先をじっと見ていた。目の前に積まれた雑誌には目もくれず、ただ真っ直ぐに、俺の手だけを見ていたよね。
 俺は、君のその目が好きだったんだ。
 
 高校生になった君は、部活が楽しくて仕方ないのだと俺に言ったね。少年のように日焼けした君が、少しでも楽にセットできるよう、俺がどれだけ腐心したかを知っているかい? あまりに洒落っ気のない君を見て、俺は内心残念に思っていたんだ。もっとお洒落に気を遣えば、君はもっと輝けるのに。まさかそれに気づかないまま、年を重ねたらどうしよう、なんてお節介な心配をしたりしたんだよ。
 
 だけど心配要らなかったね。大学生になり、社会人になり、化粧を覚えた君はみるみるうちに、素敵な大人の女性になった。もう昔みたいに俺の手をじっと見ることはなくなったけど、ふと雑誌から顔を上げた君は、今も鏡越しに微笑みかけてくれる。
 
 だから今日、君から話を聞いたときには驚いた。
「私、今度引っ越すことになったんです。だから今までみたいには、この美容室にも来られなくなるかもしれないの……」
 そう言って寂しげに笑った君の左手の薬指には、綺麗な指輪が輝いていた。
 
 ああ、そうか。
 なんだかやけに、寂しかった。
 おめでとう。
 おめでとう。
 だけど同時に、嬉しかった。
 君があまりに幸せそうに、きらきら輝いて見えたから。
 
「結婚しても、またいつでも店においで」
 君は笑顔で頷いて、そして店から去っていった。
 またおいで。いつでもおいで。
 人を愛する喜びを知り、母になって、年を重ねて、もっともっと輝いていくその姿を、たまには俺にも見せにきておくれ。
 君にとってのもう二度とない「今」を、これからも俺に見せておくれ。
2011/2/22
『もう二度とない「今」を』お題提供:旅様

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