夜明け


 この時期に素手でジャングルジムを登るのは、ちょっときついなと俺は思った。それでも約束通りに登りきり、かじかんだ手をポケットに入れる。
 ジャングルジムのてっぺんって、こんなに低いものだったっけ。俺が大きくなったから、そんなふうに思うのかな。
 携帯電話の画面を見てみると、時刻は午前六時三十分。俺は白い息を吐きながら、公園の入口を振り返る。自分の吐いた真っ白い息は見えたけど、あいつの姿はまだ見えない。
 単語帳でも、見ていようかな。一瞬そんなことを思ったけど、やめた。昨日は紅白も見ずに、塾で勉強してたんだ。今くらい、ちょっと『受験生』じゃなくたっていいじゃないか。そう思ったからだ。
「おせーなぁ……」
 呟く。三重に巻いたマフラーに顔を埋めても、鼻先はいっこうに温まらない。
 おいおい、間に合わねーぞ。早く来いよ。
 心の中でそんなことを思っていると、遠くの方で足音がした。
 明け方の空って、なんだか余分な音を全て吸い取ってるみたいだ。俺は思わず、そんなことを思った。この辺りは住宅街で、小さい子供もあまり多くはないから、昼間だって十分静かなのだけれど――この静けさは、特別だ。『静寂』の、『音』がする。
 俺の背後で、足音が止まった。そうしてその後から、ぜえ、はあ、と肩で息をする声。俺は振り返ると、開口一番「遅い!」と文句を言う。
「悪りぃ、寝坊……」
「わかった、わかった。いいから早く登れって」
 俺がそう言ってジャングルジムをぽんぽん叩くと、そいつ――圭太も顔を上げて、ひょいと身軽な動作でジャングルジムを登ってくる。ち。こいつ、寝坊したくせにちゃっかり手袋してやがる。
「おまえ、すごい寝癖ついてるぜ」
「友樹だって似たようなもんだろ。それより、どうだよ。見えるかな」
「ばっか、こんなに晴れてるんだ。見えないわけねーよ」
 そう言って俺がにやりと笑うと、圭太もつられて笑って見せた。そうしてそれから二人して……同時に、東へ顔を向ける。
 住宅街に囲まれた、小さな小さな公園のジャングルジム。地平線なんて見えっこない。それでも。
 真っ赤に染まった初日の出は、俺たちの目の前にちゃんと現れた。
「圭太」
「何?」
「高校さ、私立受けるんだろ?」
「うん、まあ――公立も受けるけど。内申良くないから、低めのとこ。友樹は、公立志望だよな」
「うち、下に兄弟いるし」
 圭太を振り返ろうと思って座り直したら、ジャングルジムの棒がやけに冷たかった。なんだよ、ジーパン履いてるのに尻が凍りそうだ。俺が元いたところ、つまり俺の体温で暖まった方へ戻ったら、携帯のストラップが金具にあたって、キン、と鉄の音がした。
「ちぇ。腐れ縁も春までか」
「幼稚園からずっと一緒だったもんな、俺たち」
「そうそう。泣き虫だった友樹クンを俺が助けてやったら、そのまま懐かれちゃってさ」
「彼女にふられて泣きついてきたの、どこの誰だったっけな。それもつい最近」
「傷口をえぐるようなこと言うなよ……。秋川に喧嘩売られて、俺のとこに本気で逃げてきたりしたくせに」
「へえ、八月三十一日には毎年宿題手伝ってもらっておいて、そういうこと言うわけだ?」
 目は合わせない。俺も圭太も、ただ昇っていく朝日を見ていた。既に白みきった空の麓にオレンジ色の光が映えて、段々と一日が目を覚ましていく。
「あのさ」
「なあ」
 二つの声が重なって、俺たちはようやく顔を見合わせた。お互い白い息を吐いて、肩を縮こまらせて丸くなっている。「なんだよ」と俺が言うと、「そっちが先に言えば」と圭太も言った。
 二人とも、口をつぐんでしまった。そうしたらなんとなく可笑しい気分になってきて、二人で一緒になって笑った。
 
 時刻は午前七時。すっかり明るくなった空の下で、俺たちは寒い寒いと言いながらジャングルジムを降りた。
 公園を出たら、家はそれぞれ反対方向だ。俺は軽く片手を上げて、「じゃ、また」と短く声をかける。
「また、明日」
「ん。明日と来年」
 俺が何気なくそう言うと、圭太は驚いたように目を丸くして、それから「おう」と返事した。俺はさっさと自分の家の方へ向くと、両手をポケットに押し込める。
 『あのさ』の続きはわかっていた。圭太も多分、わかってたと思うけど。
 俺はポケットの中で指先を動かしながら、来年こそは、絶対に手袋を忘れないようにしようと胸に刻んだ。
2008/2/16
『夜明け』お題提供:森林様

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