哀しき王女が笑うとき


 暗闇から唐突に、スポットライトが私を照らし出す。
 目の前には誰もいない。眩しさに一瞬目が眩んで、私の世界は真っ白になる。
 誰もいない。
 誰もいない。
 不安になる。でも、だから好き。あなたがいないこの客席を、見なくて済んで、ほっとする。

「今日も、いなかった」
 劇団の裏方達が大道具を片付け、客席を清掃するのを見ながら、私はぽつりと呟いた。邪魔になっては申し訳ない。そう思ったから舞台の端を、壁に沿うように歩いていく。いつものことだ。だから、私のことなど誰も気にとめない。
 客席へ降りてみると、誰かの忘れ物だろうか、席に人形が座っていた。麻布を縫って作られた、ざらざらとした手触りの人形だ。顔の部分には大きなボタンが二つつけられており、そのずんぐりとした目と視線があうと、思わず泣きそうになってしまった。
 そっと人形を抱き上げる。懐かしい、乳の匂いがする。この人形の持ち主には、幼い妹か、弟かがいるに違いない。
「いつ迎えに来るの。――お母さん」
 呟く。その声は、きっと誰にも届かない。
 幼い頃から、舞台を見るのが好きだった。家に帰って劇のまねをしてみせるのはもっと好きだった。砂漠の国のお姫さま、シルクハットをかぶった吸血鬼、どんな役でもこなしてみせた。「レミラはきっと、大女優になるわ」そう言って笑う、母が大好きだったからだ。
 けれどその母も、もうそばにはいてくれない。五年前のある晴れた日、私をこの一座へ預けたまま姿を消してしまったのだ。
「レミラ! こんなところにいたのか」
 声がして、私は素早く目許の涙を拭い去った。あの声は、座長の息子であるイプセだ。
 私が慌てて振り返ると、彼は小さく吹き出した。私がいぶかしげに首を傾げると、彼は「ごめん、ごめん」と笑いながらこう話す。
「いや、似合うよその人形。とてもじゃないけどさっきまで、強欲の魔女を演じていた少女だなんて思えないな」
「役は役、私は私だもの」
「まあ、そうだね。舞台の上のレミラは、どんな役だってこなすんだから。――そうだ、レミラ、ニュースだよ! 公演が終わったばかりなのになんなんだけど、次の舞台の主役、レミラに決まったってさ!」
 また、とった。レミラは自分のことのように喜ぶイプセを見ながら、ぼんやりと、明日からは大事なもの全てを常に持ち歩かなくては、と考えていた。ここ最近、主役が女性の舞台は必ずレミラのものだ。その度に他の役者達から疎まれ、嫌がらせが酷くなる。今日だって舞台を降りるとレミラの服がなくなっていて、しばらく魔女の姿のまま、舞台裏をさまよう羽目になった。
「しかも今度の巡業は、首都で演れるんだぜ。僕も営業、頑張るよ! だからレミラも……」
「首都……首都まで行くのね」
「嬉しくないのかい? 僕なんて威張りくさった都会の奴らにレミラの演技を見せられると思うと、それだけで海底だって走れそうな勢いなのに」
 イプセはいつでも、大げさだ。私は苦笑すると、「嬉しいわ」とだけ短く答える。
 主役は良い。誰よりも舞台に長くいられるし、一番注目が集められる。観客席にいる誰かが私に気づいて、その舞台がいかに素晴らしかったか、私がどんなに頑張っているか、お母さんに伝えてくれるかもしれないから。
 だけど首都は嫌い。そこは私が、お母さんと別れた町だ。あの町で孤独を味わうのは、どんなところで一人になるより辛い。
 
「あなたは酷い方。その勇気があなたの命取りになるかも知れぬというのに、幼い坊やのことも、やがてあなたに先立たれ、独り身になる不運なわたくしのことも憐れんではくださらぬ。――」
 今度の役は、敵国に嫁いだ年若い王女だった。政略結婚ながらも夫を愛し、戦時下に行方不明となったその夫を探し歩く、強いが孤独な女性の役。
「何よ、あの根暗女。どうせまた、座長の息子に取り入ったんでしょ」
 稽古中にもどこかから声が聞こえたが、取り合おうとは思わなかった。好きに言ったらいい。そういうことには慣れている。正直なところ、他の団員にどう思われようと、どうでも良いのだ。私が演技を続けることで、それがどこかで、お母さんに繋がるのなら。
 だが、それでも。
「いつまでもお母さん、お母さんって。迎えなんて来るわけないわ。あの子の家、爵位を失って一家離散したんでしょ? この一座に預けられたのだって、ようは捨てられたってことじゃない」
 胸に刺さる一言に、そしてそれを納得してしまう自分自身に、抗えない。
 巡業は嫌いだ。昼間は馬車で移動して、夜は舞台の稽古をする。いつでも誰かが側にいて、どこにも逃げる場所がない。
 ある晩、みんなが完全に寝静まるほど遅い時間になってから、私は宿営地を抜け出した。昼間は暖かかったこの平野も、夜になれば冷たい風が吹き、私の髪をさらっていく。私はマントを羽織りなおして、深く、長く、息をした。しかし、その時だ。
「レミラ。どこへ行くんだ?」
 穏やかな声に、びくっと肩を震わせる。イプセだ。夜の出歩きは禁じられていたのに、見られてしまった。
 私が言い訳の言葉を探していると、ふと、彼が微笑んだ。そうして笑顔で、こんな事を言う。
「お母さんを、探しに行くのかい?」
 耳を疑った。
 突然、何を言い出すのだろう。
「私。――私は」
「君がこの一座にやってきてから、もう何年経っただろう。……覚えてる? 僕たちのところへ来たばかりだった君は、泣いてばかりで酷く臆病で。だけど当時君が持っていた人形――そう、マリアだ。僕がマリアに話しかけると、君はまるでその人形が生きているかのように、本当に上手く一人二役を演じてみせた。この前劇場で君と人形を見て、急に思い出したよ」
 そう言って穏やかに笑うイプセは、やけに大人びて見えた。
 平野に風が吹く。私が飛ばされないようにと体に巻き付けたマントを強く握ると、彼は、その上から私の肩へ手を置いた。
「レミラ。君はもう人形を通してでしか話せなかった子供じゃない。本当に会いたいと思うなら、君はいつだってお母さんを探しに行けるんだ」
 イプセの瞳が、まっすぐに私を見ている。それ以上、言わないで。余程声に出してそう叫びたかったが、私には出来なかった。
「だけ、ど……だって、だって私知ってるわ。お母さんが私を置いていった時、お母さんは座長からお金を……お金を、もらっていったでしょう。それはつまり、お母さんは、私を」
 売ったんでしょう?
 長年心の中で否定し続けた思いが、自分自身の言葉で真実なのだとふと悟る。私の肩は震えていた。恐ろしかったのだ。何もかもが。だがその一方で、
 イプセの腕も、震えていた。
「父は君に感謝してる。君の演技力は最高だ。君がいなかったら、この劇団はこうまで大きくはならなかった。君を失うのは痛手だが、いつか帰ってくると約束してくれるなら、父も納得してくれるだろう」
「だけど、私一人で出来る事なんて」
「一人じゃない。僕も行く」
 イプセの腕に、力がこもる。彼の顔は月明かりでもわかるほどに赤く染まっていて、そして、その声は今でのいつよりも優しかった。
「レミラ、君のことが好きだ。君の力になれるなら、どんなことでもしたい。君が許してくれるなら――君のお母さんに、ご挨拶を」
 そこまで言ってから、イプセは真っ赤になった顔を背けて手を放した。私は思いもかけなかったプロポーズの言葉に唖然としていたし、彼は彼で恥じらってしまって、その晩は結局二人とも、何も話さず宿営地へ戻ることとなった。
 
 後日。私は首都の舞台に立っていた。
 暗闇から唐突に、スポットライトが私を照らし出す。私は観客席を見回すと、じっと舞台を食い入るように見守る青年を見つけ出した。
 劇はクライマックス。主役の王女が旅立ちを告げるシーンだ。幼い息子は泣き、臣下は皆、王女の旅立ちに反対する。しかしその悲壮なシーンの中で、私は微笑んだ。
 穏やかに、ゆっくりと。客席に座る彼に向かって。
 彼には知らせずにおいたのだ。この旅立ちのシーンについて演出家達と散々意見を戦わせ、その結果、劇のタイトルまでもを変えてしまったのだということを。
 目があった彼は驚いたように無言で息を呑み、それから満面の笑みを返してくれた。
 私の演じるこの劇の名は、『哀しき王女が笑うとき』。私の旅立ちを告げる、始まりの劇だ。
2008/2/15
『哀しき王女が笑うとき』お題提供:琵琴様

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