緑茶を愛するお姫様


「もうこのお店で、あのケーキを食べることはできないのね」
 寂しげに、しかし気遣わしげにそう言った女性は、確か三丁目に住んでいる専業主婦であったと記憶している。「面目ない」と私が言うと、彼女は慌てて、首を横に振った。
 ――長年連れ添った妻が、先月、他界した。享年七十二歳、死因は脳溢血。最近はやりの「ぴんぴんころり」というあれだ。私などはまだまだ若かったのにと悔しく思ったものだったが、孫もすっかり成人し、いくらかの貯蓄と年金とでこの喫茶店を経営できたことを思えば、彼女は大往生を遂げたのだと断言して良いだろう。
 彼女の死にショックを受け、籠もりがちだった私がこの店へ戻ってきたのは三日前のこと。馴染みの客達は喜び勇んで店へ立ち寄り、私のことを慰めてくれた。
 老人ホームを抜け出しては、紅茶を飲みに来る老人。子供を幼稚園へ送った帰りに立ち寄り、楽しそうに世間話をする年若い主婦達。頭の禿げたサラリーマン風の男は、毎週金曜日、同じ時間に現れて、「マスター、いつもの」と言ってコーヒーを飲んでいく。
(みんな、おまえの事を話していくよ)
 私はカウンターの隅に置いた妻のスナップ写真を見ながら、心の中で語りかけた。
(気にかけていた、いつも一人の女生徒がいたろう。あの子なんておまえが見守ってくれていると思うだけで、何でもできるような気分になる。そう言いに来てくれたんだよ)
 本当は妻が死んだ時、この店も畳んでしまおうかと思っていた。商店街の角にある、こぢんまりとした喫茶店だ。きっとすぐに人々の記憶の中へ埋もれていき、忘れ去られてしまうだろう。それでも良い。私の心にだけ、妻との思い出が残されているのなら。けれど私は、もう一度この店へ戻ってきた。ひとえに、この店を愛してくれる人々のおかげだった。
「マスター、あれちょうだい。マスターお得意の、あれ」
 近所の会社に勤めている男が、新聞の記事に目を落としながらそう言った。私は「少し待っとくれ」と声をかけると、コーヒー豆入れの隣に置いた急須に手を伸ばした。
 湯を入れ、少し待ってから湯飲みへと注ぐ。小皿へ沢庵とほうれん草のごま和えを盛りつけると、カウンター越しに男の前へ、それを置いた。
「おお、これこれ。この、ふわっと広がる香りがたまらんね。うちの嫁さんじゃあ、こうはいかねえよ」
「いやいや、普通の緑茶だよ。同じ茶葉を使えば、似たような味が出るさ」
「いいや、違う」
 男が畳んだ新聞紙を脇へ置いて、漬け物へと手を伸ばす。私を見上げるその瞳は、真剣そのものだ。
「何でマスターは、そうなのかねえ。自分で煎れているのに、まるでわかっちゃいないんだから」
 「あのメニュー」と指さして、男が続けた。
「あそこに『緑茶』を書いたのは、志乃さんだって言ってたよな。そう、志乃さんは自分の旦那の事、本当によくわかってたんだ。この緑茶はあんたにしか煎れられないんだよ、マスター。急須に茶葉を入れて、湯を注いで、それを湯飲みへいれるその作業の一体どこに、他の人と違うところがあるのかはわからない。……そう、心とかなのかな? そういう何かが、マスターの煎れる緑茶にはあるんだ。だから卑下しちゃいけないと思うんだ、俺は。マスターの茶は、本当に最高なんだよ」
 男はしたり顔で笑うと、「ごっそさん」と言って店をあとにした。ああまで言われてしまうと、私は嬉しいやら、照れくさいやら、この年にもなって視線を落ち着ける場所を探してそわそわしてしまった。そうしているとふと、写真の中の妻と目が合う。
(そういえば、おまえについて励まされるんじゃなく、自分のことを褒められたのは、この店を再開してから初めてだ)
 おまえに頼ってばかりだったと思っていたこの店だが、私だってしっかりと、認めてもらえる腕はあったわけだ。
 ふとメニューを見上げてみる。黒い板に自分たちで書いた、白いメニューが載っていた。始めに私が書いてみせたら、達筆すぎて可愛くない。喫茶店には可愛さが必要だと、おまえは私を諭したね。それなのに喫茶店に緑茶はないだろうといった私の言葉には、まるきり無視を決め込んだ。
 しかしそのメニューも、今はその半分を紙で覆ってしまっている。この店には妻が焼いたケーキも置いていたのだが、私にケーキは作れない。かといって他の店で購入したケーキを置くような気にもなれず、こうして紙で覆ったのだ。
(家には俺の居場所なんてない。――そんなことを言いながら、いつも帰る時には両手にケーキを提げて帰ったあの人は、今どうしているだろう)
 持ち帰ったケーキを、子供達がいかに美味しそうに食べていたか、嬉々として話してくれたことがあった。けれど、今は? 他の店でケーキを買って、それを持ち帰っているのだろうか?
(だけど私には、ケーキなんて焼けないさ)
 そうとも。私にはいつだって自信がない。おまえがメニューに緑茶を書いて、その担当はずっと私だと言い切った時だって、実はそれなりに不安だったんだ。
「あなたの煎れてくれるお茶を飲むと、私、本当に幸せな気分になるのよ。嘘だと思うなら、今度私があなたのお茶を飲む時に、私の顔を見ていてご覧なさい。あなたにはきっと、そうやって人を幸せにする力があるのよ。ねえ次は、一緒にケーキを作ってみない?」
 悪戯っぽく笑うと、目元にいつも、笑い皺ができていた。
 そんなことを思いながら、私は今日も、緑茶を煎れる。簡単な茶菓子を皿に載せ、仏壇にそれを置くと、私は数珠を手に取った。こうして毎日、緑茶の湯気が消えるまで、私はここで時間を過ごす事にしているのだ。のんびり自分も茶をすすったり、昔のアルバムを眺めたり。しかし今日の私は、片手に紙の束を持っていた。生前に妻の書き遺した、ケーキのレシピだ。
「ちょっと、試してみるだけだよ。駄目そうなら、その時はその時だ」
 言い訳がましく、そんなことを言ってみる。確かメニューに緑茶を載せた時にも、私はそんなことを言ったと思う。
 
 次の日。午前中いっぱい店を閉め、いくつかケーキを焼いてみた。午後一番で店にやってきた主婦にそれを手渡すと、彼女は喜んで皿を取り、一口食べて、眉根を寄せた。
「でも、初挑戦だものね。また作って、食べさせてね」
 あまりお気には召さなかったらしい。しかし私は性懲りもなく、レシピをめくり、明日のことを考えていた。
 ――あなたにはきっと、そうやって人を幸せにする力があるのよ。
 私にはいつだって自信がない。けれど。
 妻の遺した言葉については、こっそり信頼をおいている。
2008/2/4
『緑茶を愛するお姫様』お題提供:はじめ様

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