いっそ飛べばいいんだと思う。


 すすめ、野を越え山を越え。
 おまえの道はいつだって、まっすぐまっすぐ繋がっているから。俺の師匠がそう言っていた。
 すすめ、丘を、幾千の国を。
 一体なんの師匠か、だって? 聞くなぃ、答えなんか一つしかないだろう。俺はここらの配達人見習い。とくれば師匠は世界で一番凄い、超人並みになんか凄い、俺が憧れてやまないような、そんな配達人に決まってる。
 俺の仕事は配達だ。頼まれたなら、何でも運ぶ。けどちょっと、今度の依頼は大変かもな。俺は配達するべきそれに向かって、困っておずおず笑いかけた。
「てめぇが、俺を運ぶ? けっ、生意気言ってんじゃねえ。自分のことは自分でやるから、ケツの青いガキは家へ帰ってろ」
 真っ白な毛並みの先っぽに、三つの小さな黒い点。そのうちの二点はしっかりと俺を睨み付け、残りの一つはひくひくと、俺の匂いをかいでいる。俺は点の下にある、いわゆる口というやつに挟まれた自分の手を見ながら、ちょっとばかり泣きべそをかいた。
「すいませんごめんなさい俺が粋がってました」
 今度の相手はお犬様。挨拶をしようと腰をかがめたら、がぶっと一発やられてしまった。だけど、絶対、挫けるもんか。適当に手当を終えると、俺はもう一度チャレンジしてみることにした。今度は骨にリボンを巻いて、恐る恐る、しかし友好的に。
「アホか、てめぇは」
 間髪入れぬ、尻尾アタック。俺はがくりと膝をつき、床に手をつき、こう言った。
「お見それしやした。なんてナイスな突っ込みなんだ」
「……もういい、おまえ、どっか行け」
 呆れた声でそう言われた、その時だ。
 俺の目がきらりと光ったのを、お犬様――後から聞いた話では、ヨルという名前のお犬様らしい――は見逃したに違いない。そうじゃなきゃ、あんなに巧くいくもんか。俺はその瞬間ヨルを抱え上げ、まるで人攫いかのごとくにその場を走り去ったのだ。
 走れ、野を越え山を越え。
 走れ、丘を、幾千の国を。
 俺の腕やら顎やらは、あっという間に噛み傷だらけになったけど、始めほど痛いとは思わなかった。ヨルもどうやら、わかってくれたようだ。
「違う。てめぇがあんまり強引なんで、諦めただけだ」
 お犬様は、照れ隠しも巧い。
「ったく。年に一度の定例集会へ、配達人なんかの手を借りて出かけなきゃならなくなるとはな。若ぇやつら、俺のことを見くびりすぎだってんだ。それも、こんな奴を寄越すなんて」
「それだけみんなが、ヨルのことを大事に思っているってことさ」
「けっ、慰めなんかいらねえよ。俺ぁもう老いぼれだ。一人で集会所へ行くこともできない。俺は、俺は……」
 それきり、ヨルは黙ってしまった。「やっと静かになったなぁ」ってこれ見よがしに言ってみても、何も突っ込んではくれなかった。
 やばいな、本気に思われたかも。冗談のつもりだったのに。
 ……、……。そう、冗談だ。冗談だったんだってば、本当に。
「これなら、指定時刻に間に合いそうだ」
 俺が独り言みたいにそう言うと、ヨルの尻尾が少し揺れた。なぁんだ、何だかんだ言ったって、昔なじみの友達に会えるんだもの。嬉しくないはずがない。
 だけど今度は、俺がへこむ番だった。目の前の風景と、地図を見比べてぎょっとする。俺が通るはずだった道は途中で途切れていて、その先が、切り立つ崖になっていたのだ。俺は崖を上から覗き込んで、下の方に続く道を見て項垂れた。
「この前の地震、この辺りは酷かったらしいな」
 まるで他人事のように、ヨルが言う。新しい地図を入手し忘れていただなんて、配達人失格だ。それでもこれくらいの崖、一人だったらどうにかできる。だけど俺はヨルを見て、その方法は無理だと判断した。ここまでの道でわかったことだが、ヨルは足が弱っている以外にも、少し病気があるようだ。それなのに、無茶はさせられない。
「おい。てめぇ、何を考えてやがる」
 すかさず、ヨルが言った。
「えっと、ここはもう素直に回り道するしかないかな、なんて」
「馬鹿言え、そんな誤魔化しが俺に通用すると思ってんのか?」
 ヨルの眼光は、鋭い。
「回り道なんかしたら、時間に間に合わなくなるだろう。トビ。おまえは配達人のくせに、指定時刻も守れないのか?」
 俺ははっとして、困ったように眉根を寄せた。ヨルはわかっているのだ。俺が一体、何に悩んでいるのかを。
「やってみろ。それでおまえがいっぱしの配達人だって事、この俺にも証明しろってんだ」
 ヨルと目が合う。ヨルの目はいつだってまっすぐだ。
 ――おまえの道はいつだって、まっすぐまっすぐ繋がっているから。
 そうだ! 師匠もそう言っていた。まっすぐ。まっすぐ。俺のまっすぐは今、ヨルの目の中にあった。
「よーっし! じゃ、飛んじゃうか!」
 俺がそう言って片手を天に突き出すと、ヨルはにやっと笑ってみせた。ヨルを抱える腕に力を込め、助走をつけて、それから……
 崖の下へ広がる大地へ向けて、大きく、ジャンプする。
「やればできるじゃねえか! 俺も若ぇ頃は、よくこうして道を創っていたもんよぉ!」
 子供のようにはしゃぐヨルの声を聞くと、俺も思わずにやけてしまった。そうして風の中を進んでいくと、そのうち、どんっと強い衝撃が来た。地面に降り立ったのだ。
 俺はじんじんとしびれる足に言葉をのんで、だけどすぐに、腕の中のヨルを見た。かなりの衝撃だったはずだ。病気持ちのヨルは、大丈夫だっただろうか。
 ヨルはしばらく黙っていた。俺も何となく声をかけられなくて、やっぱりしばらく黙っていた。しかしそうしていると唐突に、がぶっと耳に噛みつかれてしまった。
「てめぇ、何心配そうなツラしてやがる! てめぇも俺を見くびるつもりか!」
「あっ、あっ、さっきは『トビ』って名前で呼んでくれたくせに! なんで『てめぇ』に戻ってるんだ!」
「うるせぇ、てめぇなんぞてめぇで十分だ!」
 そう言って、もう一噛み。けど、今度のは全然痛くなかった。甘噛みってやつだ。やっぱりこのお犬様は、照れ隠しが巧い。
「おい、てめぇ」
「トビだってば」
 配達先には、既にヨルの仲間達が集まっていた。さっさと仲間の方へ行ってしまうかと思っていたヨルに呼び止められたので、思わず首を傾げてしまう。そうしているとじれったそうに、ヨルが俺を手招きした。
 腰を落として、耳を貸す。するとまるで内緒話かのように、ヨルがひそひそ、こんな事を言った。
「いいか、相手がてめぇだから言うんだぞ。俺は金輪際、配達屋に運ばれるなんてまっぴらごめんなんだ、本当はな! けど、だから、その……。おい、帰りも頼むぜ。トビ」
2008/2/3
『いっそ飛べばいいんだと思う。』お題提供:エル様

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