「明日また会うでしょう?」


「明日、また会うでしょう?」
 君がなんでもないかのようにそんなことを言うから、僕は何も言えなくなってしまった。
 君のせいだよ。
 本当は今日、言おうと思っていたんだ。
 『さよなら。今までありがとう』って。
 
 僕、鳴瀬聡史は明日、他の県の学校へ転校する。
 段ボールに先程まで使っていた教科書を詰めると、僕はふう、と溜息をついた。ガムテープで段ボールを閉じると、急に溜息が漏れたのだ。今日はサッカーの練習もなかったし、授業だって国語、体育、図工、図工の四時間で、好きな科目ばかりだったから、少なくとも疲れてはいないはずなのに。
 僕は少しぼうっとしてから、またのそのそと動き始めた。
 閉じた段ボールをどうにかリビングの段ボール山へ重ねようと思ったけど、それはちょっと無理そうだ。段ボール山は僕の身長程の高さまで積まれているし、宝物を詰め込んだ最後の段ボールは、僕が持つには少し重い。
 片付けは終わった。ジュースでも飲もう。そう思ってキッチンへ行くと、古くなったプラスチック製のコップがいくつか置いてある。母さんってばせっかちだから、ガラス製のコップは昨日のうちに、全部段ボールの中へ詰めてしまったのだ。
 キャラクターの付いたコップへオレンジジュースを注ぎ込む。ジュースの入っていたパックは、ちょうど一杯分を注ぎ終えると空になってしまった。
(この家での『飲み納め』か)
 昨日父さんが、ビールを片手にそんなことを言っていた。僕は片手を腰にあてて、コップの中身を一気に飲み干すと、父さんみたいに「ぷはぁっ」と息を吐いた。
 その視線の先にふと、備え付けのカウンターテーブルの上に置かれた漫画本を見て、僕はまた溜息をついた。あの子のことを、思い出してしまったからだ。
「明日、また会うでしょう?」
 にこにこ笑ってそう言ったのは、同じクラスの倉木奈々っていう女の子だ。髪が長くて、すごく勉強ができるっていうクラスのマドンナ。僕は小学校の入学式で、うっかりその子に一目惚れした。
 一目惚れしたっていったって、隣のクラスの相模みたいに告白したわけでもないし、藤田みたいに同じ委員会になれるよう、手回ししたりもしなかった。僕はただ、あの子のことが好きだっただけ。
 だから今日の計画は、僕にとっての一大プロジェクトだったのに。
 漫画本を手にとって、ぱらぱらとページをめくってみる。倉木の兄ちゃん――僕にとってはサッカーチームの先輩でもある――から借りた少年漫画の主人公は、チームを優勝させるため、必死になって戦っている。こんな風に格好良くなくても良いから、今日くらいは主役になってみたかったのに。
 僕が立てていた計画を説明すると、ざっとこんな感じだ。
 今日、学校で渡す約束になっていたこの漫画本を、わざと家へ忘れていく。
 倉木には「ごめん、忘れちゃった」と謝って、さりげなく、誰かと遊ぶ約束をしているかどうか聞いてみる。
 もし誰とも約束をしていなければ、「悪いから、家まで持っていくよ」と言う。
 下校してすぐに漫画本を持ってでかければ、僕は晴れて、倉木と二人っきりで話せる――はず、だった。
「これからも友達でいたい、って、言うはずだったのに」
 ちょうど開けたページを見ると、主人公が泣いているシーンだった。
 僕だって十分泣きたいよ。
 かっこつけたり、しなきゃ良かった。
「明日、また会うでしょう?」
 明日の朝に出発だ。もう、会えるわけなんてない。
 
 引っ越し屋さんがやってきて、僕の机を運んでいった。
 僕の机だけじゃない。リビングの段ボール山も、ベッドも、何もかもだ。僕はそんな様子を見守って、寝ぼけ眼でランドセルを担ぐ。中身はいつもの勉強道具じゃなかった。最後まで段ボールに入れられなかったタオルとか、そういうものがいつの間か詰められている。
「聡史。これ、忘れてる」
 母さんに漫画本を渡されて、僕はまたぱらぱらと、そのページをめくってみた。昨日と一緒だ。当たり前のことだけれど。
 これは、隣の家のみのるに預けていこう。みのるの兄ちゃんと倉木の兄ちゃんは仲が良いから、きっとすぐに渡してくれるだろう。
 そんなことを思いながら門を出た、その時だ。
 青い引っ越しのトラックが一台、すぐ前に止まっている。だけど僕が驚いたのは、そんなものに対してじゃなかった。
「なんで」
 間抜けなことに、口を開けたままぽかんとしてしまう。
 季節は冬。吐く息は真っ白だけど、目の前にいた女の子の鼻の頭は、寒さにかじかんで真っ赤になっていた。
 いや、真っ赤なのは鼻だけじゃない。僕は驚いて、だけど律儀にその女の子――倉木奈々へ、漫画本を手渡した。
「これ、ありがとう」
 何を言っているんだ。心の中で、自分自身につっこみを入れる。
 どうしよう。
 何で倉木が、こんなところにいるんだ。
 っていうか、これは一体どんな状況なんだ。
 教えて、神様仏様。
 僕の頭の中は、今非常に混乱していた。お恥ずかしいことにそれはどうやら倉木にもばれてしまったようで、彼女は僕の顔を見ると、くすくす静かに笑っていた。
 その鼻は真っ赤だった。
 その目も、真っ赤だった。
「……ほら、今日も会えたでしょう?」
2008/2/2
『「明日また会うでしょう?」』お題提供:火炉様

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