吟詠旅譚

風の謡 番外編 // Whisper on my verdure

Whisper on my verdure -4-

 三年前、あのマラキア宮の庭の隅で、不思議な少年と知り合った。リートと同じようなボロを纏っているのに、耳を疑う程に雅やかな、それでいて意外にも堂々とした音を奏でるこの少年は、しかし自分の正体を、なかなかリートに明かさなかった。
「ごめん。いずれ知れる事だとは、わかっていたんだけど」
 駄目で元々。そんな気持ちで楽隊の試験を受け、リートがマラキア宮に迎え入れられてから、半月も経った頃のことである。それまでに宮殿の庭で会った時とは打って変わった装いをして、マラキア宮の主として楽隊の面々の前に現れた彼は、苦笑しながらそう言った。
「でもしばらくの間、マラキアの馬番でいられて楽しかったよ。リート、付き合わせて悪かったな」
 あの時は、開いた口が塞がらなかった。試験に受かってから後も、リートは何度かあの庭で、『名も知らぬ馬番の少年』と話したことがあったのだ。確かに不思議な少年だとは思っていたが、それでも彼がマラキアの主だなどとは、少しも疑いはしなかった。リートにとっての王族という生き物は、彼のように草っぱらに寝転んで昼寝をしたり、木登りをして迷い猫を見つけてくるような、そういう存在ではあり得なかったからだ。
 仕える人々によく笑いかけ、話を聞き、素直に謝罪し、礼を言う。それがリートの見た、この主の姿であった。窓から外へ忍び出るような無茶をやらかしては、懲りずに度々叱られていた。そういう子供っぽい所があるかと思えば、使用人が病で伏せっているだの、怪我をしただのと聞く度に、誰より先に駆けつけて、ここぞとばかりに「君命だ」と見舞いの品を振る舞うのだ。
「殿下を見ていると、故郷の息子を思い出すよ」
 年上のオーボエ吹きは、リートによくそう言った。「殿下には言うなよ。ついそんな事を考えちまうが、俺は庶民、あちらは王家のお血筋だ。不敬罪やなんかで、追い出されちゃ困る。俺はマラキアが好きなんだ」
「ふふ、しっかり告げ口しておくよ。殿下にそれを言ったら、どんな顔をするかな」
 そんな事ことで、気を害するような人ではない。しかしそうは思いながらも、リートは結局、このオーボエ吹きの言葉をアーエール王子に伝えることはしなかった。
 彼が言うのとは別の意味で、それは表に出してはならない言葉だと、リートにはよく理解があったからだ。
――これだから、あの王子は世間知らずの無能者だと笑われるのさ。
 マラキア宮に勤めるようになってからは益々、彼を中傷する貴族達の言葉もよく聞くようになっていた。それを咎めるだけの権力を、この王子が持ち合わせてはいないことを知っていて、人々は彼をこれ見よがしに誹謗するのだ。
 そうしてリートは気づいてもいた。宮殿の外からやってきた、リート達のような庶民が王子と仲を深めれば深めるほど、彼らの中傷がより酷くなっていくことに。
「好きなように言わせておけばいいさ。田舎のマラキアじゃ、みんな、他にすることがなくて暇なんだろう。そんなことより、リート。この曲は」
――音楽を楽しむのに、『身の程』もなにも無いと思うけど。
 はじめに言った言葉の通り、そしてそれが音楽の場で有ろうと無かろうと、彼は身分によって人を分け隔てることをしなかった。立派なことだとチェロ弾きは言った。けれど。
 けれどその事が、この年若い、主の立場を危うくするなら。
 
 隣町で馬を買い、旅の装いを整えた。馬の扱いなら慣れている。アーエール王子がマラキア宮の馬番と懇意にしていたものだから、リートも何度か、世話を手伝った事があったのだ。宮殿内に設けられた広い馬場で、馬を駆らせたこともある。
 おかげで駄馬を買わずに済んだ。最低限の物を買い込むと、リートはマラキアへの道を、馬に任せて駆け抜ける。
 三年前にボロのバイオリンを一つ担いで、そぞろ歩いたその道が、何故だかやけに目新しい。
 熱を帯び始めた春の風が、リートのその背を後押しする。
――この宮殿を離れるのは、寂しいよ。少しだけな。
「俺だって、……」
 馬上でぽつり、呟いた。
 白きニーフェニアの花を。年配の指揮者がそう言って、戸惑うように、しかし何某かの覚悟をした様子で目を伏せた、その時のことを、リートはよく覚えている。
「成人を機に、アーエール殿下にもようやくスクートゥムへの入城が許された。喜ばしいことだ。……我々も誠意を持って、お見送りをしなくては」
 惜別の花、ニーフェニア。それを胸に付ける時、自然と溜息がこぼれ出た。
「俺だって寂しかった。けど、それが殿下のためになるんだと思ったから」
――首都に呼ばれるのは、名誉なことだから。
――皇王陛下に距離を置かれているおかげで、殿下は継承権争いから遠のいていられるんだ。
――いずれ落ち着いたら、必ず招待する。その時は、またこの楽隊で演奏をしたいな。
――この田舎のマラキア宮で穏やかに暮らせるなら、きっとその方が良いだろうさ。
――殿下は、……皇王陛下殺害の容疑で、捕らわれたそうだ。
「そんな事のために、送り出したわけじゃない」
 慣れぬ遠乗りに足が痙り、腰が痛んだが、それでもリートは駆け続けた。手綱を握る手に爪が食い込み、血が霞んでも、止まることは出来なかった。
 
 数日ぶりに見るマラキアは、傍目には、以前と変わらずそこにあった。燻る火はまだ全てが鎮まったわけではないのか、青い空に灰色の影を吸い込ませていたが、少なくとも宮殿を囲む城壁自体は、今も、リートのよく知るマラキア宮のままであった。
 しかし遠目に城壁の周囲を見渡して、思わず小さく溜息を吐く。常には数名の兵士が門を守るだけであるはずのそこに、今日は多くの人影が見えていた。その人々と共に連なり、そこかしこにはためく軍旗が、王都軍のものであることは疑いようもない。
 マラキア宮でソーリヌイ侯の一派が捕まり、続いてはこの宮殿に長く暮らした、アーエール王子が謀反の罪を問われている。それを考えれば当たり前の事とも思われたが、それでもしかし、予想以上に厳重に警備されている。迂闊に近寄り、素性が知れれば、リートなどすぐにでも捕らわれてしまうだろう。
(宮殿の中は、どうなってしまっているだろう。風車塔近くの鷹台、チュラさんの花壇、それに、――)
 製作途中の譜面が多く残る、演奏室。
 背の高い木に馬の手綱を縛り付け、一人ひっそりと丘を進む。これ程兵士が多くいるのだ。マラキアを唯一の伝手と思ってここまで来たが、リートにとって仲間と呼べる者はもう、この辺りにはいないのだろう。ならばここには留まらず、すぐにでもこの場を離れ、今後の動向を考えるべきだ。リートの脳裏に幾らか残った、冷静な部分が警鐘を鳴らす。
 離れよう。ここにいては危険だ。
 今すぐ、マラキアに背を向けて歩き出せ。
 だが。
 じわりじわりと足音を潜め、丘を少しずつ登っていく。この丘の上からなら、広いマラキア宮の全ては無理でも、城壁に近い辺りの様子なら、窺えるのではないだろうか。リートのよく知るその場所が、リートにとっての第二の故郷が、
 変わらずそこに、あるのではないだろうか。
 得体の知れない希望を糧に、丘を無言で進んでいく。夕日の落ちる時分であった。まだ春とばかり思っていた季節は既に移ろいをみせ、長く延びた影を伴って歩くリートの足元に、今も十分な視界を約束している。
 丘を登りきる。城壁の中を覗くなら、もう少し先へ進まねば。しかしそうしてまた一歩、リートが歩みを進めた、その時だ。
「止まれ。そこで一体、何をしている」
 背後から聞こえたその怒号に、瞬時に背筋が凍り付く。そうして咄嗟に振り返り、同時に、事態を把握するより早く、リートはその場へ膝をついていた。
 左の耳と頬の辺りが、じんじんと熱く疼いている。振り向きざまに、何かで横殴りにされたらしい。何故と問いかけるが、突然のことに声が出ない。しかし目の前に立つ人影を見上げ、リートは小さく息を呑んだ。彼らの纏う制服を見れば自然と、黒々とした不安がとぐろを巻いて、リートの腹に落ちていく。
 男が二人、立っていた。その制服に覚えがある。
 途中の町で見たのと同じ、――首都スクートゥムからきた王都軍の制服だ。
「その、……お、俺は」
 不審に思われてはならない。どうにかして、上手くこの場を切り抜けなくては。しかしリートの言葉になど耳も貸さず、兵士達は続けざまにこう言った。
「怪しい奴。宮殿の中を覗こうとしていたな」
「反逆者の仲間かもしれない。おい、立て。向こうで話を聞かせてもらおう」
 力任せに肩を引かれ、慌てて立ち上がるリートの腹に、何やら冷たい物が突きあたる。目で見て確認するまでもない。先程リートを殴りつけたそれは、鞘に収まった長剣だ。
「放してください! お、俺はただ、その、偶然この辺りを通りかかって、それで」
「黙れ、少しでも怪しい動きのある者は、全て捕らえることに決まっている。さあ、早く連れて行け」
「放してくださいってば! 通りかかっただけだって言ってるのに、大体、いきなり殴りつけるなんて酷いじゃないか」
 精一杯にとぼけてそう言って、拘束を逃れようと身を捩る。しかしそうしてちらと振り返り、
 視界の端に見えたマラキアに、リートは小さく、息を呑んだ。
 いまだ煙の燻るマラキア宮。赤みを帯びた夕日に照らされ、垣間見たその城壁の内には、硝子の破れた窓があり、馬の斃れた厩舎があり。
 踏み荒らされ、すっかり荒れた、庭があった。
 薄ら寒い思いが、リートの首元を抜けていく。兵士に強く腕をひかれたが、視線を逸らすことが出来なかった。だが剣の柄で容赦なく腹を小突かれて、思わず強く咳き込んだ。その振動で頬が疼く。臆病を隠しきれない膝が、がくがくと小さく震えている。だがそれを必死に隠そうとするリートの耳に、
 一つ、響いた声があった。
「失礼。うちの小間使いがどうかしましたか」
 まだ年若い、青年の声。咄嗟にそちらへ視線を向けて、リートはその場に立ち尽くす。
 辺りの音が、消えた気がした。
 夕闇を迎える丘の風が、息を潜めて遠ざかる。その静寂を従えるかの如く、西の空に落ちてゆく太陽を背に、騎上で笑みを浮かべた人影があった。その人物は質の良い薄手のベストを羽織り、腰には一振りの剣を携えている。
 それが一瞬、リートには、
 彼のよく知る、まさにその人の姿と見えた。
(――殿下)
 心の中で、呟いた。

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