吟詠旅譚

風の謡 番外編 // Whisper on my verdure

Whisper on my verdure -5-

 信じられない思いに肩を震わせ、一度ぎゅっと目を瞑る。そんなわけがない。こんな所にいるはずがない。そう思いながら目を開き、もう一度相手を仰視して、しかしリートはなるべくしてなったその納得に、今度は小さく溜息をつく。
(別人、……)
 馬に乗り、こちらへ闊歩してきたのは、見知らぬ黒髪の青年であった。
 短く切った黒髪が、マラキアの風にふわりとなびく。それが視界を邪魔するのも構わず、青年は馬の上に片あぐらをかいた、楽な姿勢でそこにいた。
 つんと鼻筋の通った、そこそこに顔立ちの整った青年である。年の頃は恐らく、リートの主と同じほど。だが彼の持つつりがちの目は、少年らしからぬ色味にぎらりと光って見えている。
 見れば見るほど、知らない顔だ。何故一瞬、ほんの一瞬とはいえ彼を、アーエール王子と見間違えたのやら、訝しんで自問する。しかしそうしてこの青年を観察する内に、何やらふと、違和感がリートの胸を突いた。
 妙なのである。
 彼の跨がった痩せ形の、鹿毛の馬に見覚えがある。ボロの毛布を敷いた鞍も、くくりつけた旅の荷物も、疑うほどに覚えがあった。
 間違いない。青年が我が物顔で乗っている馬は、先程リートが木に繋いだ、リート自身の馬である。
「何者だ」
 鋭く兵士のそう問う声。青年は臆した様子もなく、ひらりとその場へ下馬すると、兵士達に向けて礼をとる。その時、ちらと睨まれたように感じて、リートは言葉を呑み込んだ。
 黙っていろと、言われた気がした。何が何やらわからないが、兵士達の仲間でないなら、もしやリートの味方だろうか。いや、そこまでは望まないにしろ、敵ではないと祈りたい。
 リートが小さく頷くと、青年は満足げににこりと微笑んで、何食わぬ調子でこう続けた。
「その男とわたくしは、旅の商人にございます。貴重な楽器を入手しまして、良い商売が出来ればと、この地を訪れていたのです。マラキア宮におられた王子殿下――いえ、例の叛徒の音楽好きは、この界隈では有名でしたからね。まさかあんな事件が立て続けに起ころうとは、思いもよらないことでしたが」
「事件のことを知った上で、この宮殿に近づいたのか」
 兵士の声が警戒の色に低くなったが、青年はやはり、飄々とした態度を崩さない。
「おおよその話は、近隣の町で聞きました。ですが南はレーントから、わざわざここまでやってきたのです。折角ですから私達二人だけででも、渦中のマラキアを一目見てから、帰途につこうかと考えまして」
 「これが、商人組合の手形です」青年が胸元から木片を取り出せば、兵士達もそれを見て、納得した様子で頷きあう。同時にこの青年が、じゃらりと音のする包みを兵士達の手に忍ばせたのを、リートは黙って見届けた。
「だがこれ以上、宮殿に近寄ることは許されない。すぐにここから立ち去るように」
 そう言い置いた兵士達が背を向けたのは、それから間もなくのことであった。
 あまりの呆気のなさに、リートが小さく息をつく。殴られた左頬は腫れを伴い、まだじんじんと疼いていたが、立って歩くのに支障はなさそうだ。
 なんにせよ、穏便に済んだことは助かった。しかしにこにこと得体の知れない愛想の良さで兵士達を見送り、我が物顔で馬の腹帯を締め直しているこの青年へ視線をやれば、安堵してばかりも居られない、自らの現状を思い出す。
「それ、……俺の馬だよな? お前は一体、」
 荷物を括り直している青年に、恐る恐る、声をかける。すると青年は、くるりと首だけを回して、リートの方を振り返った。
「へえ、第一声がそれ? あんたまず、この俺に深くふかーく感謝の気持ちを述べるべきなんじゃないのかなぁ」
 先程とは打って変わった砕けた口調で、しかし素っ気なく返されて、一度言葉を呑み込んだ。だが確かに、この青年に助けられなければ、今頃どんな目に遭っていたことやらわからない。
「その、ありがとう」
「ええー、何? 聞こえないなあ」
「……、ありがとうございました」
 熱を帯びた左頬を押さえながらそう言えば、青年がにやにやと笑ってみせる。
 先程はあんなにも大人びた様子でいたというのに、これではまるで、悪戯好きの子供のようだ。「本当に助かった」とリートが続ければ、青年は「いえいえ」と何気ない調子で頷いて、それから、
 馬にくくりつけてあった荷物の一つを、ひょいと容易く手に取った。それを見て、リートは思わずぎくりとする。
 青年が手にしたのは、事もあろうかアーエール王子のバイオリンを入れた、あの包みであったのだ。リートが咄嗟に取り返そうと手を伸ばせば、青年はひらりと身をかわす。
「そんなに心から感謝してくれてるなら、謝礼にこのバイオリンを頂戴しようかな。見たところ、これがあんたの荷物の中で、一番値の張る物みたいだ」
 冗談ではない。焦ったリートがまた手を伸ばすと、この青年は破顔した。若者らしい、一見無邪気な笑みであったが、しかし、無防備さは感じない。「金なら払う」リートが言えば、彼はまたくっくと笑った。
「何が可笑しい。いいから、その包みを返してくれ」
「随分大切な物なんだな」
「ああ、そうだ。けど、お前にとっては単なる楽器だろう。はやく返してくれ」
「そうはいかない。このバイオリンの本当の持ち主の名を聞かなくちゃ」
 突然、何を言い出すのだ。ぎょっとして一度、言葉を呑む。「持ち主は俺だ」リートが言えば、「当ててみようか」と青年が返す。
 このバイオリンの持ち主が誰かなど、いずこかから現れた、名も知らぬこの青年に、言い当てられようはずもない。だがそうは考えながらも、咄嗟に周囲へ視線を配る。先程の兵士は既に姿も見えないほど遠のいているが、マラキアに程近いこの場で話を続けるのは、自殺行為もいいところだ。
 一方で青年はにやにやと笑みを浮かべるだけで、気にした様子は少しもない。それどころか、「まあいいか」と言って口笛を吹くと、手にしたバイオリンの包みを、ひょいとリートへ手渡した。
「今の反応で十分だ。あんた、このバイオリンにも礼を言った方が良い。これを見なけりゃ、あんたを助けたりはしなかった」
 ちっとも訳がわからない。しかし困惑するリートを尻目に、この青年は馬の手綱を掴んだまま、「ついてきなよ」と有無を言わさずそう言った。
「あんたもどうせ、末の王子殿下がスクートゥムでやらかした、事件の仔細が知りたくて、おめおめマラキアへ戻っていたってところだろう。馬鹿で無謀なやり口だが、忠誠心は、買ってやらないこともない」
 その言葉に、今度こそリートは肩を強ばらせた。
「アーエール殿下の事を、知っているのか」
「世間知らずのあの王子さんのことなら、ある意味、本人よりも知ってるさ。会ったのは、一度きりだけどな」
「一体、どこで会ったっていうんだ」
 リートの知る限り、マラキアでは見たことのない顔だ。疑い深げにリートが問えば、青年はふと、その場へ足を止めて振り返る。
 短く切った黒髪が、風に遊ばれてひらりと跳ねる。無言でリートを見据えるその目に、思わず小さく息を呑む。
 愉快そうに滑る目尻に、強固な意志を孕んだ、深い、藍色の瞳。
 見たことがある。そう感じた。それがいつかは思い出せない。
 この青年ではなかった。それだけははっきりとわかっている。だがリートは昔どこかで、
 この瞳と出会っている。
「セの月三十日、聖地ウラガーノの中庭で」
 青年の言葉に、リートがごくりと唾を呑む。聖地ウラガーノ。そこはマラキア宮を発ったアーエール王子が、一番はじめに目指した場所であったはずだ。
「お前は、……ウラガーノの神官なのか?」
「まさか。まあ、アーエール王子と会ったのは、成人の儀の最中だったけど」
 リートより明らかに年下のこの青年は、しかし横柄な態度を変えようとはせず、さっさと馬を引いて行ってしまう。リートが慌てて追いかければ、彼は続けてこう言った。
「新たなる同胞よ。我らのアジトへ案内しよう」
「待ってくれ。ちっとも話が見えてこない」
「案ずるな。俺もあんたもおおまかな目的はおんなじさ。それにあんたのお仲間の――マラキア宮の人間も、既に幾らか集ってる」
 そう言ってまたきびすを返し、青年が歩みを進めていく。
 その後へ、素直についていくことは出来なかった。この得体の知れない青年が何を考えているやら、リートには想像することすら出来やしない。
 だが。
――その時は、またこの楽隊で演奏をしたいな。
 くしゃりと笑ってそう言った、アーエール王子のその顔が、不意に脳裏に浮かんで消える。
 「何を躊躇ってる?」先を歩く青年が、穏やかな声でそう言った。「怖じ気づいたなら、あんたはここへ置いていこうか」
 丘の上から垣間見た、荒れたマラキアを思い出す。握りしめたリートの拳が、強い思いにびくりと震えた。
(元々、藁にも縋る思いでマラキアまで戻ってきたんだ)
 成すべき事をするための、手がかりを探してここまで来た。
 それならば。
「俺は何とかして、殿下をお助けしたいと思ってる。それはあんたの言う『目的』と一致するのか?」
 絞り出すようにそう問うた。「勿論さ」応える青年の声は笑っている。
「だったら俺を、――」
「――、だからあんたを迎えよう」
 風が吹く。
 立ち止まった青年が、不意にリートを振り返る。
 風が吹く。マラキアの春の強い風が。
 三年前のあの日にも、同じ風が導いた。それに従ったことを、リートは後悔していない。
 だから。
「案内しよう」
 リートを見据えた青年は、無邪気を装いこう言った。
「――俺達の町、ヴィントシュティレへ」
--吟詠旅譚本編へ続く--

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