吟詠旅譚

風の謡 番外編 // Whisper on my verdure

Whisper on my verdure -3-

「帰り道は、あっちだよ」
 名も語らぬ『マラキア宮の馬番』は、ぽつりと短く、そう言った。
 楽団入隊試験の日。あの穏やかな、マラキア宮の一画でのこと。嫌味な会話を続けていた貴族達の姿は、最早完全に遠のいた。リートと少年の立つこの宮殿の庭には、また元通りの柔らかな風が吹いている。
 明らかに人の手が入った、美しい枝振りの植木、切りそろえられた芝生、色鮮やかに咲き乱れる花々。リートとは目を合わさず、しかし口元に笑みを貼り付けて話す少年の表情は、明るい春の風景へ不自然に溶け込んで、何とも言えず曖昧だ。
――試験を受けに来たんだけど、やっぱり帰ろうかと思ってるんだ。試験会場より、帰り道を教えて欲しいな。
 『帰り道』。マラキア宮の外へ、リートの元いた、田舎の村へと帰る道。少年の指さしたその道が、先程リート自身の求めたものであることに、気づくのに少し時間がかかった。
「ああ、うん……。ありがとう」
 口をまごつかせながらそう言って、ふと、自らの持った古いバイオリンを見下ろしてみる。すると自然と、このバイオリン一つを荷物にここまで歩いた、道中のことが思い出された。
 音楽好きの第三王子が、マラキア宮で楽隊の隊員を広く募っている。その話を聞いた時、リートの胸は確かに湧いた。幼い頃から、旋律を奏でるのが好きだった。音楽を表現することが好きだった。もし宮殿で楽隊に入れたなら。音楽を、自らの仕事の全てに出来たなら。それはどんなに幸せなことだろう。そう思った。そう思って、身の程も知らず、お気楽に、意気揚々とやってきたのだ。
「『音楽に身の程も何もない』って言ってくれたけど、俺、さっきみたいなお貴族様と上手くやっていける自信はないや」
「……。宮殿での生活は、リートには窮屈かもな」
 少年が小さく同意した。
「楽隊にいるのが、出世欲の塊みたいな人ばかりだったら怖いなぁとも思う」
「試験会場にいる大半は、多分そういう人間だよ。そういう連中が試験に受かるかどうかは、また別の話だけど」
「でもほら、もしかしたら、王子殿下だってあえてそういう眼のぎらぎらした奴を集めて、頭の回る味方を増やそうとか、そういうつもりで今回の募集をしたのかもしれないなんて思えてきたし」
「まあ、それだけはないかな……」
 控えめに笑うその表情は、先程リートの演奏を聴いて、子供のように目を輝かせていた時のものとは随分違う。だがどこか、慣れてしまっている様子でもあった。彼の正体が馬番であるにしろ、楽隊の人間であるにしろ、宮殿勤めをしていれば、先程のような貴族達の確執に触れることも多いのだろう。
 きっと、宮殿とはそういうところなのだ。リートはきゅっと口元を結ぶと、少年の指した『帰り道』へと足を向けた。
「道中、気をつけて」
 案外と、さっぱりとした少年の声。短い時間ではあったが、リートの演奏をあれだけ喜んでくれたのだ。少しは別れを惜しんでくれるかと思っていたのに、そういうわけではないらしい。
 しかしふと、手にしたバイオリンが引っ張られるのを感じて、リートがその場を振り返る。そうしてそのまま、足を止めた。
 名も知らぬこの少年が、リートのバイオリンの端を軽く掴んでそこにいる。そこに佇む彼はもう、
 目を伏せてはいなかった。
「帰り道はそっちだけど、……」
 少年の声は穏やかであった。その目は真っ直ぐにリートを見上げ、リートの視線を絡め取る。
 また一つ、風が吹いた。
 春の風だ。何やら強い風である。それはリートの短い髪を掻き乱し、――遊ぶように場を駆けて、――少年が頬に張り付かせた、偽りの笑みを引き剥がす。代わりに彼はにこりと、無邪気な笑みを浮かべて、リートに向かってこう言った。
「強制はしない。でも俺はもう少し、リートと音楽をやってみたいんだ。だからもう一度だけ言わせてくれ。試験会場はあっちだ、リート」
 
「皇王陛下の、……殺害容疑?」
 絞り出した自らの声が、得体の知れない恐怖に震えていた。
 目の前に座り込んだ幼なじみは、今、一体何と言ったのだろう。そう自らに問いながら、しかしリートは胸の内が、不思議な納得感で満たされるのに気づいていた。
「アーエール殿下が、皇王陛下を? まさか、子が親を殺すだなんて恐ろしいこと」
「全くだ。だが公にそうだと言われてるんだから、どうやらそういう事らしい。リート、お前は一層マラキアにいたことを隠さなきゃ」
「次の王には一体誰がなるんだい? 私達の暮らしに、大きな違いがないと良いが」
「そりゃ、二人の兄殿下のうちのどちらかだろう。しかしまあ、アーエール殿下も大層な事をされたものだ」
 二人の兄殿下。実際に会うことはなかったが、リートも話にはよく聞いている。第一王子サンバール、第二王子ラフラウト。首都スクートゥムからほど近い宮殿に居を構え、王からの――故アドラティオ四世陛下からの信頼も厚かった、アーエール王子の二人の兄のことである。
 アーエール王子を貶す時、貴族達は必ずと言って良いほど、この二人の王子の話題を引き合いに出した。皇王アドラティオ四世の三人目の王子は、リートの目から見てもあまりにあからさまに、他の王子達とは分け隔てられ、常に冷遇されていたからだ。
 国政への発言権は無いに等しく、王族として与えられた役割は、マラキアを中心とした限られた地域の徴税、そして治安監督のみであった。自らは、宮殿から外へ出ることすら禁じられていた。
 それで窮屈に思いはしないのかと、一度何気なく尋ねてみたことがある。アーエール王子は答えなかった。しかし後から他の楽隊員に、「窮屈でも、きっとその方がいいのさ」と諭された。
「皇王陛下に距離を置かれているおかげで、殿下は継承権争いから遠のいていられるんだ。俺も噂に聞く程度だが、兄殿下達の争いといったら酷いらしい。アーエール殿下は王位に興味があるわけでもなさそうだし、この田舎のマラキア宮で穏やかに暮らせるなら、きっとその方が良いだろうさ」
 骨肉相食む争いに関わらずにいられるのなら、それに越したことはないだろう。リートと同じく、以前は農夫であったというチェロ弾きの言葉に、リートも一度は納得した。
 すくなくともこの王子は、飢えることも知らずそれなりの宮殿を与えられ、王族としての矜持は損なわれない程度の生活を保証されている。それはそれで、十分に幸せなことと思われた。
 けれど。
「首都へ呼ばれて早々、こんな事件を起こされるとは……。長くマラキアに捨て置かれたことを、余程恨みに思われたのか」
 老人の零すその言葉が、じわりとリートの胸に落ちた。
 そんなわけがない。
 思いははじめ、言葉の形を象らなかった。
 そんなわけがない。恨むだなんてとんでもない。
 マラキア宮で、皇王アドラティオ四世の為に演奏をした時のことを思い出す。あの時のアーエール王子は控えめに、しかし王の賛辞の言葉を聞き、あんなにも、嬉しそうに、誇らしそうに、少年らしい微笑みを浮かべていたではないか。
 だからこそ、スクートゥムへ向かうという主の背を、リートもあんなに晴れ晴れとした思いで送り出したのに。
「何かの間違いだ」
 小さく一つ、呟いた。
「何かの間違いだ。そんな恐ろしい事を、――そんな事を、出来るような方じゃない!」
 続いて響いたその声が、誰の声だかわからなかった。
 腹の底から絞り出すような、苛立ちに満ちた荒い声。はっとなって周囲に視線を配れば、先程までとは別の意味で、村の人々の視線がすっかりリートに集中している。
 突然のことに、怯えるようにリートを見る目。それを避けるように彼らへ背を向ければ、どこかから、赤子の泣く甲高い鳴き声が聞こえてきた。
 恐らくリートの甥子の声だ。先程まではあんなに上機嫌だったのに、リートの声に怯えさせてしまったのかもしれない。しかしそう思いながらも、リートの衝動は収まらなかった。
「アーエール殿下が、皇王陛下を殺害した? まさかそんな、そんなわけがない。そんな事をする理由がない。……マラキアを出たことで、遂に争いに巻き込まれたんだ。だけど殿下はこれまであんなに、あんなに、息を潜めて生きていたのに」
 急ぎ自らの家の戸を開き、泣き喚く甥子を尻目に、私物を置いた棚へと手を伸ばす。マラキアにいる間に蓄えた金銭が、まだいくらもあるはずだ。ざっと金額を確認して、リートはごくりと唾を飲んだ。
(馬一頭は買える額だ。地図にコンパス、上着、それから、……)
 隣町へまで行けば、最低限の旅支度は調えられるだろう。そうしてちらと、バイオリンを入れた包みに目を留める。何にも代え難い、主からの預かり物。この先、何が起こるかわからない。このまま家に隠していた方が、安全だろうか――。ほんの束の間の逡巡の後、しかしリートはその包みを、右手に強く掴み込む。そうして背後から聞こえた物音に、ぎくりと肩を震わせた。
「リート。……あんた、何してるの」
 姉の声だ。震えている。口ではそう問いながら、しかし彼女は恐らく既に、リートの答えを得ているのだろう。それがわかっていたから、リートも、彼女と目を合わせることはしなかった。する必要を感じなかった。ただ手の中のコインをいくらか姉の両手に掴ませると、顔を寄せて、こう言った。
「ごめん。――今まで、ありがとう」
 両親や姉婿にまで、別れを告げに行く時間はない。せめて最後にこの姉に、会えて良かったとそう思う。
「あんたが行ってどうするの。馬鹿なことは辞めて」
「でも行かなきゃ。じっとなんてしていられない。俺にだってもしかしたら、何か、何か出来ることがあるかもしれない」
「辞めて。あんたが行ったって、絶対に何もできやしない。聞いたでしょう。マラキアにいた人間は、みんな捕らわれて、」
「アーエール殿下も捕らわれた。だけど殿下が皇王陛下を殺すわけがない。兄殿下達か、他の貴族に嵌められたんだ。おかしいと思ったよ。謀反を疑われているのがソーリヌイ侯なら、どうしてアーエール殿下のお付きまで捕らわれるんだろうって。でも殿下の冤罪が、全て予め仕組まれていた事なら、」
「それはお偉方達の話だ。リート、あんたは元々ただの農夫なんだよ。宮殿勤めの間だって、政務に関わってたわけじゃない。楽士だ。それも、末殿下の遊び相手って程度のお勤めだったろ。謀反だとか冤罪だとか、そんな恐ろしいこと、あんたには関係ないんだ」
「それでも俺はマラキアにいる間、――あの方を自分の主と思って、ずっと仕えてきたんだよ」
 僅かながらの荷物を仕舞い込み、姉を避けて戸を開く。場違いな春の暖かな風が、リートの鼻先をすり抜けていく。
「リート、」
「殿下の罪状が皇王殺害となれば、軍は今まで以上に総力を挙げて、殿下の関係者を捜すだろう。そうなれば俺のような『ただの農夫』だって、いずれ捕まるかもしれない。俺を匿ったとなれば、姉さん達にも罪が及ぶかもしれない。父さんや母さん、義兄さんにも、それに」
 泣き叫ぶ甥子をちらと見れば、姉がびくりと肩を震わす。「泣き止ませてやって」とリートは笑った。
 そうしてリートは一目散に、懐かしいコランの村を出た。
 確かに姉の言うとおり、じっと息を潜めているのが賢いやり方かもしれない。アーエール王子の思いがどうあれ、ただの農夫がマラキア楽隊へ公式に入隊することは出来なかったから、リートの素性は王子とその執事の手によって、書き換えられていたはずだ。このままコランの村にいれば、リートは安全かも知れない。
――帰り道は、あっちだよ。
 穏やかな声が聞こえた気がした。
 リートは首を、横へ振る。
――強制はしない。でも俺はもう少し、リートと音楽をやってみたいんだ。
 何か行動を起こさなくては。しかしリートには何のあてもない。アーエール王子の無罪を主張するためには、スクートゥムへ向かうべきだろう。だがリートが一人で王城の門戸を叩いたところで、話を聞いてもらえるなどとは思えない。
 仲間を得られないだろうか。まずはそう考えた。リートと同じくマラキアに勤めていた人間なら、皆この無罪を理解してくれるだろう。しかしその人々が、今まさに王都の軍に捕らえられ、罪に問われようとしていることを思い出せば、無力感ばかりがリートの心を苛んだ。
 迷いに迷ったリートの足は、結局、あてもないままマラキアへ向いた。

:: Thor All Rights Reserved. ::