吟詠旅譚

風の謡 番外編 // Whisper on my verdure

Whisper on my verdure -2-

 無言のまま、ただぱちぱちと拍手を送る。リートが目を丸くして、「知ってる曲だけど、知らない曲だ」と素直に言えば、相手の少年は首を傾げ、「なんだそれ」と笑ってみせた。
 この少年が弾いた旋律は、春の祭りでよく奏でられる、『花追いの歌』に違いない。春の陽気に酔った人々が、酒を呷り、馬鹿笑いをしながら歌い散らす、そんな歌。しかし耳にした旋律の、なんと優雅で上品なことだろう。まさかあの『花追いの歌』を、こんなにも繊細な曲と感じられる日が来るなんて。
(でも、……それだけか?)
 腕に立った鳥肌を、もう片方の手で撫でつける。そうして目の前の少年をまたちらりと見れば、彼は気にした様子もなく、ただ視線で、リートの言葉を促した。
(ほんの一瞬、ほんの一瞬だけだったけど)
 少年がバイオリンを構えた、そのひととき。辺りを取り囲む全ての音が、消えてしまいはしなかっただろうか。先程までとは少しも変わらぬ、宮殿の庭の一角で、風の音が、そよぐ草木の囁き声が、ぱたりと止みはしなかっただろうか。
 考えてみたところで、その感覚が一体何であったのか、リートには終ぞわからない。だがその瞬間、確かに感じた『何か』があった。
「次は、リートが知ってる曲を弾きなよ」
 少年が笑顔でバイオリンを返すのを見て、ひとまず無言で頷いた。そうして咄嗟に辺りを見回し、この少年以外に人の気配がないのを見て取ると、リートも一つ、咳払いする。
「ええと。……そう、それじゃ。俺が知ってる『花追いの歌』を弾いてみるよ」
 バイオリンを構え、息を止め、不意に弦を走らせる。明るく陽気な旋律を踏み、音を軽快に跳ねさせた。先程耳にしたような、品の良い演奏などリートにはとても出来ないが、こうしてバイオリンを歌わせることならば得意である。
 名も知らぬこの少年がした演奏に、ほんの少し、対抗心が芽生えていた。
――リートの演奏を聞くと、なんだか踊り出したくなるね。
 故郷の人々はそう言って、リートの演奏を歓迎した。この少年はどうだろう。あどけない見た目には似合わない、高尚な音を奏でるこの少年は、――リートの音を、どう聞くのだろう。
 少年がしたのと同じように、ほんの一節を奏で終え、「どうだ」と視線で問いかける。しかしそうして少年と目が合うやいなや、リートは思わず赤面した。先程は何やら大人びた様子でいた彼が、今は随分子供じみた表情で目を輝かせ、うんうんと食い入るように頷いていたからだ。
「まるで違う曲だ。だけど俺の知ってる『花追いの歌』よりずっと楽しそうで、わくわくした」
「……知ってるけど知らない曲、だっただろ?」
「ああ! この曲は市井の祭の場で演奏されるって聞いているけど、リートの演奏を聴きながら目を閉じたら、その喧噪すら聞こえるような気がしたよ。凄いな。耳で覚えただけの曲を、こんな風に弾けるなんて」
 少年があまりに無邪気に、しかし真っ直ぐにリートの目を見て言うので、「ええ?」と思わず耳を掻く。自らの頬の火照りに気がつけば、気恥ずかしさが増してしまった。
「そんな風に面と向かって褒められると、照れくさいな。……お前の演奏も凄かったよ。感動して、鳥肌が立ったくらいだ。お前、本当にただの馬番なのか?」
 頬の火照りを手で扇いで冷ましながら、話題を変えるつもりでそう問うた。しかしこの少年の正体について、訝しんでいたのも確かである。いくらなんでもただの馬番が、あんなに雅やかな音色を奏でることが出来るだろうか。随分若いが、実のところこの少年は、楽隊の一員なのではないだろうか。リートはそう考えていた。
 だが少年は答えない。それどころか、リートの問いなどまるで聞こえなかったかのような素振りでもう一度バイオリンを手に取ると、「これは?」と別の曲を弾き始める。
「粉ひきの歌?」
「いや、『セファラサの田園』」
「ああ、もしかしてそれが本当の曲名なのかな。俺は『粉ひきのオッサンが禿げた。悲しい』っていう趣旨の、替え歌の歌詞しか知らないけど」
 リートが歌ってみせれば、少年は「酷い歌詞だ」とまた笑う。その晴れやかな笑みを見ると、リートの胸はいくらか湧いた。彼が何者なのかは知れないが、音楽を愉しむところはリートと少しも違わない。
 次は、何を弾いたら喜ぶだろう。出で立ちに似合わぬ雅やかな演奏するこの少年には、むしろとっておきの、とびきり明るい曲を聴かせてやりたい。しかしリートが曲を奏でようと、バイオリンを頬に寄せた、その時だ。
 少年がびくりと肩を震わせ、振り返ったのを見て、思わずリートも手を止めた。そうして少年の視線の先を追ってみるのだが、宮殿の庭は相変わらず、春の陽気に包まれるばかりである。だが耳をそばだてていると、少し遠くから、数人の笑いあう声が聞こえてきた。
「行こう」
 呟くようにそう話した少年の口調が、先程とは打って変わった色味を帯びている。
 急かすでもない、慌てるでもない、穏やかな声。だが一方でその言葉は、相手に有無を言わさぬ強制力を孕んでいる。
「急にどうしたんだ。もしかしてここ、見つかるとまずいのか?」
――それ以上奥に行くと罰せられるよ。
 先程の言葉が脳裏を過ぎったが、しかし答えは得られない。そそくさと立ち上がり、その場を去ろうとする少年を見て、リートが慌ててそれを追う。
 一体何だというのだろう。そうこうしている間にも、笑い声は徐々に近づいた。
「宮廷音楽家を募るのに、身分は一切問わないだなんて。馬鹿も休み休み言ってほしいものだ。これだから、あの王子は世間知らずの無能者だと笑われるのさ」
 不意に聞こえたその言葉に、リートは思わずぎくりとした。距離から察するに、先程の笑い声の主の言葉だろう。男の声だ。木陰からちらと覗いてみれば、いかにもお貴族様らしい立派な出で立ちの人間が、数人の取り巻きを相手に熱弁を振るっているのが見て取れた。
「楽器の音が聞こえていましたから、既に試験が始まっているようですね」
「下賤の者に、芸術の機微などわかるわけがないじゃないの。愛しい父君に泣きついて、スクートゥムの音楽学校を卒業した人間を寄越して貰えばいいものを」
「まあそんな事が出来る身分なら、とっくにそうしているだろうがね」
 そう言って笑いあう声が、何やら意地の悪い音を伴って、ざらざらとリートの鼓膜を撫ぜていく。
 彼らが宮殿内でどのような権力を持つ人間であるのか、それはリートには預かり知れぬ事である。だがそれにしても、王族の管理するこの宮殿で、随分と無遠慮なことを言うものだ。
 『世間知らずの無能な王子』というのはまさか、この宮殿の主のことだろうか。しかしあのようなおおっぴらな陰口が王族の耳に入れば、男もただでは済まないと思うのだが――。
「なあ、今のって、……」
 音を潜めて、前をゆく少年に声をかける。少年はちらとも振り返らない。
「まあ所詮、王子自身の出自もたかがしれているからな。庶民と過ごす方が、何かと気楽なんだろう。――もっとも、気楽に接することの出来る人間が、それ程集まるとは思えないがな。田舎のマラキアでとはいえ、楽隊に加わることが出来れば、宮殿勤めになるには違いない。少し賢い人間なら、それを足がかりにいくらだって成り上がろうとするはずさ。あの幼稚な平和主義者に、御しきれるやら、見物だね」
「しかし、この宮殿の主にどれほどの権力もないことはすぐに知れるでしょう。我々まで煩わされるようなことに、ならないと良いのですが」
「その時は、また楽隊の内部で衝突が起こるようにでも仕向けてやればいいさ。前の楽隊だって、退屈しのぎにちょっとかき混ぜてやっただけで、あっという間に分裂したろう」
 リートの前を歩く少年が、ぴたりとその場に足を止めた。つられてリートも足を止め、そうしてふと声の方を振り仰いだ少年の、その横顔に、
 思わずぎくりと、肩を震わせる。
「ああ、そうでした。元はと言えばそのせいで、楽隊の人数が足りなくなったんでしたね。人が悪い。貴方自身は、音楽になどちっとも興味がないくせに」
「ああ、音楽に興味はないね。ただ、……こんな事でもしていないと、この宮殿での田舎暮らしは、退屈で仕方ないのさ」
 賑やかな声は止むことを知らず、楽しげな笑い声と共に、草陰にいるリート達から遠ざかっていく。しかしそれでも、ぴたりと足を止めたまま、その場を離れようとしない少年を見て、リートは恐る恐る声をかけた。
「なんか、感じの悪い人達だったな。……その、」
 「大丈夫か?」そう問いかけて、しかし言葉を呑み込んでしまう。そんな安易な言葉を問うのは、不躾なように思われた。
 じっと表情を押し殺し、笑い声の去っていく方向を眺める少年を見れば、息の詰まる思いがする。言葉を探すリートの鼻先に、場に似合わぬ、穏やかな春の風が吹く。風に流された小さな花弁が頬を撫でたのを感じて、リートは些か眉をしかめた。
「ただ、……」
 あまりにささやかな少年の声が、風に遊ばれ薄れゆく。しかし言葉ははっきりと、リートの耳に届いていた。
「ただ楽しみたいだけのことが、どうしてこんなに、難しいんだろう」
 それがこの少年との、――後にリートにとって唯一の主となる、クラヴィーア王国第三王子アーエールとの出会いであった。
 
 赤い花弁のイリミアを避け、とぼとぼと、姉の後を歩いていく。ふと振り返った甥子が、リートを見て無邪気に微笑む。まだ母の背に負ぶわれてばかりのこの赤子が、リートに随分懐いていることは、我ながらよく知っていた。
 いや、その言い方は図々しいだろうか。この子の好きなのはリートではなく、どうやらリートの奏でる音であるようだと気づいたのは、リートがマラキア宮からこの村へ戻ってすぐのことだ。どんなに夜泣きの酷い夜も、リートが子守歌を弾いてやれば、この子はすぐに眠りについた。
(音楽を楽しむのに、『身の程』もなにも無い……)
 そこには何の壁もない。身分も、年齢も、――立場も。
 コランの村へと至る道の途中、リートは自らの手にしたバイオリンケースを見下ろして、また小さく溜息を吐いた。
――俺が使ってたバイオリン、お古で申し訳ないけど、リートが貰ってくれないか?
 皇王アドラティオ四世の命を受け、アーエール王子は聖地ウラガーノへ、そうして更にカランド山脈を越えた、首都スクートゥムへと旅立った。その出立が突然のことでもあったため、マラキア楽隊が即日解体されるようなことは無かったが、しかし楽隊の核であるアーエール王子がいなくなるとなれば、いずれ活動が収束へ向かうことは、誰の想像にも難くない。王子の後を任された執事は、リート達楽隊の人員についても今後の身の振り方の世話をすると言ってくれたのだが、リートはその前に、一度故郷へ顔を出そうと決めていた。
 マラキア楽隊に迎え入れられてから三年間、あまり戻ることのなかった故郷だ。久しぶりにゆっくりと骨を休めてから、またマラキアへ戻ればいい。マラキアでの最後の夜、あの送別会の際にリートがそう伝えると、アーエール王子はにこりと笑んで、「それがいい」と同意した。そうしてリートと目を合わせ、自らのバイオリンを差し出したのだ。
「父上への贈り物や、調度品で荷物が一杯だから、私物はなるべくマラキアへ置いていこうと思っていたんだ。だけど長年使った楽器に埃を被せておくのも気が引けるし、たまにでもリートが使ってくれるなら、それが一番嬉しいな」
 その言葉がリートにとって、臣下として、共に音楽を奏でた者として、どんなに光栄なことであっただろう。だがまさか、
 まさかこんな事になるなんて、思いもしなかったのに。
 ただ黙って歩く内に、気づけば実家の入り口にまで辿り着いていた。姉が息子をリートへ押しつけ、そそくさと家事に戻っていく。昼は畑仕事、夕刻からは家の仕事と忙しかろうに、リートのことを呼びに来てくれたのだ。
(もうマラキアに戻れないなら、……俺も何か、仕事を探さないと)
 アーエール王子がマラキアを出立した、僅か七日後のことである。王都から派遣された兵士達がマラキア宮を取り囲み、その宮殿に火をかけた――。そんな報せが舞い込んだのは、リートが家族と、夕餉を囲んでいた時であった。
 アーエール王子と入れ替わりにマラキア宮へ入った、ソーリヌイ侯が謀反を企て、王の怒りを買ったのだという。しかしリートにはわからない。王の怒りを買ったのが、新参者のソーリヌイ侯だというのなら、何故これまでアーエール王子に仕えていた使用人達まで、宮殿を追われ、縄を打たれ、首都へ連行されなければならなかったのだろう。
――頼むから、兵士に目をつけられるようなことはしないでおくれよ。あんたがマラキアの人達を心配するのと同じように、あたし達も、あんたのことが心配なんだ。
 ぎりぎりと握りしめた拳を、腿の裏側へ隠し込む。しかし窓の外から聞こえたその声に、
 びくりと肩を震わせた。
「おい、大変なことになった! 聞いてくれ。スクートゥムの兵士から報せがあったんだが、」
 首都スクートゥム。――アーエール王子の向かった場所だ。
 弾かれたように家を出て、声の主を視線で捜す。その声にただならぬ気配を感じた者は、リートだけではなかったらしい。一体何事かと次々に家を出てきた村人達を見て、へたりと道のど真ん中に座り込んだのは、リートの幼なじみでもあるガラだった。
「隣町へ来た兵士に聞いたんだ。す、スクートゥムで、五日前、……」
 ここまで駆けてきたのだろう。額に大粒の汗を掻き、息を弾ませながら、ガラは皆へとこう告げる。
「皇王アドラティオ四世陛下が崩御されたと……。皆、喪に服すようにと、伝令があって」
 周囲が俄に、どよめいた。
「陛下がお亡くなりに……? そんな、滅多なことを言うものじゃないよ」
「兵士が公示したんだから、確かなことだ。隣町じゃ、もう中央広場に喪章が掲げられてる。俺達も、すぐに準備しないと」
「だけどどうして、こんなに急に。だって、あれだろ? つい最近、マラキア宮へもお出でになったとか、……リート、あんた、楽士としてお会いしたって言ってなかったかい?」
 人々の視線が、今度はリートに集中する。しかしリートは小さく一つ頷いただけで、すぐには、言葉を続けることが出来なかった。
 アーエール王子がマラキアを発つ四日前、皇王は確かにマラキア宮を訪れた。リートが楽隊の面々と共に拝謁し、『風化した物語』を演奏したのもその日のことだ。
 あの時の王は上機嫌で、「ご苦労だった」とリート達にも声をかけた。病に翳っている様子など、ほんの少しもなかったのに。
――ただ楽しみたいだけのことが、
 いつか聞いた主の言葉が、何故だか今、リートの脳裏に蘇る。
 嫌な予感に高鳴る胸が、どくどくと煩わしい音色を響かせた。しかし一度生唾を呑み込むと、座り込んだ幼なじみへ、一歩小さく歩み寄る。
「殿下は、……」
 問わなくては。けれどリートの心が沸々と、臆病心を湧きたてる。
「アーエール殿下が首都にいるはずだ。殿下のことは、何か、聞いていないか」
 声が震える。真っ青な顔をした幼なじみが、恐る恐るリートに顔を向け、ぶるりと肩を震わせた。
「アーエール殿下は、」
――ただ楽しみたいだけのことが、どうしてこんなに、難しいんだろう。
「殿下は、……皇王陛下殺害の容疑で、捕らわれたそうだ」

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