吟詠旅譚

風の謡 番外編 // Whisper on my verdure

Whisper on my verdure -1-

 弦を引き、遠く地平の果てを見る。耳朶に触れる音は虚空に消えゆき、『彼』の姿を求め彷徨う。それがいかにも頼りないのを見て取れば、思わず頬に苦笑が浮かんだ。
(ああ、きっとこの音は、……主の姿を探しているんだ)
 気づけば息をひそめていた。そうしてただただ、自らの手にした、見慣れたバイオリンの奏でるその音に、心の内でしがみつく。
――この宮殿を離れるのは、寂しいよ。少しだけな。
 このバイオリンの正当の主は、今頃どうしているのだろう。あのマラキアの事件以来、良くない噂を風に聞く。寂しげに幾らか目を伏せて、しかしそれでも、「首都に呼ばれるのは、名誉なことだから」と微笑んだ少年のことを思い出すにつれ、『その時』、側で支えられなかったことばかりが悔やまれる。
(俺がお側に居たところで、して差し上げられたことなど、たかが知れていただろうけど)
――この先、スクートゥムに留まることになるのか、それとも他国へ渡ることになるのか……。それすらまだわからないけど、いずれ落ち着いたら、必ず招待する。その時は、またこの楽隊で演奏をしたいな。
 最後にまみえた、送別会の夜のこと。悪戯っぽく笑んだ己の主に、彼はただ、「殿下がどこに行かれようと、きっと皆でうかがいます」と微笑み返した。
 守られるかなどわからない、不確かな約束ではあった。だがまさかあの時は、こうまで、不穏な日々を過ごすことになろうとは思いもしなかったのに。
 短く深く、溜息を吐く。そうして最後の音を紡ぎ出し、昨日と変わらぬ地平線を眺めていると、どこかから聞き慣れた声が聞こえてきた。名を呼ぶこれは、姉の声だ。幼い我が子を背負った彼女は、左手に大きな籠を持ち、浅い川の向こう側から、こちらへ向かって手を振っている。
「リート、ちょっと手伝ってくれないかい?」
 何気ない調子でそう話す姉が、ちらと視線を外へと向けた。その仕草の意図に気づき、手にしたバイオリンを、そっとケースへ仕舞い込む。そうして地平線に背を向けると、石を飛び越え、川を渡る。姉の持つ籠を受け取って、村への道を歩いていく。
「あたしはあんたの事、母さんみたいに口うるさく言うつもりはないよ。三年もマラキアにいたんだ。あそこで別れた人達のことが、心配なのもよくわかる。だけど、あんまり目立ったことをしちゃ駄目だよ。殿下が『偶然』、あんたの素性を誤魔化しておいてくれたおかげで、こうやって王都軍の目を誤魔化せてるんだからね」
 黙って一度頷いて、手に提げたバイオリンへと視線を落とす。背中の子供をあやしながら、努めて穏やかに話そうとする姉の声が、じわりじわりと胸を浸す。
「ほんの少し楽器を使えただけの農民が、殿下の気まぐれで宮殿の楽隊に加わっていたなんて、黙っていれば誰にもわかりようがないんだから。殿下がウラガーノへ発ったのと同時に、村に戻ってきてくれていたのも運が良かった。そのおかげで、マラキアでの『あの事件』に、あんたは巻き込まれずに済んだんだからね……。
 村のみんな、あんたがマラキアにいたことは、口外しないって約束してくれた。何が何だかわけがわからないけど、今やマラキアにいた人間は、全員国賊扱いだ。頼むから、兵士に目をつけられるようなことはしないでおくれよ。あんたがマラキアの人達を心配するのと同じように、あたし達も、あんたのことが心配なんだ」
 もう一度、黙ってただ頷いた。しかし姉がちらりと、リートの手に持つバイオリンを見たのに気づき、彼はそれを姉の視線から遠ざけるように、反対の手に持ち替える。
 五六八二年の春のこと。クラヴィーア王国南部にあるマラキア宮より、いくらか東に位置するコランの村は、赤い花弁のイリミアが、そこかしこに咲き乱れる時分にあった。だが常の春には誇らしく話して聞かせた故郷の春が、故郷の春のその赤が、今はリートの胸中を掻き乱す。
「殿下から賜ったっていうそのバイオリンは、……あんたが持つには少し、立派すぎて困っちまうね」
 そう言って苦笑するこの姉は、それでもしかし、「兵士に見つかる前に、売っておくれ」とまで言わない。その優しさに心の内で謝りながら、リートは、三年前のある春のことを思い出していた。
 
「楽隊の入隊試験を受けに来たのか? なら会場はあっちだよ」
 不意にかけられたその声に、びくりと肩を震わせた。ようやく見つけた人気のない木陰で、故郷から持参したボロのバイオリンを手に、リートが一呼吸着いていた時のことだ。
 振り返った視線の先に立っていたのは、人懐っこい笑みを浮かべた使用人らしき少年であった。長い金色の髪を一つに縛ったこの少年が、茂みの向こうを指さして、「あっち」と繰り返した日のことを、リートは今でもよく覚えている。
 この国クラヴィーア王国の第三王子にして、十二歳になったアーエール王子が、マラキア宮での楽隊の隊員を広く募っている――。リートの生まれ故郷であるコランの村に、そんな報せが飛び込んできたのが、この凡そ一月前のことであった。
 楽隊の一員として迎えられれば、宮殿の一角に住まいを与えられ、相応の報酬が支払われる。それでいて、身分や演奏家としての経歴は一切問わぬという寛容すぎる募集要項を、リートとその家族は、すっかり真に受けていた。幼い頃、父親が知人から譲り受けた古びたバイオリン。農家の仕事の合間にその弦を撫で、音を奏でる時間を、リートは何より好んでいた。リートの奏でる音を聞き、喜んでくれる村の人々を見るのが好きだった。
 不作の為に弦を張り替える事すら出来ない年もあったが、それでも二十年以上もの年月を、楽器と共に生きてきた。そんなリートの耳に入ったのが、このマラキア宮での楽隊の募集である。
 宮廷音楽家の募集とはいえ、勤め先はこの、首都から遠く離れたマラキア宮だ。恐らく、それ程高い質を求められているわけではないのだろう。そう考えたからこそリートは、楽器一つを荷物として、着の身着のまま数日をかけて、コランからマラキアまでを歩いてきたのだ。
 だが、しかし。
「俺は、その……。試験を受けに来たんだけど、やっぱり帰ろうかと思ってるんだ。試験会場より、帰り道を教えて欲しいな……」
 溜息混じりにそう言えば、着古した衣服を身につけたこの少年は、怪訝な様子で首を傾げてみせた。そうして何気ない仕草でひょいとリートの隣に座り込み、「どうして」と問うてくる。
「その包み、楽器だろ? どこから来たか知らないけど、わざわざマラキアまで来ておいて、なんで試験を受けないんだ?」
 心底不思議そうに問う少年の視線から、逃れようと必死であった。しかしリートより一回りは年下であろうこの少年は、無遠慮に、続けてリートへこう問うた。
「名前は?」
 有無を言わさぬその声に、思わず一度、押し黙る。だが少年がじっとリートのことを仰視したまま、少しも退かぬのを見て、リートもようやく観念した。
「……、リート・グランザだけど。そういうお前は、」
 マラキア宮の使用人か? 問いかけて、しかし一旦、口をつぐむ。そう問うことに、何やら違和感があったのだ。隣に座り、大人びた仕草で一丁前に腕を組んだこの少年は、身につけた物こそ粗末だが、リートのよく知る村の子供達とは、何かが異なるように思われた。
「俺は、マラキアの馬番だよ」
 リートの思考を遮るように、少年が自らそう言った。「すぐそこに、厩舎があるんだ。馬の世話をしていたら、一人で歩いているリートの姿が見えたから」
 「それ以上奥に行くと罰せられるよ、って伝えに来たんだ」あっけらかんと告げられたその言葉に、リートが息を詰まらせる。訳がわからず視線で問えば、この少年はまたにやにやと、「説明を聞かなかったのか?」と言って笑った。
「楽隊の試験を受けに来たとは言え、リートはまだ部外者なんだ。マラキアだって一応宮殿だからな。部外者を勝手に歩かせておくわけにいかないだろ? 始めに風車棟で説明を受けた時に、うろつくなって言われたと思うけど」
「……、全く聞いてなかった」
「大物だな」
「違う。その時はちょっと、緊張してて」
 そう言ってからまたちらりと、隣に座る少年の様子を窺った。
 先程の違和感の理由はわからなかったが、今まで仕事をしていたのか、よく見ればシャツやズボンのあちこちに、飼葉をぶらさげた出で立ちで居る。馬番だと言っていたが、どうやら嘘ではないのだろう。そもそも、彼がリートに嘘をつく、理由が思い当たらない。
「緊張? ああ。それで、試験を受けずに帰ろうとしてたのか」
「まあ、似たようなもんかな……。なんか、ほら、俺なんか場違いだろ」
 宮殿内の事情はよくわからないが、馬番なら、使用人の中でもそれ程身分の高い人間ではないだろう。その事に気を許したリートは、「場違い?」と聞き返す少年を見て、深く長い溜息を吐くと、「場違いなこと、この上ないよ」と呟いた。
「こうして会ったのも何かの縁だし、俺の愚痴を聞いてくれよ。――俺は今日、身分も出自も問わないっていう話を信じて、この宮殿に楽隊の入隊試験を受けに来たんだ。ところがどうだ。試験を受けに来てる、他の演奏者を見たか? みんな随分煌びやかにめかし込んでて、俺なんかお呼びでない雰囲気じゃないか。あんな中で試験を受けたって、身の程知らずと笑われるだけさ」
「ふうん、そうなのか」
 興味なげに、少年が相槌を打つ。そうしてリートの手にしたバイオリンの包みを指して、「見ても良いか」と問うのを聞いて、「好きにしなよ」と頷いた。
「まあそもそも、あんな募集要項を真に受けた俺が馬鹿だったんだよ。いくら、城下町すらないド田舎のマラキア宮での募集とはいえ、集めてるのは宮廷音楽家なんだ。俺みたいに譜面もろくに読めないような奴が、来て良い場所じゃなかったんだよ」
「譜面が読めない? このバイオリンは相当使い込まれてるように見えるけど、それじゃ、ずっと譜面無しで演奏を?」
「自分で勝手に曲を作ったり、隣町で演奏される曲を、耳で聴いて覚えたりしてたんだ。バイオリンの弾き方だって、最低限は習ったけど、後は全部自己流だよ。でもだからこそ、もし試験に受かったら、楽隊で色々学べるって思ってたんだけどな」
 言って、また深々と溜息を吐く。しかしそうする間にも、隣に座った少年は、まだまじまじとリートのバイオリンを眺めていた。
 楽器を見るのが珍しいのだろうか。馬番とはいえ宮殿に勤めているのだから、もっと質の良いバイオリンを見る機会だって、他に幾らでもありそうなものなのに。
 それとも、自分で楽隊を作ろうとするような音楽好きの王子がおわす宮殿だ。ひょっとするとこの少年も、それなりに音楽の心得があるのだろうか。そんな事を考える側から、少年はひょいとリートのバイオリンを構え、弓を持ち、「音楽に」と、言葉を呼吸に含ませる。
「音楽を楽しむのに、『身の程』もなにも無いと思うけど」
 少年が、口を閉ざして浅く目を伏せ、不意に静かに弓を引く。
 同時に、
 彼の奏でたその音に、リートは思わず身震いした。
 いつか、町の祭りで聴いた曲。聞き覚えのあるその旋律が、しかし流麗たる高音を孕み、リートの鼓膜を撫でていく。
「――この曲、知ってる?」
 ほんの束の間の演奏の後、少年は無邪気に、リートに向かってそう笑んだ。

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