吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

070 : BIRTHDAY -6-

 カノンが雄叫びにも近い呻き声を上げ、アルトの腕を引き離す。突き飛ばされたアルトが尻餅をつくと、カノンの腕が、アルトが腰に帯びた剣へと伸びた。
「邪魔をするな、……俺には後がないんだ!」
 引き攣れた声。その刺すような視線に、アルトははっと息を呑む。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ!
 どこかからそんな声がした。精霊達の言葉ではない。
 嫌だ。違う。ただ、俺は。
 胸を鷲づかみにするようなその叫びは、渇望するようなその蛮声は、もっと身近な、――目の前に迫る、このカノンと名乗った男の声だ。
(やめろ)
 心の中で、そう呟く。それからのことは、一瞬ごとが永遠のように思われた。
「やめろ、――カノン!」
 アルトの帯びたデュオの剣がきらめいて、カノンの腕に引き抜かれる。カノンはと言えば既に王を向き、今にも剣で斬りつけんという形相だ。
 ああ、いけない。止めなくては。
 そう思うより早く、アルトの足は動いていた。急ぎ立ち上がり、王とカノンとの間へ身を滑り込ませ、そして。
 今にもカノンの持つ刃が届こうとした瞬間に、アルトはまたしても強く突き飛ばされ、玉座に腰を打ち付けた。だがカノンにされたわけではない。信じられないその光景に、アルトはただただ絶句していた。
 アルトをかばうように立ち上がった王の胸を、刃が深々と切り裂いていく。
 横一文字に薙いだ剣先に沿い、鮮血が玉座に迸る。始めはじわりと滲むように、次第に破れた革袋から水が滴るかのように、鮮血が、王の体から溢れていく。
 カノンがおおきく身震いし、よろめきながら後ずさった。
 暖かな血が、頬に跳ねる。アルトは呆然としたまま立ち竦んで、ふと、自らの足元に崩れ落ちた王を目で追った。王冠が音もなく、血の染みる絨毯を転がっていく。
 実感のあるところであった。
 ああ、事切れている――と。
「父、上……」
 呟いた。その時だ。
「チェックメイトです。父上」
 高らかな、それでいて自信に満ちた若い声。強ばった顔で振り返ると、そこに知った人影があった。
 王の血を濃く継いだ青の目に、すらりとした面立ち、立ち居振る舞い。その頬には、満面の笑みが浮かんでいる。アルトはそれを見て、ただ静かにその名を呼んだ。
「――ラフラウト」
「おや、もう『兄上』とは呼んでくれないのか? 五年前に会った時には、そう呼び丁寧に挨拶までしてくれたのに」
 言ってくっくと笑い出す。その楽しげな声をかき消すように、カノンの取り落とした剣が、音を立てて床へと落ちた。見ればカノンは顔面蒼白で、恐怖に見入られた顔でそこにいる。ぐったりと横たわる王を見、がくがくと肩を震わせながら、ただ、ただ、立ち尽くしていた。
「いいんだ。……こいつは、殺されて当然のことをしたんだから……俺も、母さんも、こいつが……それに、これで、これでようやく」
 かみ合わない歯が、カノンの囁きを一層不明瞭なものにしている。しかしそんな様子にはお構いなしに、ラフラウトの声は明るく、弾んでいた。
「御苦労だったな、カノン。自らが存在を葬ったはずのおまえに殺されて、父上も本望だったろう」
 皮肉めいた笑い声。アルトの腕に、鳥肌が立つ。「まさかおまえが、やらせたのか」呟くようにそう問うた。だがラフラウトは答えない。一方でカノンが縋るように、震えのおさまらない自らの腕を強く掴んで、ラフラウトに向かってこう言った。
「……ラフラウト。これで、俺とリアーナ様――母さんの自由を、保障してくれるんだろうな」
 リアーナ。おそらくは、第三王妃リアーナのことだ。貴族のエバテリス家からアドラティオ四世へ嫁いだが、子に恵まれず、今はこの王城のどこかへ身を隠すように暮らしていると聞いたことがある。
 ああ、それがそもそも偽りであったのか。そう思うと、背筋が音をたてて凍り付いていくようだった。
 第三王妃リアーナには息子がいた。
 恐らくは、――王の血を引く、三人目の王子が。
 カノンの必死の言葉にも、ラフラウトはただにやついた笑みを浮かべるのみだ。するとカノンは縋るように、囁く声でこう続けた。まるで足元へ横たわる亡骸に、遠慮するような言い様だ。
「頼む、そうだと言ってくれ! ルシェルではしくじったけど、結果アーエールは自ら城へ現れたし、アドラティオ四世のことはこうして……俺が、手にかけたじゃないか! ラフラウト。もう、これでいいだろう? 俺達を解放してくれるだろう? あんたとパンデレッタ様には、十五年間生かしてもらった。恩も感じている。だけど、これで」
「馬鹿だな、あんな口約を信じていたのか」
――私が授かる子供は三人。それ以上でも以下でもいけない。全てが息子。それも、皆違う母を持つ。
「そう簡単に、お前を手放すわけがないだろう。お前は事情を知りすぎている。それを野放しにしておくだなんて、そんな博打が打てるものか」
「そんな……。話が違う、――兄上!」
 ああ、何もかも耳を疑いたくなることばかりだ。王妃リアーナを母と呼び、ラフラウトを兄と呼ぶこの男は……『カノン』というのは、やはり。
「カノンは第三王妃リアーナと、アドラティオ四世との間に生まれた王子よ。この国の本来の第三王子サマ。おわかり?」
 急に聞こえた女の声に、アルトははっと顔を上げる。すると先程アルト自身も通った扉の辺りに、頭から黒いベールを被った女の姿があった。華奢な体つきに、喪服のように真っ黒なドレス。ベールのために顔を見ることは出来なかったが、その下で瞳がぎらりと輝いたのが、アルトには何故か、手に取るようにわかってしまった。
「アドラティオ四世が受けた予言において、この国の王子は三人でなければならなかった。それも、三人目はどうしてもあなた、狭間の力を継いだ人間でなくてはいけなかったの。それで王はあなたが生まれる二ヶ月前、王宮に生まれた本物の第三王子の存在を闇に葬ることにした。……だけどその王子様は、ラフラウト殿下のお母上、パンデレッタ様のお情けで生き延びてしまったのよね」
「――リストン。やめておけ、そいつに知らせる必要はない」
 ラフラウトが呆れた様子で彼女を睨み付けたが、リストンと呼ばれた女はそれを気に留める様子もない。それどころか「ラフラウト殿下ったら、こんな楽しそうな場にわたくしを呼んでくださらないんだもの。仕返しよ」と悪戯っぽい声音で言うと、まるで足元の血溜まりなど見えていないかのように、そしてしなやかに歩く猫のように、アルトの方へと歩み寄る。
「それに何も知らないままだなんて、あまりに可哀想じゃない」
 指で頬を撫でられて、アルトは咄嗟に女の手を振り払った。まるで鋭い刃を突きつけられたかのような、寒気を伴う不安が過ぎったのだ。しかし彼女は頓着しない笑顔を見せると、何でもないような口調でこう言った。
「ねえアーエール殿下。なぜ狭間の力は、その使い手に幸せを運んではくれないのかしらね」
 楽しくて、楽しくて、仕方がない。残忍な笑顔がそう語っている。「何のことだ」と問うてみても、女が答える様子はなかった。
 ふわりと黒いベールが揺れた。そこに見たことのある色を見て、アルトは愕然と目を見開く。女性にしては短く切り揃えられた銀の髪、そして同様の銀の瞳。この色は、一度見たら忘れない。
(シャリーアの港で笑いかけてきた、あの時の女――!)
 シャリーアでの夜のこと。港に積まれた荷の間から飛び出して、アルトに笑いかけた女がいた。彼女はまるで舞うかのように駆け、ひとけのない夜更けに消えていった――。
 間違いない。ここにいるのはあの女だ。にこりと微笑みかける表情は、今までに見たどんな女性のそれより美しい。だが同時に、ぞっと冷える思いもある。残酷なまでに相手の心へ入り込み、それを切り裂くこの女の微笑みは、まるで物語に聞く悪魔のそれだ。
 もしかするとこの女は、シャリーアの町から首都スクートゥムへ至るまで、ずっとアルト達のことを見ていたのではないだろうか。そんな考えが、ふと脳裏を過ぎっていく。アルト達が血を流し、雨に濡れ、叫ぶのを、この美しく冷たい笑みを浮かべたまま、ずっと監視していたのではあるまいか。
「ごめんなさいね。私達、あなたに王になられるととっても困るのよ。だからあなたには金輪際、表舞台から消えてもらわなくてはならないの」
 言ってリストンはにこりと笑い、ぱちんと指を鳴らしてみせた。同時に扉が再び開き、先程までは影とも姿を見せなかった兵士達が、次々に部屋へとなだれ込んでくる。
「――何のつもりだ、放せ!」
 駈け寄ってきた複数の兵士に取り押さえられて、アルトはそれを怒号した。しかし兵士達が怯む素振りは少しもない。離れた場所でカノンが青ざめ、また、ラフラウトとリストンが顔を見合わせて、くすくすと声をたてて笑っている。
「アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーアは以前から、皇王アドラティオ四世を暗殺する計画を企てていた。母モノディアが自害したのは、王の所為だと逆恨みをしていたからだ」
「……!」
 ラフラウトが冷たい口調で言うのを聞いて、アルトは小さく息を呑んだ。一体誰が、何を企てていたって? しかしそう問いながらも、アルトの心は冷静だった。
 ああ、そうかと納得する。こうなることがわかっていたから、その為の罠を張っていたから、ラフラウトはサンバールのように、執拗に兵を敷いたりしなかったのだ。彼はただこの城で、アルトを待つだけでよかった。そうして笑みを浮かべながら、アルトが彼の用意した最も残酷なシナリオにかかるのを待っていたのだ。
 王によく似た青の眼が、冷たい色にぎらついている。
「父上は結局、お前が誰の子か、真実を明かそうとはしなかったが――。こんな傷だらけの王子など、この国にあってたまるものか」
 取り押さえられたアルトを見下し、ラフラウトがそう吐き捨てる。その明らかな侮蔑の色に、アルトは強く牙を鳴らした。腹の内に何か言いようのない思いが、とぐろを巻いて募ってゆく。
「――っ、放せ!」
 強い口調で言い、もがいても、兵士達がその手をゆるめる様子はない。そうする間にも腕をロープで縛り上げられて、アルトはなおさら強く悪態をついた。ああ、どうにかしてこの場を逃れなくては。この男の思い通りになどさせるものか。しかしそうは思うのに、ちっとも体の自由がきかない。
「カノン、いつまでそうしている」
 ラフラウトが声をかけると、カノンは弾かれたようにはっと肩を震わせて、まごつきながらラフラウトとアルトとを見比べた。その顔は相変わらず血の気を失っており、紅く染まった自らの両手を、ぎゅっと強く握り込んでいる。
「お、俺が……俺が王を」
「王を殺したのはアーエールだ。奴が捕らわれ王殺しの罪で処刑されれば、この件は丸くおさまるだろう。残りの障害はサンバールただ一人だが、兄上は内政に疎いからな。この国が私のものになるのも、時間の問題さ。……カノン。おまえは今まで通り、私の指示に従ってさえいればいい。それで全てがうまくいくのだから」
 強く言いつけられて、カノンが悔しそうに俯くのが、アルトの位置からよく見えていた。もし今、鏡を覗き込んだら、自分もあんなふうに敗北感にうちひしがれた顔をしているのだろうか。そう思うと、それだけで腹の内が煮えくりかえるようだ。
 視線を移せばその先に、ぐったりと横たわる王の姿があった。あの男は自らに刃を突きつけられても、少しも抗おうとはしなかった。それどころか当然の運命であるかのように微笑んでさえいた。だが。
(俺はそんなふうに諦める気なんて、これっぽっちもない)
 誰かの思惑のために冤罪を被るなんて、まっぴらだ。
 なら一体どうすればいい。心の中でそう呟く。今の自分に、何が出来る。周囲を見渡せば、自らを捕らえ、取り囲む兵達の姿があった。その向こう側には、笑うラフラウトと、黒いドレスの女、それから――。
(今の俺に、必要なのは)
 ぐっと奥歯を噛みしめて、アルトは一度、目を瞑る。
「リアーナ様を、人質に取られているのか」
 強い口調でそう言うと、カノンがびくりと肩を震わせ、恐る恐るアルトへ視線を移した。ラフラウトが不愉快そうに片眉を上げたのがわかったが、アルトは少しも取り合わない。
「それでラフラウトの命令通りにしているんだろう。だけど、いつまでもそのままでいいのか? これからもそうして生きていくつもりなのか? ――カノン、俺達は選べるんだ。わけのわからない予言に振り回されたとしても、いつまでもそれに従う必要なんて無いはずだ」
「カノン、聞くな。馬鹿馬鹿しい」
 ラフラウトがそう言って、アルトに背を向け歩いていく。しかしカノンがそれに続くことはなかった。ただ立ちつくしたまま、食い入るようにアルトを見ている。
「お前は俺を同士と言った。偽りの名を名乗っていた時とは言え、助け合えるはずだとまで言っただろう。俺達は今、互いに助けが必要だ。カノン、力を貸してくれ。俺もお前の力になる」
「アーエール殿下ったら、素直に『助けてくれ』とは言わないのね。……だけどカノンを仲間に引き入れた程度じゃ、この場を逃れる事なんてできないわよ?」
 言ってリストンが小さく笑う。ラフラウトが苛々とした表情を浮かべて振り返り、一方でカノンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「カノン、来い! お前とリアーナ妃の命、誰が救ってやったと思ってる!」
「選ぶんだ、――一生、言いなりになって生きるつもりなのか、カノン!」
 頃合いを見計らったかのように、室内に置かれた振り子時計が、深夜を告げる音を鳴らした。
 静かな鐘の響く音。冷たい鉄の震える音。リストンはまるで音楽を聞くかのように鐘の音と、そしてその場の喧噪に耳を傾けて、ぽつりと笑顔でこう言った。
「あら、日が変わったわ。……お誕生日おめでとう、アーエール殿下。さあ、本当の悪夢の始まりね」
-- 「幕間」へ続く --
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