吟詠旅譚

風の謡 第一幕

幕間 : 寡黙な両手

「世界は何も変わっちゃいない」
 ある丘の上、無人の宮殿を見下ろしながら、ふと呟いた女がいた。線の細い、華奢な女である。
 切り揃えられた髪の間から覗く瞳は強く、気高い。そしてその視線は、見下ろす総てを軽蔑しているようにも、憐れんでいるようにも見受けられる。
「カナデ。……どうかした?」
 先を歩いていた長身の男が、振り返り、女に優しくそう問うた。頭からすっぽりとかぶったフードのために、その表情は窺えない。だがその声音から、どうやら女を心配しているらしい事はわかる。
 カナデと呼ばれたその女は、答えずただそこに居た。彼女に答える気がない事は、火を見るより明らかだ。
「この場所が懐かしいんだろう」
 見兼ねたように、もう一人の男が言った。鍔の広い帽子をかぶった、低い声の男だ。するとフードの男は首を傾げ、「一体なぜ?」と素直に問うた。
「カタリ。君達は、前にもここへ来たことがあるのかい?」
「あるさ。ここへも、そこへも、どこへでも。カラス、おまえだってそのはずだ」
 カタリと呼ばれた男がにやにやしながらそう言うのを聞いて、しかしカラスは納得いかない様子で首を傾げる。そうして再びカナデを振り返るが、彼女はいまだ、宮殿を眺め佇むのみだ。だがカラスがもう一度声をかけようとすると、今度はカタリがそれを阻んだ。
「駄目だ。ああなった時の、カナデの邪魔をしちゃ」
「……。彼女は一体、何をしているんだ?」
 問うと、カタリはいつになく真剣な顔でこう答える。
「紡いでいるのさ」
「紡ぐ? なにを」
「物語を。あの宮殿から旅立ち、血の道を選んだ少年の物語を、カナデはああして紡ぐのさ。見ていな、じきに音が生まれる」
 言われてカラスはしばらく彼女を見ていたが、しかし何か、彼の期待していたようなことが起こる様子は露ほどもない。そのうちにカナデが振り返り、「行きましょう」と何事もなかったかのように声をかけた。
「あなたがたは、不思議だな」
「不思議? 一体、何が」
「時折、私にはちっともわからないことを言う」
「そうかい。そりゃ、失礼」
 カタリの返答があまりに適当なのを聞いて、カラスは小さく苦笑する。しかしふと空を仰ぎ見ると、晴れやかな口調でこう言った。
「けれどその反面、私にしかわからぬものもある」
「ほう? あんたが知っていて、俺達の知らないことがあるって?」
「そうさ。だから私の同行を許したのだろう」
「随分、自信があるようで」
「そうでなければ、あなたがたとは居られない」
 カラスがそう言葉を切ると、カタリもそれ以上には何も言おうとはしなかった。ただカラスにつられるように空を仰ぎ見て、ふと息をつく。すると、その時だ。
   風の竪琴かき鳴らし、
   ウタイモノらが明星を運ぶ――
 唐突に聞こえてきた微かな歌声に、カタリが虚を突かれた様子で目を瞬いた。見ればカナデがハープの弦を弾き、音になるかならないかといった小さな声で、ある旋律を口ずさんでいる。
   月よ、月よ、彼の月よ
   独り旅立つその旅人の、
   孤独な道を照らしておくれ
「カナデ。君が謡うだなんて、珍しいね」
 カラスが言うと、カナデはにこりともせずに歌うのをやめ、ただ「あの子が歌っていたから」とだけ言った。カタリは面白くなさそうに口をとがらせると、さっさと歩いていってしまう。
「カタリ。そっちは反対方向だわ」
「はい、はい。俺の詞には全く興味を示さないのに、まさか、素人のつくった詞を謡うとはね」
「嫉妬しているの」
「男の嫉妬は醜いって、そう言いたいんだろう?」
「そうね、それもあるけれど」
 カナデの素直なその言葉に、カタリが顔をしかめ、足を止める。しかしカナデは少しも頓着しない様子で、こう続けた。「私は嬉しかったのよ」と。
「役者が全て揃ったのだもの。――これで私達、『城』へ向かうことが出来るでしょう?」
 言ってカナデが、空を仰ぎ見る。それを見たカタリとカラスも、それぞれに再び空を仰ぎ見た。
 晴れ渡った春の空。ちぎれ雲の浮かぶ青い空には、しかし、彼らにしか見ることの出来ない、大きな、黒々とした影がある。
「今日の『城』は、ご機嫌斜めのようだ」
 ぽつりとカラスがそう言った。するとカナデは首を横に振り、ただ短くこう言い換える。
「いいえ。――あれも、喜んでいるのだわ」
-- The close of Act 1 --

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