吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

069 : BIRTHDAY -5-

「どこから話し始めようか、ずっと考えてた。事の起こりが一体いつだったのか、情けねえ事に、俺にもよくはわかってなくてね」
 シャリーアで、デュオははじめにそう言った。
「だが始めに思い浮かぶのは、十八年前のある日のことだ。あの時ジルウェットが口にした、たった一言が、その後の全てを暗示していたんじゃないかって――今となっては、思えてならない」
 
 酷い眩暈がおさまる頃には、『偽物』――カノンは部屋を去っていた。アルトは杖代わりにしていた剣を腰に帯び、シャツの首元をゆるめて呼吸を整えると、強く扉を睨み付ける。
(……追わなくちゃ)
 何故だか心が、そう急かす。視界はいまだぐらついたが、歩くくらいはできそうだ。
 遅れて寝室を出、絨毯の敷き詰められた応接間を抜ければ、廊下へと続く扉はいとも簡単に開かれた。てっきり見張りが待ちかまえているだろうと思っていたのに、辺りを見回してみても、巡回の兵士一人いやしない。
 まるで城自体が寝静まってしまったかのような静寂が、アルトの眼前に広がっていた。窓から中庭を覗いてみても、明かりの灯った部屋など一つもない。庭の間に通る渡り廊下にすら、兵士の姿は見られなかった。
(ここはスクートゥムだ。……マラキアよりも警備が手薄だなんて、あり得ない)
 事が済むまでここにいろ、と、カノンはアルトにそう言った。あの時は何を言われているのだか、すぐに理解ができなかったが――。今になって、確信を得た。この城で、何か異変が起きているのだ。
 昏い廊下にぽつりぽつりと、燭台の火が灯っている。廊下の片側に並ぶ窓からは月明りがこぼれ、火と月とに薄ぼんやり照らし出された廊下は、どこか病んで見えていた。そしてその中に、身を隠すようにそそくさと、足を進めていく精霊達の気配がある。
 カランドでの戦いの時、精霊は血の臭いを遠ざけるように去っていった。彼らはどうも、争いや血の穢れを厭うらしい――。ならば彼らの来た道を辿っていけば、この城で何が起きているのか、あるいは何が起ころうとしているのか、知ることが出来るだろうか。
 そう考えて前を向き、アルトは奥歯を噛みしめた。彼らがどこからやってくるのか、すぐに思い当たったからだ。
 薄闇の廊下を右に曲がり、中庭を通って奥へ奥へと進む先。そこにあるのは、……王の間へ続く階段だ。
(『カノン』も、きっとそこへ向かったんだろう)
 根拠はない。だが確信があった。
 壁に手をつき、歯を食いしばって歩き続ける。なぜ歩くのかはわからなかった。だがアルトは歩いていた。
 
 燭台にのぼる炎の裏に、ちらり、きらりと幻影が灯る。
 一人の少年が歩いていた。彼の足取りはアルトと同じく、まるで鉛の足枷でもつけているかのように鈍重だ。
 少年の顔は青ざめていた。そしてその肩は震えていた。
 
 そのうち分かれ道に突き当たり、アルトは思わず苦笑を浮かべる。一本道ならよかったのに。そんな思いが脳裏を過ぎった。こんなふうに選択権だけ与えるなんて、運命というものは随分嗜虐的だ。
 精霊達は皆こぞって、左の道へと進んでいく。そちらへ首を向けてみて、アルトは一度、深く目を瞑った。
 精霊達の向かって行く先。この城から出るための道。
 今なら、この道を選び進むことも出来る。……幸い、周囲に人の目はない。ここで精霊達と共に逃げ出したからといって、一体誰が咎めるだろう。知人を求めて身を寄せるにしろ、一人で流離い暮らすにしろ、この道を選べば、自由に生きることが出来るやもしれないのだ。
(俺が、精霊達と共に逃げたら)
 そう考えて、アルトは微笑み、溜息をついた。
(さしあたって心配なのは、クロトゥラのことだ――。だけど『カノン』はあいつのことを、ただ兵士とだけ言った。そこらの兵士と同等に見られているなら、クロトゥラが負けることはないだろう)
 捕らわれていたマラキアの人間のことだって、カノンの言葉を信じるなら、ひとまず心配は要らないはずだ。ただ、今まで通りの逃亡生活を強いられることにはなるが――。アルトはそこで思考を止め、自嘲気味に小さく声を上げて、笑った。
 そうして右へ振り返る。王の間へと続く道。恐らくは、何か事件の渦中へと至る道。そこへ向かったからといって、事態が悪化することはあっても、好転の可能性がないに等しいことは、よく理解のあるところだ。
 一緒に行こうと、精霊達に言われた気がした。
 逃げるにしろ、戦うにしろ、もはや誰かを救うほどの余裕など、今のお前にはないのだから。
 ここに残っても辛いだけ。無力感に浸るだけなのだから、と。
 
 炎の裏に、再びきらりと幻影が灯る。
 腰に帯びた剣を引き抜き、少年が、豪奢な扉に手をかける。すると中から、先んじてこう声がかかった。
「来たのか、カノン――」
 少年はそれに答えない。ただ、ただ、息を潜めて戸を開く。
 広々としたその部屋に、佇む影は一人きり。『カノン』と呼ばれた少年は、その人影を睨み付けた。
 金で縁取られた豪奢な玉座。そのすぐ隣に、一人の男が立ちつくしている。彼は感情を感じさせない表情を浮かべ、少年をじっと見つめていた。そうして少年が手に持つ刃に視線を移し、ぽつりと――。
「私を殺すか。……それもいい。私もすっかり疲れてしまった。もう、これ以上は」
 
「もう、これ以上は歩きたくない。――そう思ったのは、一度や二度の事じゃなかった」
 言ってアルトは苦笑する。しかしそうする一方で、力強く、首を横へ振ってみせた。
(なんの後ろ盾もなくここへ来たって、兄上達を敵に回すだけ。……そんなこと、とっくの昔にわかってた)
 王族からも貴族からも、アルトはずっと孤立していた。そんな自分が玉座を望めばどうなるか、その点は理解していたのだ。だから幼い頃から王権を狙っているなどとは毛の先程も疑われないように、二人の兄達を敵に回さずに済むように、そう振る舞ってきたつもりであった。それが利口なやり方だと、そう信じていた。だが。
 ここまで駆けたのは、何のためだった? 自分自身に問いかける。
 始めは故郷を取り戻したい一心で、スクートゥムまで向かおうと決めた。けれど今はそれだけではない。聖地ウラガーノでアルトの肩を押したのも、あの薄暗い洞の中でアルトを突き動かしたのも、全ては一つの強い意志だった――。
「俺は逃げない。ここに残るよ」
 呟くと、精霊達が一瞬、足を止めてアルトを見た。
「王になるためじゃない。兄上達との和解だって、もう期待はしちゃいない。だけど俺だって、――意地くらい、貫きたいから」
 胸元のペンダントを握り締め、「後悔するな」と自分に三度、言い聞かせる。そうしてアルトは右へ向き、もう一度深く目を閉じた。
 右へ行くにも左へ行くにも、もう二度とは戻れない道だ。しかし恐れることはない。
――死んだあの男の代わりに、事実を問いにきた、とでも?
 不意に、王の言葉が脳裏に過ぎった。感情を感じさせない静かな声。アルトのささやかな期待を打ち崩したその言葉が、今では逆に、アルトの意志を支えている。
 ここで逃げてしまったら、二度と真実には近づけない。そんな気がした。
 今行かなくては、きっと一生後悔する。行かなくては。知らなくては。その思いだけが、不自由な両足を動かしている。
 炎の裏に潜む幻影を睨み付け、アルトはただ、ただ、前へと進んだ。
 この年若き王者の歩みに、もはや一片の迷いもなかった。
 
 奢侈のこらされた階段を登り、荒い息を整えながら、王の間へ続く扉に手をかける。ここまできても、やはり兵士の姿はない。だがしかし、扉の向こうからはうっすらと、人の声が聞こえている。
 ああ、あの幻影が語ったとおりだ。ならば躊躇う余裕はない。
 打ち壊す勢いで扉を開け、アルトは王の間へと駆け込んだ。そうして中の様子を見て、きつく奥歯を噛みしめる。
 大理石の床、柔らかな絨毯、金粉を散らした梁に、神話の描かれた天井。物心ついてから初めて目にするその部屋は、何もかもが輝いて見えた。しかし贅を尽くした王の間に、今はただ、三人きりしか人はいない。玉座に腰掛け感情を感じさせない笑みを浮かべるアドラティオ四世。扉に手をかけたまま、息を呑み凍り付くアルト。そして三人目は、――手に抜き身の剣を握りしめ、王に対峙するカノンだ。
「カノン! ……何のつもりだ、剣を下ろせ!」
 唸るようにそう言っても、カノンが従う様子はない。しかし彼は腕の震えを隠しもせずに、真っ青な顔で呟いた。
「どうして来たんだ、アーエール」
 ああ、この男は――。己の持つ刃で、人を傷つけたことがないのに違いない。カランド山脈でのことを思い出しながら、アルトは二人へ歩み寄る。
 「来るな!」とカノンが一声叫んだ。アルトは黙って足を止め、しかしもう一度、「剣を下ろせ」と明瞭な声で言い渡す。するとカノンはようやくアルトへ視線を向けて、震える声でこう言った。
「来るな、これは天罰なんだ――。アーエール。お前だって何も知らぬまま、ここへきたわけじゃないだろう。お前がこの男に運命を狂わされたのと同じに、俺や俺の母だって、こいつのせいでどれだけ苦労をしたかわからない。だから俺が殺すんだ。こいつが王である内に、ただの男に戻る前に! こいつには、罰が下って当然なんだから!」
 言ってカノンが剣を鳴らし、王に向かって威嚇する。しかしこの王はと言えば、狼狽する素振りもなくただそこに居た。心の読めぬ笑みを浮かべたまま、一度だけ穏やかに、深く静かに目を瞑る。
「成る程。アーエールを恨むのではなく、自分の同士と捉えたか」
 王がぽつりとそう言った。聞いたカノンの腕はぴくりと動き、戸惑いに震えを隠せずにいる。
「俺がどう思おうが、お前に関係ないだろう」
「ああ。……だが好都合ではある。その男を殺されては困るのだ」
「あいつが、狭間の力を持っているから? お前自身は、その力に魅了されたばかりにここで死んでいくのに?」
 嘲るようなその声が、やけに哀れに部屋へ響いた。それでもアドラティオ四世は泰然として、眉の端すら動かさない。
「それもある。だがそれ以前に――。あれは、戦友からの預かりものだからな」
 王の頬が穏やかな笑みを型作る一方で、カノンがさっと気色ばむ。「やめろ」とアルトは叫んでいた。しかし届いたはずのその声に、彼が耳を貸す様子はない。
「俺や母さんをあんな目にあわせておきながら、よくもいけしゃあしゃあと……!」
 カノンが奥歯を噛みしめる音が、アルトの耳にまで聞こえてくるようだった。カノンのがなり立てる声。同時にアルトは渾身の力を振りしぼり、地を蹴り、玉座へ駆け寄った。
「やめろ!」
 両手でカノンの腕を掴み、王の首にあてられた剣を打ち落とす。「なぜ」と苛立たしげに言うカノンの声が、アルトの耳にも明瞭に響いた。それから続けて、「お前にとっても、母親の敵同然だろう」と。
 何故だろう。自分は何故こんなにも必死になって、この王を救おうとしているのだろう。考えて、アルトは一瞬目を伏せた。母の敵も同然だろうと、目の前の男はそう言った。そうかもしれない。王の関与がなければ、モノディア妃も、――デュオだって、死なずに済んでいたかもしれない。アルトをマラキアへ閉じ込めたのも、平穏な日常を奪ったのも、全てはこの王であった。それなのに。
(まだ、聞きださなきゃならないことがあるから?)
 だから殺させまいとしているのだろうかと、そう自問する。しかしその問いへ、アルトは自ら首を横に振った。
(違う)
 違う。俺は、ただ――。
「お前と王の間に何があったのか、本当のところを俺は知らない! けど、見過ごせるわけがないだろう? 共に過ごした時間は短くても、そして真実はどうであっても、俺はこの人のことを」
 その時ふと、アドラティオ四世と目があった。冷え冷えとした冷たい青の眼。アルトのことを避け続けた、強固な意志を孕んだ目――。しかし続いたアルトの言葉に、その双眸が一瞬揺らいだのを、その時アルトは確かに見た。
「俺はこの王をこそ、父親だと思って生きてきたんだから!」

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