吟詠旅譚
風の謡 第四章 // 存在しない王子
062 : The Overture -Reprise-
駆け抜ける。
足がしなり、大地を蹴った。既にルシェルの町を抜け、見知らぬ森に入っている。それでもアルトには、自分がどこへ向かうべきか、手にとるようにわかっていた。
体を覆い隠すように巻き付けたマントは、邪魔だったので脱ぎ捨てた。枝葉を避けながら走っていると、髪紐が緩んできたので、それも剥ぎ取るようにして腕に巻いた。サイメイからもらった赤い髪紐は、何故だか無くしてはならない物だと思えた。
飛ぶように駆けた。どんなに走っても、不思議と息はあがらない。
――俺は今まで、既に二度死ぬつもりでいた。
デュオははっきりとした容赦のない口調で、アルトに向かってそう言った。そうして一度目はモノディアに、二度目はアルトに生かされたのだ、とも。
マラキアで王都軍を前にしたときのことは、アルトの記憶にも新しい。「謀反の首謀者は、死罪だ」アルトがそう牽制しても、デュオは顔色一つ変えなかった。むしろ冤罪を受け入れようとさえした彼が頑なになったのは、その後だ。
――父上に、おまえを殺させないでくれ!
あの時アルトはそう言った。思い出せばズキズキと、音を立てて心が痛む。
――それならどうする、アーエール。
マラキアの城壁の上で、デュオはアルトにそう問うた。その言葉をこそ、もっと早くに思い出すべきだったのに。
(デュオはあの時、既に答を得ていたんだ。俺のことを愛称じゃなく、この国から与えられた名で呼んだ。俺に自分の過去を押しつけようなんて、してはいなかったんだ。……それなのに、俺は甘えてばっかりで)
待ってくれ。行かないでくれ! 心の声が風に響く。このままでは済ませない。そう訴えかける強い衝動があった。言いたいことがいくらもある。あんな紙切れ一枚で、あんな短い一言で、別れを認めることなどできるものか。
駆け抜ける。なんとしてでも、デュオに追いつかなければならなかった。そうして首尾よく追いついたなら――。
ふと見れば、足元の緑に蒲公英の花の黄色が混ざっている。春らしい、明るく前向きな色だ。けれど視界に入ったものに、アルトは表情を曇らせた。
明るい黄色に時たま、血の赤が滲んでいる。
「――近い」
アルト自身が呟いたのか、精霊達が囁いたのか、確かめる気は起こらなかった。どちらにしても、同じ事だと思えたからだ。
細い木々の間を抜け、草むらへと分け入っていく。そうしていると、まるで、風にでもなったかのような心持ちがした。
どんな場所もすり抜ける。
地面を蹴ってただ進む。
望む場所へ、向かうべき場所へ、ただ、ただ、一心不乱に。
しかしその風の行く先は、不意に何かに遮られた。
「っ……!」
縄のようなものに足をすくわれて、アルトは前のめりに転倒した。罠だ。獲物の到着を知らせる乾いた音が、森の中へ涼やかに響いていく。咄嗟に頭をかばった腕が、あちこち木の根の浮き出した地面へ擦れて傷を作った。
森の繁る青葉闇が、アルトの世界を明暗に分けている。鳥が軽やかな鳴き声を残し去って行く一方で、好奇心の強い精霊達がアルトの周囲へよってきていた。しかしその中に、アルトを助け起こそうと伸べられた手などはない。
――お前はお前の道を進め。
(スクートゥムへ旅することも、デュオから話を聞くことも、俺が決めたんだ。俺が選んだ道だったんだ)
いつも誰かが助けてくれた。だから、そうして守られることが当たり前だと錯覚していた。
なんて図々しい思い違いをしていたのだろう。そう思うと、気付かぬうちに苦笑が浮かぶ。けれどその事に気付いてしまった以上、いつまでも身勝手な幻想の中でのうのうとしているわけにはいかなかった。
誰の助けを待つでもない。八つ当たりなんて以ての外だ。
自ら選んだ道には、自分自身で責任を取らなくては。
擦りむいた肘を庇いながら、歯を食いしばって頭を持ち上げる。首を回して顔を向けると、足首にからみついた忌々しい罠が見て取れた。獣を狩るために設けられたものかと思ったが、何やらまだ新しい。それも狩りを目的に作られたにしては、仕掛ける位置が高すぎるように思われた。
ならば一体どこの誰が、何のために拵えたのか。
剥ぎ取ろうと手を伸ばしてみて、しかしアルトは息を呑む。茂みの陰から、不意に飛び出してくる人影があった。
体をひねり、腰に帯びた剣へと手を伸ばす。上体を起こしながらがむしゃらに刃を引き抜くと、金属同士がかち合う重い音がした。渾身の力を込めて腕を張ってみるものの、相手の力はそれを優に上回る。
(圧し負ける……!)
しかしアルトが力負けするよりも一瞬早く、あっと短い声がした。アルトのものではない。アルトを押さえつけるように剣を向け、目を見開いた男の声だ。
「――デュオ!」
意図せぬうちに、呼びかける声が弾んでいた。相手は驚いたというより狼狽した様子で剣を置き、「どうして」と短く問うてくる。切りかかってきた剣の威力は手負いとは思えぬ程であったが、目許はすっかり落ち窪んで、今朝よりも容態が悪化しているのは明白だ。アルトはこれ以上ないほどの親愛の情を笑みに浮かべ、それから、右の拳を握り締めた。
骨を打つ、鈍い音がする。
「どうしてって、あんたが戻ってこいって言ったんだろう」
答える声は穏やかだった。デュオが殴られた頬を押さえるのを見て、アルトも殴った拳をほどく。思った以上に痛かった。殴った方と、殴られた方、一体どちらが痛いのだろうと悠長な考えが脳裏を過ぎる一方で、アルトは不意に、項垂れた。
そんなに拳が痛むのかと、自分に聞いてみたかった。そう問わずにはいられないほど、かっと目頭が熱くなったのだ。
「あんたが言ったんだ」
短く呟く。言いたいことは山程あったはずなのに、言葉が上手く、続かない。しかししばらくそうしていると、沈黙に耐えきれなかったのだろうデュオが、ぽつりとこぼす。
「悪かった」
アルトは顔を上げなかった。
「なんでデュオが謝るんだ。なかなか戻ろうとしなかった、俺が悪いのに」
「……。戸惑わせるようなことを言った」
「それは、俺が尋ねたからだ。あんたが謝る必要はない」
二度も即座に切り返すと、当惑したようにデュオも言葉を断った。それから呆れたように、「言ってることが無茶苦茶だ」と笑ってみせる。
「なら俺は、どうして殴られにゃあならなかったんだ」
苦笑する顔は土気色で、先程一瞬見せた覇気など、既にどこにも見当たらない。
目の前にいるこの男が、何故だか急に、小さく見えた。
「……こっちだ。気をつけて、すぐ上に太い枝がある」
暗闇の中、押し殺した声でアルトが言った。
深い森の中である。足がつきにくいだろうと思ってのことだったが、ここには獣道といえるほどの場所もない。好き放題に伸びた枝葉で傷を作りながら、アルトは何度も振り返る。
「頑張れ。もう少しの筈だから」
「ばかやろう、俺のことなんかより、自分のことを心配しろ」
アルトの後へ続くもう一つの影が、低い声でそう唸った。アルトはその威勢の良さに苦笑しながら、手負いの連れが少しでも歩きやすいようにと、辺りの茂みを踏み固めながら歩く。
アルトとデュオの二人は今、ルシェルの町からカランド山脈の西側に位置する、リャダという町に向かって歩みを進めていた。
首都スクートゥムからは少し遠ざかるが、これといった特産品もなく、旅人が訪れることも滅多にないという小さな町だ。他の場所に比べれば、王都軍やサンバールの私兵隊が目を光らせている可能性も低かろう。クロトゥラやラフラウトに連絡を取ることが出来ないのは痛手だが、アルトだけすぐにルシェルへとって返せば、即位式にはなんとか間に合うはずだ。
「俺なら、大丈夫」
そう言って、アルトは手元のコンパスへ視線を落とす。マラキアから長く使っていたものはルシェルに置いてきてしまったが、旅立ちの際にリフラから渡されたあの袋が役立った。
方角を確認して顔を上げる。デュオが言葉とは裏腹に頼もしそうな顔をして、こちらを見ているのに気がついた。
「少し前まで宮殿から出たこともなかった奴が、よく言ったもんだ」
弓のように細い月が出ていた。雲はない。夜空には小さな星々が、なんの規則性もなくそれぞれに輝いている。
突然前方の茂みが揺れて、アルトは小さく身震いした。なんということはない。鳥が飛び立っただけの話だということに気づいてからは、両手の拳を握りしめ、再び歩き始める。
胸につけなおしてあったペンダントが、軽くはねる。落としては大変だと考えて、アルトはそれを、服の内側へとしまった。
「アルト、腹は減らないか」
何気なく呼ばれたその名を聞くと、ほんの少し、頬が綻ぶ。
「大丈夫。でも何か食べたいなら、探してくる」
「いや、いい。お前が平気なら」
「怪我、まだ痛むか?」
「たいしたことはないさ。怪我をしていようが、箱入り育ちのお前さんよりは歩けるぜ」
しっかりとした声だ。だが平常の彼を知っているアルトには、その声の裏側に隠された疲労がうかがい知れた。
急がなければ。少しでもはやく、安全な所へ。清潔な場所で手当を。
アルトの心は急いていた。この気丈な連れが弱みを見せまいとする度に、その思いは募っていく。
だから唐突に聞こえた穏やかな声に、アルトは思わず瞬きした。
「アルト。町に着いたら、頼みがあるんだ」
振り返ればそこには、朗らかに笑むデュオの瞳がある。それはやけに晴れやかな、静けさを湛えた笑みだった。
夜風が二人の合間を過ぎる。アルトの腕に、鳥肌がたった。
「あんたが俺に頼みなんて、珍しい。今じゃ駄目なのか?」
恐る恐る答える声が、何故だか少し、掠れている。
「駄目だ。今は逃げ延びることだけ考えろ」
「わかってる」
そう言ってデュオに聞こえるよう、アルトは笑った。無理に笑った。昨日、馬車の中でエイミ達とそうしたように、マラキアで平穏に暮らしていた頃のように、明るく笑ったつもりだった。
「大丈夫さ。俺にはあんたが、あんたには俺がいる」
それは自分に言い聞かせる、呪文のようなものだった。
「大丈夫」
アルトはもう一度、呟いた。
アルトの視界に不穏な灯りが過ぎったのは、それから幾時も経たないうちのことだ。
森を抜けるか抜けないかといった位置であった。リャダの町までも、既にそう遠くはなかったに違いない。しかしアルトはそこへきて、どうか聞かずに済めばと願っていた声を、聞いた。
「不振な人影を見かけたら、直ちに報告するように!」
軍人らしい言葉の後には、統率された兵士達の返答がある。二人は手にしていた松明を地面に突き差し、灯りを消して、そっと木陰へ身を潜めた。
木々の隙間から伺うに、どうやらサンバールの私兵隊のようである。数は十人程。カランド山脈に配置されていた人数よりは少なく見えるが、各々手に武器を取り、索敵してまわっている。今はまだアルト達のことに気付いていないようだが、このまま留まっていたのでは、見つかるのも時間の問題だ。
(兵士の目をかいくぐる方法さえあれば……)
考えを巡らせてはみるが、そう都合の良い方法など、すぐに見つかるわけはない。アルトが歯がゆさに視線を伏した、その時だ。
足元から聞こえた乾いた音に、アルトは咄嗟に視線をやった。見れば先程地面に突き立てた松明が、倒れて地面に転がっている。
「おい、そこに誰かいるのか」
次いで聞こえる兵士の声。複数の足音が、確実にこちらへ向かってくる。
アルトは奥歯を噛みしめて、剣の柄へと手を伸ばす。できるなら、こんなところで騒ぎなど起こしたくはなかった。ここで兵士と戦えば、リャダの町すら安全な場所ではなくなるのだから。
(それに)
すぐ隣に身を隠し、肩で息をする友人を見る。ただでさえ無理をしているのに、戦うなんて論外だ。しかし動くなと言ってみたところで、彼がアルトの言葉に耳を傾けるわけがないことも、十分すぎる程に承知している。
「さて……。もう一暴れ、必要になったみたいだな」
囁くようにそう呟いたデュオの表情は、不敵な様子に笑んでいた。