吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

061 : Fragment -3-

 驚くあまり、声が若干裏返ってしまった。長く走ってきたせいで、ただでさえ息が上がっている。アルトが首もとにかいた汗を手の甲で拭っていると、宿の裏口近くに座り込んでいた少女は嬉しそうに笑った。
 辺りに人の気配がない事を確認する。よりにもよってサンバールの私兵隊が町を闊歩している中、アルトと話している所を見咎められでもすれば都合が悪い。しかし焦るアルトの心中など推し量る様子もなく、エイミは嬉しそうに腕を広げて、がばりとアルトにしがみついた。
「どうして、こんな所に……」
 これ以上の接触は持たずにいた方が、彼ら父子を巻き込まずにいられると思ったのに。恐る恐る尋ねると、エイミは瞳をきらきらさせながらアルトを見上げ、こんな事を言った。
「エイミもよくわからないんだけど、今朝お父さんがね、アルトに会わなきゃって突然言い出したの。それでエイミ達、あちこちの宿を探し回ったのよ」
 エイミが言い終えるか否かのところで、ばたんと乱暴に扉を開く音がする。見ればエイミの父レイジスが、肩で息をしながら宿から出てきたところであった。
 アルトを見るなり目を見開いて、ぱくぱくと口を動かしている。何やら話し出そうとしているのに、言葉がそれに伴っていないのだ。その様子にただならぬものを見て、アルトはひとまずエイミの手を取った。
「レイジスさん、中へ」
 短く声をかけると、レイジスもはっとした顔になり、アルトの後へついて来る。
 裏口から宿へと身を滑り込ませ、はぎ取るようにフードを脱ぐ。振り返りざまに視線で事を問い掛けると、レイジスは一度言葉を飲み込んでから、恐る恐る「失礼ですが」と話を切り出した。予想外に堅い口調へアルトが眉を潜めると、レイジスは恐縮するように視線を落とす。それから、囁くような声でこう言った。
「あの、まさかと思って、昨日お会いした時には露ほども考えなかったのですが……。もしや貴殿は、アーエール殿下ではありませんか? モノディア様のご子息の、あの、この国の第三王子の――」
 アルトの肩が、びくりと震える。エイミが不思議そうに首を傾げるのが、視界の片隅に見えていた。
 レイジスの声は問いながらも、すでに確信を得たふうである。白を切っても無駄であろう。しかし今になって何故、そんな事を問いに来たのか。
 アルトと他の王子との対立を想定した上で、町にサンバールの兵が来ている事を知らせようとしたのだろうか。だがそんな事は既に町中の人間が知っている。わざわざ危険を冒して、こんなところまで訪ねてはこないだろう。それとも昨晩の恩を売って、報償を得ようという算段か。しかしその考えは、「まさか」と自ら笑い飛ばした。
 どうやら今初めて話を聞いたらしいエイミが、ようやく事を理解した様子で小さな口に手をあてる。レイジスはごくりと固唾を飲んで、アルトの答えを待っていた。
 この優しい父子が危険を冒した理由は、恐らく、彼ら自身の為ではないのだろう。
「――外にいる兄の兵は、俺達にかかった追っ手です。恐らく彼らは反逆者の討伐と銘打っているでしょうが、俺自身のことも含めて、彼らにこちらの所在を知られるわけにはいきません。あなた方にも、俺達の事を口外されては困る。……これで、状況を理解してもらえますか」
 声を落として、静かに問う。その中に潜んだ鋭い気配に気付いたのだろう。レイジスは自ら切り出した話だというのに明らかに狼狽の色を見せ、慌てて首を縦に振った。エイミの頭に手を置いて、娘にもむりやり頷かせる。
「も、勿論、殿下とここでお会いした事は誰にも申しません! その、ここへ来たのは少しだけ、お伝えしたい事があったからなんです。やっとこの宿に行き当たったのはいいものの、既にどなたもいらっしゃらない様子だったので焦りましたが……。いや、でも、こうしてお会いできたのは幸いでした」
 しどろもどろながらもそう話したレイジスの言葉を聞いて、アルトは表情を曇らせた。嫌な予感が、不意に脳裏を過ぎったのだ。
「誰も、いない……?」
 呟いて、即座に身を翻す。慌てた様子で後を追ってくるレイジスには見向きもせずに、アルトは急ぎ階段を駆け上った。一体何事かと、宿の主人が声をかけてくる。振り返っている余裕はなかった。
 ばん、と扉を強く開けると、空っぽの部屋が視界に入る。先程までデュオが腰掛けていた硬いベッドに人の姿はなく、部屋は静まりかえっていた。
「あの怪我人なら、少し前に出て行ったよ」
 背後から聞こえてきた冷静な声に、アルトは声なく振り返る。見れば例の老獪そうな宿の主人が、年のせいか痛むのだろう膝をさすりながら、階段を登ってきている。
「出て行った、って」
「このままでいると、迷惑をかけるからと言ってな。お前さん達が戻ってきたらよろしく頼むと言って、これを」
 宿の主人が小さな紙切れを差し出したのを見て、アルトは飛びつくように手を伸ばした。質の悪い紙はざらついて、少しでも雑に扱えば、すぐに破れてしまいそうだ。
『ヴィントシュティレのベルに会え』
 紙には一言、簡潔にそう綴ってあった。焦って書いたのだろうか、乱れてはいるが、間違いなくデュオの字だ。
 そうしてその言葉の下に小さく、謝罪の言葉が書き添えてある。
「惑わすようなことを言って悪かった。……お前はお前の、道を進め……」
 読み上げて、アルトは思わず身震いする。この手紙は一体なんだ? 詰め寄って、デュオにそう問うてやりたかった。
(これじゃあまるで、――別れの手紙じゃないか)
 ぐしゃりと紙を握りしめる。アルトはそれを乱暴にポケットへしまいこむと、部屋の中へと駆けこんだ。
 デュオも恐らく、町へ侵攻してきたサンバールの私兵隊を見たのだろう。それで、このまま宿にいたのでは見つかるのも時間の問題だと考えた。今のデュオは世間的に見れば大罪人なのだから、兵に見つかればどうなるか、結果は目に見えている。だから、アルトを待つのを諦めたのだ。
(だけどあの怪我のまま一人で逃げたところで、無事でいられるわけがない)
 デュオも十分承知していたはずだ。しかし彼は、この場を去った。
 両開きの窓を開け放ち、躊躇もせずに身を乗り出す。すると一陣の風が、アルトの鼻先を掠めていった。
――このまま病人のように横たわって、その時を待つのか。
――それとも最後まで、みっともなく足掻いてみせるのか。
 聞こえるはずのない、声が聞こえる。どうやらアルトの想いを受けて、精霊達がこの部屋にいた人間の心を語っているようだと気付くまでに、そう時間はかからない。
――いずれにせよ、行き着く先が一つなら。
 はっと小さく息を呑む。やめてくれ、待ってくれ、そう心の中で叫んでも、答が返ってくるはずのないことはわかっていた。
「探してくれ」
 呟く声が震えていた。しかしそれに応えるように、風がひゅるりと音をたてる。
 レイジス達父子や、宿の主人がこちらを見ている。けれどそんなことを気にしてはいられない。事態は一刻を争うのだ。
 一度大きく息を吸う。そうしてアルトは、外を飛び交う精霊達に呼びかけた。
「探してくれ! まだ遠くへは行っていない筈だ――。デュオを探せ! そして、そこへ俺を導いてくれ!」
 ごうっと強い音をたてて、風が部屋へと流れ込む。立て付けの悪い窓は今にも外れそうな音をたてて揺れ、燃え尽きた蝋燭の乗った机は床へと転がった。
 強風の中に耳を澄ます。
 微かに捉えたものがあった。
 背後から聞こえた小さな悲鳴に、アルトはくるりと振り返る。するとぱたりと風が止んだ。
 目を丸くする三人を前に、アルトは部屋をまず見回した。それから落ち着き払った口調で、一言。
「俺達の荷は、どこにある?」
 問われた宿の主人は一瞬遅れて、無言で階下を指さした。恐らくは手紙と共にデュオから預けられて、そのまま我がものとしていたのだろう。アルトは表情を崩さず頷くと、「部屋の修理代と口止め料には、十分な額が入っているはずだから」とだけ言って、男の脇を通り過ぎる。
 今度はその後ろに佇んでいた、レイジス達父子と目があった。瞳を爛々と輝かせるエイミとは対照的に、レイジスは顔面蒼白で、アルトのことを見つめている。
 怖がらせてしまったのも当然だろうと、苦笑する。しかし同じように脇を抜けようとして、アルトは思わず足を止めた。レイジスの呟いた言葉が、アルトの耳を貫いたからだ。
「これが、モノディア様のお血筋……」
 意表を突かれて振り返る。すると相手はがちがちと震える顎を押さえながら、必死になってこんな事を言った。
「殿下。お伝えしたかったのは、その事なんです。私は昔、モノディア様がスクートゥムにいらした頃、不思議な力で難を救っていただいたことがありました。モノディア様はその時、金の風をまとっておられた」
「! それ、いつのことですか」
 アルトが問うと、レイジスは恐る恐る、ゆるゆると視線をアルトに向ける。それから幾分落ち着いた様子で、こう続けた。
「殿下がお生まれになる以前のことです。モノディア様が皇王陛下のお后として、城に召し抱えられる数日前のことでした。……私もその頃、徴兵を受けて首都にいたんです。といっても剣の腕はからっきしで、仕事は町の見回り程度のことでしたが……」
 一度言葉を切ったレイジスの喉が、ごくりと鳴った。その音が、静まりかえった廊下へやけに響く。
「あの頃、首都のすぐ東にあるリーリスという町で子供の誘拐騒ぎがあって――、私は偶然、その犯人の足取りを掴みました。けれどヘマをして、殺されかけて、……それを助けてくださったのが、モノディア様でした。殿下のことに気付いたのも、その時にモノディア様のお顔を拝見していたからです」
 風がまるでせっつくように、アルトの髪を撫でていく。実際、アルトの心は急いていた。母やこの力のことは、どんな些細な話でも耳に入れておきたいのが本心だ。しかしこうしている間にも、デュオの身に何が起こるかわからない。
 そんなアルトの迷いを読み取ったのだろうか。レイジスは再び言葉を切ると、しかしこれだけは伝えなくてはという強い意志を持った声で、続けた。
「どうか、いつでも声をおかけください。私の知りうる限り、どんなことでもお話しします。どんな協力だってします。モノディア様にいただいたご恩を、殿下にお返ししたいのです」
 必死でたどたどしい、しかし誠実な言葉に、アルトは思わず微笑んだ。そうして一言、「いつか必ず」と言葉を返す。
「あなたには既に、助けていただいた恩があります。だけどどうか次に会うとき、詳しい話を聞かせてください。母のことを、少しでも多く知りたいんです」
 フードをかぶり直し、腰に帯びた剣を確認する。そうして視線を下ろすと、ふと、エイミと視線があった。彼女は怖がる様子も見せず、アルトが何か言うより先に、こう言葉を滑り込ませる。
「ねえ、アルトは王子様だったのね? でもあたし、そんなおなまえの王子様はしらないわ。もしかして本当は、アルトはアルトというおなまえじゃないの?」
 「エイミ」と、窘めるようにレイジスが口を挟む。アルトはそれを手で制して、膝を折り、エイミの頭をふわりと撫でた。
「確かに、それは本名じゃないけど……。エイミには、今まで通りに呼んでほしいな」
 エイミがぱちくりと瞬きして、アルトの顔を覗き込む。その表情がいかにも愛くるしくて、アルトはその一瞬だけ、剣の柄から手を放した。
「――俺の大切な人達は、大概、そっちの名前を使うから」

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