吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

063 : Sandy Melody

「ははうえ、ははうえ!」
 扉の前に立ち、高らかにそう呼びかける。中からの返答を待てるような気分ではなかった。それ程、伝えたいことがあったのだ。
 胸の位置にある扉のノブに手をかけ、音を立てて開け放つ。するとテラスへと続くガラス戸の向こうから、暖かで豊かな大地の香りがした。
 広い部屋の中に、求めた人の姿はない。しかし先のテラスには、少し顔を俯かせ、椅子に腰掛ける影がある。
「ははうえ!」
 意気揚々と声をかけると、その人影が振り向いた。鏡を見るたび目にするのと同じ、細い金の髪が風に跳ねる。余程、何かに没頭していたのだろうか。いささか虚を突かれたように瞬きして、しかしそれでも彼女は、――生前のモノディア妃は、幼いアルトに微笑んだ。
「そんなに慌てて、どうしたの?」
 手にした本をぱたんと閉じて、椅子からふわりと立ち上がる。アルトは駆け寄り、母のドレスへ顔をうずめた。
 給仕の女が微笑ましげに笑いながら、開きっぱなしになった戸を閉じに行く。また別の女は、アルトのためのグラスへ水を注いでくれていた。
 テラスで読み物をしていたらしい母のドレスからは、暖かい太陽の香りがする。
「ははうえ。今からお話しすることは、本当は庭師のチュラと私だけの秘密なんです。だけどははうえにもお話ししておきたくて、それで、ここまで走ってきてしまいました」
 息を弾ませてそう話すと、モノディアの手がアルトの頬に優しく触れた。それから彼女は膝を折り、アルトに視線を合わせるようにして、こんな事を言う。
「それは楽しみね。私の可愛いアーエールは、どんな秘密を作っていたのかしら」
「ははうえ! ……もう『かわいい』は嫌だって、以前にもお話ししたのに」
 頬を膨らましながら言ってみたところで、この母には、怯む素振りのかけらもない。
「だけど私にとっては、いつまで経っても可愛い息子なんだもの」
 頬へのキスに面映ゆさを感じて、アルトはぷいと顔を背ける。テラスの縁へとまた駆けると、色付いた草木が眼下に広がっていた。
 ある、秋の日のことだ。
「ははうえ、あっちです!」
 身を乗り出して指さすと、「危ないわよ」と声をかけ、モノディアがその後ろに続いた。それがなんだか嬉しくて、アルトはちらりと振り返ると、満面の笑みを浮かべてみせる。
「風車塔のそばに、花壇を作ったんです。自分で種をまいてみたいと言ったら、チュラが手伝ってくれました。ちゃんとお水をあげて、手入れをすれば、春にはたくさん花が咲くそうです。ね、ここからも見えるでしょ?」
 隣に立つモノディアが、アルトに倣って身を乗り出す。ふわりと優しい香りがした。
「どこかしら?」
「ほら、あのレンガを積み上げた辺り。――あっ、でも、この事は本当に秘密なんです。特にナファンには、お話ししたらだめですよ。土いじりなんてとんでもない、ってチュラが叱られてしまうから」
 「確かにそうね」と笑いながら、モノディアが髪をかき上げる。
 幸せそうな笑い声。それなのに何故だかその仕草が物悲しく見えて、アルトは目をしばたいた。
「だけどこれなら、毎日、花を育てるあなたを見ていられるわ」
 囁く声が掠れていた。
 アルトはテラスの柵を、ぎゅっと強く握りしめる。本当は、キスされた時に気付いていたのだ。母の目が、赤く腫れていることに。
 ちらりと視線を向けると、先程母が閉じた本に見慣れぬ封筒が挟まっていた。誰かから手紙でもあったのだろうか。そしてその隣には、少し乱れたハンカチが置かれている。
 直に触れたわけでもないのに、アルトには、そのハンカチが涙に湿っているのだろうとすぐにわかった。
「ははうえ」
 呼びかける。答える母は笑んでいる。
「私がそだてた花は、みんな、みんな、ははうえに差し上げます」
「あら、急にどうしたの? 折角育てるのだから、あなたが愛でてあげたらいいのに」
 母が好きだった。
 だからこそ、作られたその笑顔が辛い。
「みんな差し上げます。赤い花も、黄色い花も、どんな花でも全部。だから――、どうか泣かないで」
 母の目を真っ直ぐに見上げ、明瞭な口調でそう話す。するとモノディアははっと瞬きして、花壇からアルトへ注意を戻した。口元が少し震えている。しかし彼女は唇をきゅっとむすぶと、いつもの顔に戻って言った。
「……。あなたは、あなた自身のために花を育てて良いのよ」
 母がどうして一人で泣くのか、この頃のアルトには知るよしもないことだった。母の生い立ちが平民であることは聞いていたし、自らが兄弟の中でももっとも首都から遠いマラキアに住まわされている事について、貴族達が皮肉を込めて話す様も目の当たりにしていた。けれどそれらの意味を本当に理解したのは、この秋よりも後のことだ。
 モノディアの言葉に、アルトは首を横に振る。
「ははうえが幸せになってくれたら、それが、一番嬉しいから」
 いつだって儚げで、それでも微笑みを絶やさない。母はそういうひとだった。
 冬を経て、春になった頃、アルトの花壇は色とりどりの花で溢れていた。しかしアルトがその事に気付いたのは、花の時期も移る初夏の事だ。その頃のアルトは身に降りかかった環境の変化のせいで、正直、種を蒔いたことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。それでも花が咲いたのは、チュラが世話してくれたおかげだろう。
 花を一輪手折ってみる。しかしその花を贈りたかった相手は、既にこの世にいなかった。
 誰も面と向かって教えてはくれなかったが、母は自ら自分の命を絶ったのだと、アルトと花壇を眺めた、あのテラスから身を投げたのだと、アルトは既に知っている。
(幸せでいてほしかったのに)
 花を眺めていると、何故だかやけに、心が渇いた。
(私が、守ってあげなきゃいけなかったのに――)
 
「まともにやりあったんじゃ勝ち目はねえ。障害になる奴だけさくっと倒して、なるべく顔を見られないうちに撒くぞ」
 声を潜めて言うデュオに、アルトは思わず苦笑した。「無茶言うよ」と呟けば、「おまえだけルシェルへ戻るか?」と軽口めいた口調で返される。
「馬鹿言うな。どんなに無茶な作戦でも、あんたに一人で行かれるよりはずっと良いさ」
 そうして話す間にも、兵士の足音は確実にこちらへ近づいている。アルトは腰に帯びていた剣を鞘ごと外すと、無言でデュオに押しつけた。
 カランド山脈で借りたきり、そのままになっていたデュオの剣だ。デュオはデュオでクロトゥラが山賊達からちゃっかりせしめた剣を持っていたのだが、やはり慣れた剣の方が良いだろう。しかしそう思ってしたことだったのに、デュオは首を横に振り、受け取ろうとはしなかった。
「いいから、持ってな」
 デュオが態勢を低くして、剣を片手に立ち上がる。
 それが、戦いの合図だった。
 すぐ隣まで近づいていた兵士の顎を下から柄で殴りつけると、一瞬の間をおいて、殴られた兵士が昏倒した。どさりと茂みに崩れる音。落とされた松明を地に立て、火を消すと、少し離れた場所から「どうした?」と問う声がある。
「行くぞ」
 頷き、そして走り出す。
 「不審人物だ、追え!」背後で怒鳴り声がした。虚を突かれた兵士達が、アルト達に遅れてついてくる。まずは相手の先手を取った。次の行動に移るため、アルトは慌ただしく走りながらも、耳だけはじっと澄ませておく。
 ふと、聖地ウラガーノでのことを思い出す。あの時アルトは目隠しをつけていたが、風が道を教えてくれた。ツキと初めて会った時もそうだ。アルトに真実を伝えたのは、その目ではなく音だった。
 空気を裂く鋭い響きに、本能的に剣を抜く。するとカランド山脈で見たのと同じ、鉄の飛礫、リッソが剣に弾かれぱらりと落ちた。
「ジェメンド――!」
 苦々しく吐き捨てる。見ればサンバールの私兵隊の制服を着た人間が、何人か見たことのある暗器を手にこちらを伺っている。同僚の武器に目を丸くしている兵がいることから察するに、恐らくはサンバールの私兵隊の中へ、ジェメンドが密かに紛れ込んでいたのだろう。
 何人いるかは知らないが、どう考えても分が悪い。あの武器で攻撃を仕掛けてきたということは、こちらの正体にも勘づかれている可能性が高いのだ。
 駆け寄ってきた男が三人、同時に剣を振りかぶる。アルトはそのうち一人の剣を受け流し、間合いを取ったが、二人に斬りかかられたデュオはふた振りの剣を受け止め、身動きがとれぬままでいる。
 ふと思いつくところがあって、アルトは上着のポケットへと手を入れた。
(まだ、残っていたはず……)
 剣を受け流された兵士か、あるいはジェメンドかが、再びこちらへ斬りかかってくる。しかしその時アルトの指先は、確かな感触を掴んでいた。
「デュオ、目を!」
 叫んで、手にしたそれを投げつける。その際、横薬へ導火線をすりつけるのも忘れない。
 次の瞬間、場に爆発音が轟いた。
 シロフォノから預かった、あの爆薬だ。アルトは舞い上がる土煙へ迷わず飛び込むと、無我夢中でデュオの手を引いた。相手の姿は見えなかったが、それがデュオである確信はあった。血の臭いを嫌う精霊達のことだ、爆音に驚いて飛び去ってしまうかもと思っていたが、彼らはアルトに味方していた。
 森へ飛び込み、ただ駆ける。自分たちまで爆発に巻き込まれないよう、少し遠目に火薬を投げたから、煙がおさまればすぐに追っ手が来るはずだ。
(今のうちに少しでも、距離を稼いでおかないと――)
 しかしその一方で、あまり走る速度は上げられないだろうことも事実である。
 濃い、血の臭いがする。
 こうなることはわかっていた。ルシェルの宿で手紙を受け取った時から、覚悟はしていたはずだった。
 覚悟を、していたはずだった。
 
「それで、毎日そうやって花を届けに来てるのか?」
 アルトは問われてただ頷いた。母が亡くなって二度目の春、マラキアの墓地でのことである。
 モノディアの遺体は、マラキア宮の一角に埋葬されていた。
 歴史も浅く、戦線からも遠ざかったマラキア宮での、初めての葬儀であった。それまでにもマラキアで命を落とした者がいないではなかったのだが、貴族にしろ、使用人にしろ、生を失った彼らは皆、自らの故郷へ還り、土となったからだ。
「母上のことも、母上の故郷へ帰して差し上げることはできませんか」
 スクートゥムの司祭に手紙を出したことがある。答は当然のように「不可」だった。
 だからマラキアの広い墓地に、墓標は今も一つきりだ。
「本当は母上が生きていらした間に、お見せしたかったけど。……こんな場所に一人でも、花があれば、少しは寂しさが和らぐと思うから」
 アルトが言うと、問うた相手は苦笑して、その大きな手でアルトの頭を強く撫でた。そのあまりに無骨な仕草に、虚を突かれたアルトはたたらを踏む。この男はいつもこうだ。馬番と王子の身分差など、歯牙にもかける様子がない。
 だがそれがアルトには、何故だかやけに心地よかった。
「モノディア様も、きっと喜んでる」
「……そうかな」
「そうさ。聞こえてくるような気がしないか?」
 きょとんとして、アルトは隣に佇む男を見上げた。足元を指さされて視線を移すと、蒲公英の花が咲いている。
 力強く、どこか儚げな小さな花。
 風に揺られて綿毛が飛ぶ。「お前さんの母上は、きっとこう言ってるのさ」そう言って、男がにやりと笑ってみせた。
「   」
 
 走る速度が落ちていく。辛そうな息づかいが耳に届く度、押しつぶされるような思いで胸がいっぱいになる。
「もう少し、……もう少しだから」
 自分自身でも何を口にしているのかわからないまま、ただ声をかけ続けた。そうしている間にも森の草木にひっかかれ、細かい切り傷が増えていく。
 それでも、敵からだいぶん距離をとれたことは事実だった。このまま逃げおおせればあるいはと、胸の内に期待が過ぎる。しかしその直後、デュオの手を引いていた腕が、何かに強く引っ張られた。息を切らしたデュオが、遂に膝をついたのだ。
 息を呑む。言葉が詰まって、出てこない。しかしそうしていると、不意にぽつりと、デュオが呟いた。
 芯のある、しっかりとした、穏やかな声で。
「――ありがとう」
 「え?」と小さく聞き返す。一体何を言われたのか、理解することが出来なかった。一方でデュオは肩で息をして、次の言葉を続けられないでいる。
 遠くから、蹄の音が聞こえていた。敵の馬だろうか。一瞬そうも思ったが、かぶりを振って顔を上げる。蹄の音から察するに、馬は一騎。それも先程剣を交えた場所から追ってきたにしては、向かってくる方角がどうにも妙だ。
「……こっちだ、早く!」
 叫ぶ。
 アルトには、こちらへ向かって駆けてくる友の顔が見えていた。
「クロトゥラ、――頼む、急いでくれ!」

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