吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

057 : Contrast -3-

 緊張に高鳴る鼓動の音が、耳の裏で派手に鳴り響いている。いまだ人気のない町は静まりかえっており、精霊達の囁きすらない今は、その音だけに全てを支配されているような気さえした。
「話がある。少しでいい、私に時間をくれないか」
 顔を隠すように俯きながら、アルトは一歩後退る。わけがわからないまま首を横に振ってはみたものの、相手は――ラフラウトは、手の力を緩めようとはしない。
(ああ、……そうだ、この人は既に、俺の顔を見ているんだから)
 今更俯いてみせたところで、何を隠せるわけでもないのだった。混乱しきった頭が、遅ればせながらそう判断する。
 そうして不意に、総毛立った。
(何をしてるんだ、俺は)
 兄王子に、自分の居場所を知られてしまった。重傷のデュオを宿において、ふらふら出歩いた結果がこれか。そう思うと、情けないより腹が立つ。
――アーエール殿下が紛れているぞ!
 カランド山脈で遭遇した第一王子サンバールの私兵隊は、そう言ってアルトを捕らえようとした。その時は、それも当然だろうと思ったものだ。ただでさえ折り合いの悪かった兄王子達が、泡銭を手にするかのように次期皇王の座におさまってしまったアルトを放っておくはずは、ないと思った。
 二人の兄達は、必ず旅の障害になるとわかっていた。だから出来うる限り、接触を避けねばならなかったのに。
 ぐっと奥歯を噛みしめる。しかし目の前から聞こえてきた苦笑の声に、アルトは思わず顔を上げた。
「……やはり、そう易々と頷いてはもらえないか」
 そう言って、気まずそうに眉根を寄せたのはラフラウトだ。自嘲めいた彼の苦笑に悪意のある様子はなく、アルトの腕を掴む手からも、少しばかり力が抜けた。
「私としたことが、焦って事を急いてしまった。お前の都合も考えず、すまなかったな。お前に会えたらなんとしてでも、話をしなくてはと思っていたものだから」
 強い力で掴まれていた腕は、緊張もあってか、じんと鈍く痺れている。
 肩より上で短く切り揃えられたラフラウトの髪が、さらりと揺れて風に跳ねた。小柄なアルトよりいくらもしっかりとした風采は頼もしく、森で再会したときと同じに、どこか気品を漂わせている。しかし今、彼の言葉に盗賊を捕らえたときのような覇気はなかった。
 ふと、五年前にマラキア宮で顔を合わせたときのことを思い出す。母モノディアの肖像画が飾られたあの離れの廊下で、アルトは偶然、この兄と出くわしたことがあった。
 夕暮れ時のことであった。斜陽に染まった廊下の片隅に、アルトは一人で蹲っていた。久方ぶりに再会した二人の兄や、その母親たちとの折り合いがうまくいかず、鬱々とした思いから逃れるためにそこにいたのだ。もっと幼い頃には、悲しいことがあると真っ先に自らの母の肖像画へと走り、泣きじゃくるのがアルトの習慣だった。だからその時も、ただ一人で気分を落ち着かせたくて、そこに蹲っていた。
 そこへラフラウトが、ふらりと唐突にやってきたのだ。彼がそこへ何をしに来たのかはわからない。しかし彼は廊下へ蹲ったアルトを見て、にやりと、さも楽しげに笑ったものだった。
 その笑みにはありありと、蔑みの色が浮かんでいたのに。
(俺は今、一体誰と話しているんだ?)
 妙な疑問が脳裏を過ぎった。
 陽が完全に姿を現すと、二人の足元に影が落ちた。黒々と伸びるそれを見ていると、鳴りやむ気配のない鼓動の音が、より迫ってくるかのようだ。
「あの」
 アルトが自分でも何を言おうとしているのかわからないまま呟くと、ラフラウトが微笑みかけてくる。どうやらそうすることで、敵意がないことを改めて示そうとしているらしい。アルトは気後れしながら視線を落とし、声になるかならないかというほど小さく、呟くようにこう言った。
「手を、放していただけますか」
「え? ――ああ、すまない!」
 やっとのことで言った言葉は、ラフラウトに届いたらしい。相手は言葉のわりに冷静な態度でアルトの腕から手を放し、しかし視線は逸らさずに、唐突にこんな事を言った。
「お前に、謝らなくてはと思っていた」
 聞いて、アルトは眉をひそめる。しかし事を問い返す前に、すぐ隣の店から戸を開ける大きな音が聞こえてきた。そろそろこの辺りの店も、仕事始めの時間なのだろう。アルトが警戒するようにその音を振り向いたのを見てか、ラフラウトは囁くようにこう言った。
「場所を移そう」
 聞いてアルトは固唾を呑んだ。この兄王子が何を意図しているのか、これっぽっちも理解ができなかったのだ。何かの罠なのだろうか。しかし相手にそんなことをする必要がないことは、アルトも十分に承知している。
(森で会った時に俺の正体に気付いたなら、こっちの手勢がどれだけ少ないか、むこうも既に承知のはず)
 ラフラウトが手振りでアルトを呼び、脇道へと小走りに駆けていく。取り残されたアルトはマントの端を握りしめて、その場にしばし立ち竦んだ。
 彼に続く必要など無い。頭ではそう理解している。これが罠にしろ、何か他の目論見であるにしろ、わざわざ何を考えているかもわからない相手に、付き合う道理はないだろう。
――お前と、たった一人の弟と話がしたくて、メレット宮からとって返してきたのだ。
 あの言葉は、真に再会を喜んでいるように聞こえた。けれどどこまで信じられるだろう。こうなった以上は一刻も早くクロトゥラと合流し、この町を発たなくては。
 そして、その前に。
――まだ話さなきゃならねえことがある。必ず、戻ってこいよ。
(宿で、デュオが待ってる)
 だがそうして出がけに聞いた言葉を思い出すと、心臓が引きつる音を立てながら、しぼんでいくような気にさえなった。
(帰らなきゃ)
 それなのに、体がちっとも動かない。ラフラウトはアルトがついてくると信じ切っているのか、それとも何か策でもあるのか、あえてこちらを振り返らないと決めたかのように、どんどん歩いていってしまう。逃げるなら、今だ。
 走れ、今すぐとって返せ。アルトの中の何かが呟いた。けれど心が否定する。
(でも、『帰る』って一体どこへ?)
――お前は俺の息子だ。少なくとも俺は、心の中でそう信じてた。
――俺の名は、アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア。そうだろう、デュオ? じゃなきゃ駄目なんだ。俺がアドラティオ四世の子じゃなきゃ、王位継承者じゃなきゃ、この旅も、この旅に命を預けてくれた人達の思いも、全て無駄になるんだから。
(……誰の、所へ?)
 アルトはふと乾いた笑みを浮かべると、「兄上」とはっきりした口調で呼びかけた。静まりかえった脇道に、声はかすかに反響する。
 いささか驚いた様子で、ラフラウトが振り返った。それを見るとアルトの足は、何故だか自然と動き出す。
「お話を、うかがいます」
 そうして踏み入れた脇道は、薄暗く夜露に湿っていた。
 
「この辺りで話そうか」
 そう言ってラフラウトが足を止めたのは、町の外れの草原だった。昼間は放牧に使われることもある場所なのか、足元の草は短く整い歩きやすい。しかしそんなところにいてなお優雅な立ち居振る舞いでいるラフラウトと、その田舎然とした背景とがどうにも食い違っているように見えて、アルトはかすかに微笑んだ。
「こんな時間だ。店も開いていないからな。だがここなら見通しもいいし、お前も安心して話せるだろう?」
 アルトが微笑んだのに気付いてか、ラフラウトも口調を和らげた。しかしすぐに表情を曇らせて、こんな事を言う。
「ここでなら、心ない者の刃がちらついてもすぐに気付ける」
 言われてアルトは、自らの頬に手をやった。恐らくラフラウトは、アルトの顔の傷を見てそう言ったのだろう。
 彼は事の次第を、一体どこまで関知しているのだろうか。ソーリヌイ侯のこと、ジェメンドのこと、そして第一王子サンバールのこと。
(さっきの、謝罪は、……)
 気付かぬうちに、小さな溜息が漏れた。すると、それを促しと取ったのだろうか。ラフラウトは調子を整えるように軽く咳払いをして、こう話す。
「昨年の夏に私の母、パンデレッタが亡くなった」
 それはアルトも知っていた。マラキアから出ることを許されなかった自身は葬儀に参列することすらできなかったが、手紙を書いて代理の使者を遣わしたことは記憶に新しい。確か心臓の病であった。一年近く煩って、ある暑い日、息を引き取ったのだと聞いている。
 知らせを聞いた時、人とはわからないものだとアルトは思った。最後に見た故妃の冷たい眼差しは、何もかもを突き放すように凜として、病すら寄せ付けないような強さに満ちていたというのに。
「最後にお目にかかったのは五年も前のことでしたが、お美しい方だったと記憶しています。もうお会いすることも出来ないのだと思うと、残念です」
 言葉を選んだつもりだったが、決まり文句になってしまった。しかしラフラウトは困ったように笑いながら、それでも「ありがとう」と返す。
「私の母はシナヴリアの王女として生まれたこともあってか、大変に血筋を重んじられる方で――、おまえやモノディア様には、随分辛くあたっていただろう。まずはその事を、亡き母に代わって詫びたい」
 「すまない」と、ラフラウトが真っ直ぐにアルトの目を見据え、言った。まるで予期していなかった謝罪の言葉にアルトは瞬きしたが、咄嗟に言葉を返すことは出来なかった。しかしラフラウトにとって、アルトのその反応は意外なものではなかったらしい。彼は小さく息をつくと、また続ける。
「勿論私も同罪だ。長くお前をないがしろにしたこと、詫びなければと思っている。だが幸いなことに、私はまだ生きているからな。お前がそれを望んでくれるなら、言葉ではなくその働きで償いたいと思っている。――もし私に手伝えることがあれば、何でも言ってくれて構わない」
 一瞬、二人の間に静寂が過ぎった。
 じっくり言葉を咀嚼する。目の前にいるこの王族然とした男は、一体何を言ったのだろう。様々な思考が入り乱れ、過ぎっていくのを感じながら、アルトはやけに、得心がいった気分になった。
 不意に、愉快な気分がこみ上げてきたのがわかる。胸の内をちくちくと突き刺すような奇妙な面白おかしさは、アルトに妙な安心感を与えていた。
「――兄上は、私の即位を望んでくださるのですね」
 アルトが薄ら笑んでそう言うと、ラフラウトは苦笑の色を濃くしながら、「そういうことは、あまりあからさまに口にするものではないよ」と窘めるように言った。
 兄のこの、掌を返したような態度に覚えがある。
(幼い頃、あの廊下で膝を抱えて泣いたのは何のためだった?)
 あの頃は、世界が偽りだらけに見えていた。そんなことを思い出す。
 マラキアのような田舎でも、裏切りと迎合で栄達しようとする者は山といた。むしろ田舎だったからこそ、力ある者に媚びへつらう貴族達が多く見えたのかもしれない。
 そんな世界が悲しかった。だから一人で泣いたのだ。誰に助けを求めようとも思わなかった。誰を信じるべきなのか、当時のアルトにはわからなかったからだ。
「しかし何故です。兄上達は、王位を巡って長く競い合っておられましたね。あなた方には、その間に培った人脈も知恵もある。私を引きずり下ろして自らが王になる手など、いくらだってあったでしょう」
「馬鹿なことを言う。父上は、お前を次の皇王にと仰ったではないか」
「長年求めてきた地位を、そんなに簡単に諦められるものでしょうか」
 アルトが食いつくように問い返すと、ラフラウトは心底困ったように眉根を寄せて、目を逸らした。しかし苦笑は崩さない。そうして不意にアルトへ背を向けると、長く深い溜息をつく。
 続いた言葉に、アルトは意図せず瞠目した。
「公には知らされていない事だが、私の母パンデレッタの死因も、自害だった」
 息を呑み、短く問い返す。しかしラフラウトは振り返らない。
「母上はサンバール兄上の一派との長い継承権争いで、精神を病んでおられたんだ。自害の原因もその事だった。それで母上の訃報を聞いた時、つくづく思ったのさ。私は母を追い詰めてまで、一体何を手にしたかったのだろう、とね。おかげで、もう王位への未練はないよ。お前が王になることで兄上との争いに終止符を打てるなら、諸手を挙げて歓迎する」
 ラフラウトが歩みを進めると、さくさくと草が音をたてた。どこかの木から鳥が羽ばたき、軽やかな鳴き声だけを残していく。
「お前が私のことを、保身のために勝者へ諂う、矜恃を持たない男だとそしるなら、それでもいい。実際、それは当然の評価だと私自身も思うからな。……だが先の謝罪だけは、どうか私の本心として受け取ってくれ。そしてどうか、私に償いの機会をくれないか」
 振り返ったラフラウトの表情は、彼の言うような惨めな男のそれではなかった。言葉は先程よりも意気軒昂として、強い意志を秘めた瞳は、アルトの臆病心を貫いていく。
「幼い頃のお前への態度を、全て母のせいにしようとは思わない。だが毎日のように聞かされていた血統主義論がぱたりと止んで、私の考え方も随分変わった。同じように母を失った者同士、私達は助け合っていけるんじゃないかと、私はそう思っているんだ。――お前はどう思う、アーエール」

:: Thor All Rights Reserved. ::