吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

056 : Contrast -2-

 ふっと息絶えるかのように、すっかり燃え尽きてしまった蝋燭の炎がかき消えた。しかし辺りは闇ではない。いつの間にやらうっすらと、遠くの空が白み始めている。
 身じろぎもせずに話し続けるデュオは、もしかすると日が昇り始めたことどころか蝋燭の火が消えたことにも気付いていないかもしれない。そんなことを思いながら、アルトは再び窓の外へと視線を向ける。
 窓の向こうに、カランド山脈の影が浮かび上がってきていた。
「あいつが何を警告しようとしていたのか、わかったのは翌年の事だった。――五六六七年のヨンゴの月十七日に、無人になったバラム城が突然炎上したのさ」
「え……?」
 小さくこぼして、瞬きする。バラム城が燃えたことは知っていた。ウラガーノからマラキア宮へ戻ったとき、狩猟場の奥で古びた城壁の焼け跡を見ていたからだ。しかしそれは、デュオがアドラティオ四世と戦った跡なのだろうと思っていた。
 無人になったバラム城。つまりデュオは、モノディアの忠告通りにバラム城を明け渡したということなのか。
 それにもう一つひっかかることがあった。聞き慣れた、ヨンゴの月十七日という日付のことだ。即位式にと指定された日でもあるその日は、アルトにとっては特別な意味を持っている。五六六七年とくれば尚更だ。
「……俺が、生まれた日」
 アルトにはそう言葉にする自分が、何者かに動かされた操り人形のように思えてならなかった。言葉だけは口を突いて出ても、そこに意志はないのである。
――君の母君から快活な笑顔を消し去り、命を奪ったものって何だと思う?
 ふと思い出した言葉に、ぞっとする。しかしデュオはそんな様子になど気付かないまま、こう続けた。
「そうだ。その時俺はバラムよりずっと南に下った場所に身を隠していたから、第三王子誕生の知らせを聞いたのはもっと後のことだったけどな。……出火原因はいまだに不明。表向きには国境争いで領土を大量にぶんどられた凰楼の人間が、悔し紛れに火を放ったって言われてる」
 「本当のところは、誰も知らねえけど」そう付け足したデュオの言葉は、先程と打って変わった音をしていた。
 鼻から抜けるような、まるで世間話でもするかのような口振りだ。他人事のように話さなくては、やっていられなかったのかもしれない。長年くすぶり続けた彼の疑念は、恐らくマラキア宮での悪夢の再現によって、確信に変わっていたのだろうから。
 そんなことを思うアルト自身も、何もかも全てが他人事のように思えてならなかった。
――私が授かる子供は三人。それ以上でも以下でもいけない。全てが息子。それも、皆違う母を持つ。
 アドラティオ四世がこぼした言葉。それが全てを暗示していたのではないかと、デュオは言った。
――しかし、しかしお考えください! あの男が、あなたさま、そしてあの方に何をしたのか。
――色々あって、皇王陛下の不興を買ってな。その時に城主の座と、爵位は無くしたよ。
――君の母君、自殺したんだって? 自分で自分を殺すなんて、余程、何か思うところがあったのかな。
――クラヴィーア王国第二十六代皇王、アドラティオ四世陛下よりの御勅命が下りました!
――特異な力は王者の証。殿下が王位を望むにしろ、望まないにしろ、民草は力ある者をこそ畏れ敬いたがります。
――お前達、このクラヴィーア国内の人間なのか? 一体、誰に命じられてここへ来た!
――こうして殺しそびれた女にそっくりな、あんたに今日出会えたからさ。
――これが、これがシルシ! こんなちっぽけなものが! これだけの任務のために、……一体何年、翻弄されたことか!
――だけどその平穏の為には、何か犠牲になるものがあったと思わない? 誰も君に語って聞かせようとはしないみたいだけど、ほら、例えば君の母君。
――あの女の人はいつも活き活きとして、快活で、だけど俺の知ってる母上はそんなじゃなかった。儚げで、最期は、自分で。
 少しずつ、少しずつ、全てが真実へと集っていく。
 だけど一つ、何かが足りない。
「そうしてその更に三年後の秋、新たに完成したマラキア宮へ、モノディアとお前がやってきた」
(もう、いいよ。デュオ)
 心に薄靄がかかっている。デュオの言葉が、何故か途方もなく遠いもののように聞こえてくる。
(俺が本当に聞きたいのは、……カランドで母上の話を聞いてからずっと、逃げ続けていたそれは)
「俺は詳しい理由を知らないが、ゾーラの話では――あいつは早いうちから身分を偽って、マラキアの使用人として勤めてたんだが――、どうもお前の体のために、あの地方の空気が良いとかって事だった」
 足りない。一つ、最も知りたかった答だけが。
――あなたがあの女の忘れ形見を、放っておく筈ありませんからね。
――いつかおまえが旅立つ時に、渡そうと思ってた。
――おまえが今、やるべきことは……母上をお守りすることだ。違うか?
――行くな。――父上に、おまえを殺させないでくれ!
 目を伏せて話すデュオは、アルトの指先から震えが消えたことに気付かない。
「確かにその頃、お前はよく体調を崩していたらしい。今じゃ病弱だった頃の姿なんて、見る影もないみたいだが」
 デュオの声が優しく揺らいだ。何も知らずにいたあの頃のような、マラキアで平和に暮らしていた頃のような口振りに、アルトははっと息を呑む。
 同時にその瞬間、アルトの中でも本当の意味で、何かが大きくぐらついた。
「そんなこと、どうでもいいよ」
 ぴしゃりと言い放たれたその一言に、デュオが驚いた様子で顔を上げる。アルト自身にとっても、それは意外な出来事だった。
 けっして話し上手とは言えないデュオが、それでも言葉を探しながら、自らの傷と向き合いながら、少しずつ事を語ってくれている。わかっていたから、それを急かそうとは思わなかった。
 こんな言葉を口にするつもりなど少しもなかった。――その、はずだったのに。
「ああ、……悪いな。話が逸れちまった」
 ばつの悪そうな様子で、デュオが苦笑する。アルトはゆるゆるとかぶりを振ったが、しかし再びデュオが話し出そうとする前に、鋭く言葉を割り込ませた。
「いくつか聞きたいことがある」
 不意を突かれたデュオが瞬きするのを見ながら、アルトは短く息を吸う。一度挫けてしまったら、きっともう、問う事なんて出来ないだろう。アルトには、その確信があった。
「まず一つ……。母上が亡くなったのは、俺が六つの時の冬だった。葬儀の日のことは、今もよく覚えてるよ。式の参列者がどんな顔ぶれだったかも含めて、だ。あの頃には既にゾーラだけじゃなく、ナファンもダルシマーもマルカートだって、もうマラキアの使用人として潜り込んでいた。だけどあんたがマラキアへやってきたのは、喪が明けた春だったよな」
 問われてデュオは、重々しく頷く。その渋面からは、彼の心情を読み取ることなど出来そうにない。しかし続いたアルトの言葉を聞いて、彼が眉根を寄せたことだけはわかった。
「それは、『アルト』のせいじゃないのか」
 思っていたよりもずっとすんなり言葉が出てきて、アルトは内心戸惑った。
 明け方のすきま風は、夜中に増して肌寒い。走るように鳥肌が立つ。
「どういう意味だ」
 そう問うデュオの、声が固い。アルトは堪えきれずに立ち上がると、語気を荒げてこう言った。
「あんたはペンダントをくれた時、たしかこう言っていた。今はもういないけど、昔は妻も、子供もいたって――息子がいたって! その時は勝手に、きっと何か不幸があって、どちらも死んでしまったんだろうって思った。母上のことを聞いてからは、一体いつその話が出るんだろうって、ずっと待ってた。だけど、あんたは」
「アルト、あれは」
 口を挟もうとしたデュオを睨み付ける。すると彼は狼狽した様子を見せながらも、眉根を寄せて口を閉ざした。それを見て、アルトはすかさず言葉を続ける。
「もう一つの質問だ。教えてくれよ、デュオ。『アルト』って一体誰の名前なんだ? もしかして、それはあんたと母上の間に生まれてくるはずだった子供の名前なんじゃないのか? ……妙なところで潔いあんたのことだ。始めは、居場所の無くなった古巣になんて戻る気はなかったんだろう。だからこそ、バラムに残っていた兵士達のことだって素直に解散させたんだ。だけど母上が死んで事情が変わった。さっきの話じゃ、母上があんたから離れて首都へ向かったのが俺の生まれる前年の春から夏にかけて……。俺がデュオの立場でも、きっとそう思っただろうな。母親が死んでマラキア宮に取り残されたのは、本当は王の子でも何でもない、自分の息子じゃないかって。だからあんたはマラキアへやってきて、何食わぬ顔で、俺にこの名をつけたんだ!」
 デュオがさっと気色ばんだ。しかし何も言い返そうとしないのを見て、アルトは泣き出したいような、笑い飛ばしたいような、奇妙な思いのまませせら笑う。
「ほら、図星だ」
 覚束ない足取りで後退ると、倒れた椅子に足が当たった。どうやら先程立ち上がったときに、座っていた椅子を倒したらしい。きっと音がしただろうに、今までそれに気付かなかった。
「あんたは、事の真偽を知ってるのか?」
「――知らない。方々調べたが、結局わからずじまいだった」
 言ってデュオが、溜息をつく。アルトは答えなかった。そうして、廊下に続くドアを振り返る。
 この場にいることが、何より辛く、悲しかった。なぜこんな思いをしてまで、知らなければならないのだろう。進まなければならないのだろう。そう考えると悲しみにも増して自らへの怒りがこみ上げて、尚更いたたまれない。
 後悔するくらいなら、その程度の覚悟しか持ち合わせていなかったのなら、始めから聞かなければよかったのだ。頑なに耳を塞ぐべきだった。
 デュオからペンダントを受け取った、あの時のように。
「お前の言ってることは、大方正しい」
 静かな声でデュオがそう呟いたのを聞いて、アルトははっと身構える。
 身構えてどうなるものでもないとは、わかっていた。
「お前は俺の息子だ。少なくとも俺は、心の中でそう信じてた」
 ――ぱりん、と、何かが割れる音を聞く。
 明け方の空から星が消えた。窓から漏れ入る光は脂汗の浮いたデュオの表情をもうっすらと照らし出したが、朝陽に包まれる安心感は少しもない。どうやら傷はまた悪化しているようだ。目許のくまは顔全体に影を落としており、そこには妙な迫力があった。
 デュオに真っ直ぐ見上げられ、アルトは咄嗟に目を逸らす。
「だけどこれだけは言わせてくれ。アルト、その名前は」
「……呼ぶな」
 声のあまりの小ささに、デュオが聞き返してくる。アルトは苛立たしげに、自らの脳裏を取り巻くもやもやとしたものを振り払うように首を横に振って、言った。
「もうその名前で、呼ばないでくれ。――俺の名は、アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア。そうだろう、デュオ? じゃなきゃ駄目なんだ。俺がアドラティオ四世の子じゃなきゃ、王位継承者じゃなきゃ、この旅も、この旅に命を預けてくれた人達の思いも、全て無駄になるんだから」
 辛うじて絞り出したその言葉に、力などはなかった。
 どうかもう、終わりにさせてくれ。
 このままでは負けてしまう。
 一瞬でいい、逃げ場が欲しい。
 何故こんな思いまでして、首都へ向かわなくてはならないのだろう。そんな事を問い続ける自分に、悲劇の主人公にでもなったような感傷に浸ろうとする自分に、今にも圧倒されそうだ――。
「頼むから、……俺から、この旅の意味を奪わないでくれ」
 呟いて、扉のノブに手をかける。デュオはただ一言、「どこへ?」とだけ問うた。
「外の空気を吸ってくる。すぐに戻るよ」
 止められるかとも思ったが、デュオにその素振りはない。ただ彼は扉が閉まる直前になって、はっきりとした口調でこう言った。
「まだ話さなきゃならねえことがある。必ず、戻ってこいよ」
 
 どうやら今日は曇りのようだ。空は白んでいるものの、太陽は雲に紛れ込んでいる。
(これじゃ、日の出は見られないな)
 たいして落胆したわけでもないのに、大袈裟に溜息をついてみる。そうしてみると少しだけ、得体の知れない苛立ちが遠のいていくような、そんな錯覚に陥ることができた。
 どこかで鶏が鳴いている。そろそろ人々が起き出して、この大通りにも市が立つのだろう。クロトゥラは医者を見つけられただろうか。そういえば、馬の売り手も探さなくては。そぞろ歩きをするのなら、その目星をつけておくのも良いかもしれない。
 とりとめのないことを考える。気は一向に晴れやしない。
 ポケットに入れたペンダントに触れると嫌でも、初めてマラキアを発とうとした日の朝を思い出す。デュオとナファンの口論を聞いたあの日も、こんなふうに明けるか明けないかの空だった。
(馬鹿馬鹿しい。……思い出したくもない)
 あの日、アルトはデュオにあることを頼もうとしていた。言わずにおいてよかったと、今ではそれしか思えない。
 言わずにおいてよかった。口にしてはならない頼みだった。
 今までも、そしてこれから先もずっと。
 そんなことばかりを考えていた。だからアルトは気付かなかった。この朝ぼらけの下を歩いているのは、自分ばかりと思っていた。
「すみませんが、そこの方」
 どこかから聞こえてきた声に、びくりと慌てて振り返る。すると唐突に、すらりとした男の腕に手首を掴まれた。まさかオスティナートが生きていて、またシルシを追ってきたのだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎったが、どうやらそうではないらしい。
 被ったフードが風に揺れる。一瞬相手と目があった。
 はっと小さく息を呑み、愕然とする思いで目を見開く。だがその一方で、相手は表情を輝かせた。
「やはりお前だったか、アーエール!」
 アルトと同じに頭からすっぽりと、しかし小綺麗なローブを被って現れたのは、見知った一人の男だった。男は掴んだ手に力を込めて、さも嬉しげにこんな事を言う。
「森で会った時にもしやとは思ったが、確信はなかった。だが自分の勘を信じて、追ってきてみて正解だったようだな。……上手く追いついて、よかった。安心しろ、ここにいるのは私一人。お前に害為すつもりはない」
 男は一息にそう言って、ふと自らの振る舞いを反省するかのように居住まいを正してみせた。だがアルトの腕だけは、掴んだまま放す素振りもない。
「……なぜ、こんなところにいらっしゃるのですか」
 思わず問うたその声が、情けないことに震えている。すると相手は些かの苦笑を浮かべて、しかし毅然とした態度で、こう言った。
「お前と、たった一人の弟と話がしたくて、メレット宮からとって返してきたのだ。もっともお前は私のことを、兄だなどとは思っていないかもしれないが」
 語られる言葉の予期せぬ響きに、白昼夢を見ているのかとさえ思われた。
 しっかり目を閉じ、また開く。しかし夢ではないようだ。アルトの腕を掴み、囁くように言葉を連ねたその人物は、他でもない第二王子ラフラウトその人だった。

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