吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

058 : The morning dew

 段々と町が目覚めていく。その傍らでアルトに出来ることはといえば、ただ黙って口を結び、目の前に佇む男を眺めることくらいであった。少しずつ賑わってきた町の音も、恐らくはアルトに囁き続けていただろう精霊たちの声も、今のアルトには届かない。
 ラフラウトはアルトをじっと見たまま、言葉を続けようとはしなかった。そうして無言で、アルトの返事を待っている。
(簡単に、信じていいのか)
 この兄王子の助力を得られるのであれば、スクートゥムへの残りの道程は勿論、その後も大きな助けになることは間違いない。だがもしこちらの手を曝してから、裏切られるようなことがあったなら。
「ひとつ、お聞かせ願えますか」
 アルトが言うと、ラフラウトは無言で頷き言葉を促す。にこりと微笑んだ顔は穏やかで、何故だか、自分たち兄弟は昔からこんなふうに接していたのではなかったかという錯覚にすら陥った。
「兄上は、森で会った時に私の正体に気づいたのだとおっしゃいましたね。――しかし、何故私だとわかったのですか。こんなマント一枚では、変装といってもたかが知れているとは自分でも思います。けれど、顔はご覧にならなかったでしょう」
 山賊退治の途中で偶然出くわして、すぐに正体に気付いたなんて出来過ぎている。アルトは頭の先から足元まで、自らの身をすっぽりとマントで隠していたのだ。何年も会っていなかったのに、仕草などで気付くわけもない――。そう考えれば、やはり先にサンバールの私兵隊や、ジェメンドから情報を得ていたと考えた方が自然ではないだろうか。
 しかしラフラウトは、アルトの疑問をたった一言でかき消した。
「声を聞いたからな」
「……、声?」
 思わず問い返す。聞いて、ラフラウトは頷いてみせた。
「そうだ。あの時何だったか……おまえが声を出したろう。あれで確信したんだ」
「ですが、声といっても」
「最後に会ったのは五年も前のこと、おまえの声も低くなった。それで特定できるわけはないと言いたいのだろう?」
 言おうとした言葉がそっくりそのまま相手の口を突いて出たので、アルトは心ならずも押し黙る。するとラフラウトは笑って、さらりとこんな事を言った。
「わかるさ。お前の声は、父上にそっくりだからな」
――お前は俺の息子だ。少なくとも俺は、心の中でそう信じてた。
 一瞬何を言われたのやら、アルトには理解することが出来なかった。
「……父、上の」
「なんだ、気づいていなかったのか? まあ確かに、声のことなど自分では気づきにくいかもしれないが」
 言ってラフラウトが、なんでもないかのように笑顔を見せる。呆気にとられて立ちつくし、アルトは気づかぬまま、乾いた声を漏らしていた。
――あの女も確か、こんな髪をしていたなあ。似ているとは聞いていたが、まさかこんなに生き写しだなんて。……父親にはあまり、似ていないのにねえ。
――アーエール殿下は、本当にモノディア様と瓜二つでいらっしゃる。
「……。声だけのことにしろ、父上に似ていると言われたのは初めてです」
 聞いてラフラウトは目を瞬かせると、さも意外そうに腕を組む。その様子にさえ気品が見て取れることに敬服しながら、アルトはふと、微笑んだ。
 それはこの相手に向ける初めての、本心からの笑みだった。
(俺が王位継承者じゃなかったら、兄上は今だって、俺なんかには見向きもしていなかったかも知れない。……だけど)
――私達は助け合っていけるんじゃないかと、私はそう思っているんだ。
(あの言葉は、信じたい)
 しかしそうしてアルトが口を開きかけた、その時だ。
「アルト?」
 背後から聞こえてきた声に、アルトははっと振り返る。声を発した人間と目があうと、その相手が自らの目を疑うような表情で、アルトの先に立つ人間を見たのがわかった。
「ラフラウト、殿下……?」
 呟くようにそう問うて、それでも即座に臣下の礼をとったのはクロトゥラだ。するとラフラウトはやれやれと溜息をついて、「森で会ったな」とまず言った。
「あの馬車の親子共々、気になっていたんだ。アーエール、お前の従者か?」
 尋ねられたのだと解するまでに、一瞬の間があった。アルトはラフラウトを振り返り、慌てて言う。
「あの馬車に乗っていた父子は、恩人ですが赤の他人です。偶然通り掛かり、私の事情など何も知らぬまま、助けてくれました。そこにいる男は、私の友人です」
「友人?」
 ラフラウトが、面白そうに片眉を上げたのがわかる。
「では、マラキアの人間か」
 「いいえ」と顔を上げぬまま答えたのは、クロトゥラだ。
「ご挨拶が遅れ、失礼いたしました、殿下。わたくしの名はクロトゥラ・ドゥ・トゥ・カンシオン。アーエール殿下をスクートゥムへお連れするために遣わされた、スクートゥム少年近衛兵の者です」
「ほう。近衛は全て聖地ウラガーノでアーエールを見失ったと聞いていたが、優秀な者もいたようだ。……それとも、お前こそが私の弟を拐かした張本人か?」
 聞いて、アルトははっと顔を上げた。ラフラウトの表情は先程よりずっと険しいものになっており、その口調はどこか堅い。一方でクロトゥラは頭を下げたまま、答えようとする様子もない。
「兄上、一体何をおっしゃるのですか!」
「アーエール。まだ知らないかもしれないが、お前の失踪を知る人間の中では、お前はウラガーノで何者かに誘拐されたことになっている」
 ラフラウトが唐突に強い口調で言いきったのを聞いて、アルトは思わず顔をしかめた。自身の失踪が公にされていないことは知っていたが、まさかそんなことになっているとは思いもしなかったのだ。
「私は私の意志で、ウラガーノを発ったのです。……父上への書状も、確かに残したはずですが」
「その話は聞いていないな。父上がなんらかの理由で事を隠しているか、それともおまえの居所を知らせまいとした何者かが、その手紙を処理したか……。後者の方が、可能性は高いか。その場合、私は兄上か、ソーリヌイの一族の差し金だと思うが」
 何の躊躇いもなく断言する。聞いてクロトゥラが顔を上げたのが、アルトの視界の端に映っていた。そうしたかったのはアルトも同じことだ。
(兄上は既に、誰が敵かを察している――)
 アルト達二人の反応に、心得たものがあったのだろう。「やはりお前達にも、心当たりがあるのだな」と言うと、ラフラウトは改めて居住まいを正し、アルトに向かってこう話した。
「ならば尚更、私に事を任せて欲しい。長く勢力を殺がれていたソーリヌイ侯はまだしも、兄上の手勢は恐らくお前が考えている以上に多いだろう。それに首都へ向かう前に、その身なりもどうにかした方がよさそうだ」
 言われてアルトは、埃まみれの自分自身を見下ろした。雨に打たれ、山をさ迷い、敵と争った衣服はすっかりくたびれて、あちこち破れ目が出来ている。裏返したマントですっぽり覆ってはいるものの、上着がカランドで死んだ兵士の血で染め上げられていることも思い出した。確かに、このまま王城へ向かうわけにはいかない。
 そうしていてふと、アルトはクロトゥラが、目で何事かを話しかけてきていることに気がついた。
 緊張感のある、刺すような視線。聡いこの友人のことだ、恐らく、現状を把握できていないわけではないだろう。ならば彼は何を問うているというのか。
 クロトゥラの目が、ラフラウトをちらとふり仰ぐ。アルトはその意図に気付いて、しかし答えず押し黙った。
 この友はこう問うているのだ。ここに立つこの男は、お前の信頼を得るに足るのか、と。
「服に関しては今から仕立てていたのでは間に合わないが、私が昔身につけていたものから見繕えばいい」
 ラフラウトの言葉に、アルトはさっとクロトゥラから目を逸らした。ラフラウトはと言えば自らが値踏みされていることに気付かないではないだろうに、相変わらずの穏やかな態度でとうとうと、事を語っていく。
――お前が私のことを、保身のために勝者へ諂う、矜恃を持たない男だとそしるなら、それでもいい。実際、それは当然の評価だと私自身も思うからな。
(俺には、この人がそんな人間だとは思えない)
 目の前にいる男は威風堂々として、そしていかにも誠実だ。
 ちらりと、突き刺すような孤独が胸を過ぎる。離れの廊下。夕暮れ時。母の肖像画の空虚な微笑みと、対照的な嘲りの笑み。しかしアルトはその記憶を、自ら無理矢理手放した。
 疑いと信頼を使い分ける器用さなど、必要ないと思っていた。
「馬と兵も貸そう。私もひとまずは即位式に参列するために、そろそろメレット宮を発とうと思っていたから、宮殿に戻れば準備は既に出来ている。もしお前が許すなら、共に向かっても良いくらいだ」
「……。では、そのように計らっていただけますか」
 ラフラウトとクロトゥラの視線が、ほぼ同時にアルトを向く。だからラフラウトの目だけを見て、アルトは一言、短く言った。
「兄上のお言葉を、信じます」
 ラフラウトの頬が綻んだ。「すぐにでも」と答える声は、静かな喜びに満ちている。しかしアルトは微笑み返すことが出来ないまま、ゆるゆると拳を握りしめた。
 これでスクートゥムへの道は拓けた。だがアルトにはまだ、けじめをつけなければならないことが残っている。
――話さなきゃならねえことがある。必ず、戻ってこいよ。
(兄上は、デュオのことは知らないから)
 不審に思われないような理由をつけて、ひとまずはこの町に残らなくては。
 デュオのことまで全て話してしまおうかとも考えたが、デュオが元はソーリヌイ家の人間であること、今は逆賊として追われていることを考えれば、下手なことは言わずにおいた方が良いだろう。
 第一、自分が王の子ではないかも知れないなどと、一体どの口が言えようか。
(今は、一度デュオの所へ戻らなくちゃ)
 デュオとはもう一度だけ話をして、この町に匿ってもらうか、どこか別の町へ身を隠せるよう手配する。アルトがアドラティオ四世を説得することができれば、まともな場所で治療もできよう。
 しかしそこまで考えは及ぶのに、アルトの口は動かなかった。
 指先が、再び小さな震えを持ち始める。それを握りしめて、アルトは苦笑した。これ以上の事実なんて、聞きたくない。そう訴えかける自らの思いに、遅れて気付いたからである。
「恐れながら、ラフラウト殿下」
 アルトの心を読んだかのように、すぐ後ろでクロトゥラが言った。
「首都スクートゥムへ向かうには、メレット宮へ寄るのはいささか回り道。アーエール殿下はこれまでの慣れぬ長旅でお疲れです。――わたくし自身に少年近衛兵以上の地位はございませんが、カンシオン家当主である我が兄は、アーエール殿下と直々に主従の契約を結んだ身。わたくしがアーエール殿下の名代として、メレット宮まで馬と衣服を頂戴しに伺います」
 振り返ると、律儀に臣下の礼をとり続ける友人の姿がある。アルトは心中で礼を言う一方で、小さく溜息をついた。
 何も言わずにいてくれれば、このままこの町を去れたのに。
「そうすれば、多少の休息にはなるか。――確かにそうだな。宿は、もうとってあるのか?」
 「はい」と手短な答えを聞くと、ラフラウトは颯爽と乗馬用の手甲をはめ、クロトゥラに向かって指示を出す。その間、アルトはただ黙り込んで、二人のやりとりを眺めていた。
「預けた馬を取ってくる。お前はここからまっすぐ行ったところにある、風車小屋に向かっていろ。そこの人間とはよく知った仲だから、私の名を出せば馬を貸してくれるだろう」
「御意のままに」
 答えるクロトゥラの声は淡々として、歯切れが良い。アルトはそれを見ながら目を伏せて、自分でも気付かぬうちにそっと、一歩小さく後退る。
――殿下はどうかこのまま先へお進みください。焦れることなく胸を張り、従える者の威厳を持って。
 同じ声で騎士然と振る舞われると、否が応にも思い出す。こんなふうに逃げ腰でいる今の自分を見たら、唯一の臣下はなんと言うだろうか。
「どうした?」
 ラフラウトに尋ねられて、アルトは慌てて、自らの頬に笑顔を貼り付けた。
「……いえ。やはり少し、疲れているようです。兄上にはお手数をおかけします」
 アルトが呟くようにそう言うと、ラフラウトは苦笑する。
「構わぬ。私とその名代が戻るまで、しっかり休め」

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