吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

046 : Win the monsters over!

 その言葉に驚いて、一度大きく瞬きをする。間を置いて、アルトはぱっと微笑んだ。
――直属の騎士になってくれないか。
 あの時はただ、困惑させてしまっただけだった。けれど、今は。
「ありがとう!」
 場に似つかわしくない明るい声でそう言って、足元から剣を拾い上げる。
 言いたいことも、聞きたいことも山のようにあった。しかし、事態はそれどころでは無かったのだ。シロフォノ達を追い、ジェメンドの人間が駆け降りて来るのが見える。そしてその後ろには、更に数名サンバールの私兵達の姿が見受けられた。
 デュオ達が降りてくる気配が無いのは恐らく、地上で敵の足止めに徹しているからなのだろう。聞こえてくる音から想像する限り、上での戦いも終わってはいない。
「雑兵が――邪魔を、するな!」
 ジェメンドの男の声と同時に、金属のぶつかり合う重い音が鳴り響いた。見ればクロトゥラの持っていた刃が、一振りはじき飛ばされている。力負けしたのだ。直後に放ったリッソでなんとか形勢を立て直してはいるが、それでもジェメンドの男の方が優勢に事を進めている。手前のシロフォノも同じ事だ。複数の敵を同時に相手取る事になり、反撃にまで手が回っていない。アルトを庇わなくてはならないために、二人のどちらも戦いに専念することが出来ずにいるのだ。
 わかっているからこそ、もどかしい。
 アルトの腕では、とてもではないがジェメンドの人間とは渡り合えない。二人も十分、それを心得ている。
(でも、このままじゃこの場を乗り切れない)
 ただ助けてもらうだけではいられない。行動を起こさなければ。しかし。
 爆発音が辺りに響いたのは、その時だ。
 舞い上がる土埃で、視界が一気にかき消される。クロトゥラが火薬を使ったのだろうと考えながら、アルトは激しく咳き込んだ。肩が揺れる度、痣になっているだろう腹の傷が鈍く疼く。
 支えを求めて手をのべると、雨に濡れた指先が苔むした土壁に触れた。同時に。
 どくん、と聞こえる大地の鼓動。
 間をおかず、アルトの左手は腰に帯びた鞘を引き上げていた。咄嗟の判断だ。しかしそれが、視界を奪う土埃の中、一瞬ちらついた兵士の剣を受け止める。返す手で紺の詰め襟相手に一撃を食らわせると、アルトはふと、耳を澄ませた。
(今の爆発で、風の流れが変わった――?)
「――アルト!」
 金属の割れる音がする。兵士が振り下ろした剣を、シロフォノが自らの剣の柄で――否、剣の柄から飛び出した二股の金具で絡め取り、それを捻って相手の得物を叩き割ったのだ。
「大丈夫? 傷が、痛む?」
 問いには短く「違う」と答え、剣を持つ手に力を込める。ぼうっとしている場合ではない。しかしその時不思議な思いが、アルトの中を巡っていた。
 剣を握るのとは別に、何かやるべき事がある。
 シロフォノがナイフを構えて敵のリッソを払い落とす動作を横目に見ながら、アルトは周囲を視線で探った。そこに何かが在るはずだった。今、アルトが為すべき事。あるいはアルトに力を貸す、何者かの存在が。
 雨粒に圧され、少しずつ視界が晴れていく。
 姿無き声が、囁いている。
――俺は、風の精霊に好かれてるんだってさ。
「『精霊』……」
 ぽつりと呟くと、シロフォノが怪訝そうな顔をしたのがわかった。アルトはその腕を掴んで、顔を引き寄せ耳打ちする。
「火薬、おまえは持ってないのか?」
「小さいのなら、あるよ。――何に使う気?」
 気短にそう言って、シロフォノが寄って来た兵士を切り伏せる。アルトはそれを聞くとにやりと笑って、ただ、こうだけ答えた。
「『カランド山脈の化け物』を仲間にする」
 細く吹き込む雨のおかげで、土埃はすっかり晴れていた。
 シロフォノが面食らった様子で瞬きするのがよく見えて、アルトはなおさら気をよくした。右から向かってきた兵士の剣を受け止めると同時に、シロフォノが左の敵へリッソを放つ。もう一言、二言は何か聞かれるかとも思ったが、尋ねる声はそれきり無かった。
 ただ無造作に包みを放って寄越されて、アルトはそれを、慌てて掴む。飾り気のない革袋を握り込むと、いくつか丸い珠のようなものの感触があった。
 「気をつけて」と念を押す声。アルトは頷き駆け出した。風の呼ぶ方へ、脈打つ鼓動が聞こえる方へ。彼らはマラキアでも、同じようにアルトを助けてくれた。
 服で手を拭い、包みを開いてみると、火薬が三つ入っている。それぞれの火薬にマッチ箱のような横薬がついており、どうやらそこへ導火線を擦り付ければいいらしいとすぐに知れた。
(教えてくれ。――どこだ!)
 『精霊』達に問いかける。自然と足が、いざなわれていく。
 クロトゥラとジェメンドの男が争っている近くへ寄って、アルトは素早く視線を巡らせた。先程の爆発で掘り起こされた、この地面のどこかにあるはずだ。何かがそう、アルトに教えたのだ。しかし土壁に手をついて目的のものを探しても、すぐには行き当たらない。
 そうしている間にも、背後では剣戟の音が鳴り響いている。引いて、弾いて、少しずつだが確実に、クロトゥラの側が圧されている。ジェメンドの中でもリーダー格のあの男の力は、どうやら桁外れであるようだ。
 クロトゥラの持った刃が、また一振りはじき飛ばされる。
 振り返ると同時にジェメンドの男と目があって、アルトは短く息を呑んだ。赤く血走った目には、最早狂気の色しか浮かんではいない。
 あの男は、一体いつからあんな目をしていただろう。ふと、そんなことを思う。初めて出会ったときにもその力には恐れを感じたが、それでも男の瞳には、相応の理性が宿ってはいなかったか。
「殿下のお相手も、すぐにさせていただきますよ」
 低く地を這うような男の声と同時に、何かがアルトの隣をすり抜けていった。それが投げつけられた剣だと気づいたのは一瞬後のことだったが、その剣が突き刺さった土壁を見て、アルトは目を丸くする。
 剣に伝う、蒸気を伴った水滴。雨粒ではない。これは、――
「クロトゥラ、こっちへ!」
 火薬を一つ握りしめ、まずは叫ぶようにそう呼んだ。聞いてクロトゥラが駆けてきたのを確認すると、今度は視線で坂の上側、シロフォノがいる方を示してみせる。応える仕草は見て取れなかったが、じっとアルトを見据えたまま駆けてくるその姿に、恐らく承知してくれているだろうと確信する。
 そのすぐ後ろに、想定通りジェメンドの男がついてきていた。
(大丈夫)
 緊張を訴える自分自身に、言い聞かせる。片手で導火線をすりあわせ、アルトは点火したそれを土壁に向かって投げつけた。その後ですぐにそこから距離を取ると、クロトゥラもステップを踏むようにして進路を坂上に変えた。それを追うジェメンドの男も、同じく進路を変えようと体を向ける。
 しかし、その瞬間。
 爆発音と土壁の削れる音、そしてもう一つの轟きが、大きく辺りに鳴動した。爆発を受けた土壁が割れ、そこからまるで噴水のように、大量の水が噴き出したのだ。それも、鼻の曲がるような臭気を帯びて飛び出したのは、ただの水ではない。
 クロトゥラに腕を掴まれ、一気に坂を駆け上がる。それから背後を振り返り、アルトはいつの間にやら上がっていた呼吸を整えようと、大きく息を吸い込んだ。
「熱湯――?」
 隣でクロトゥラが、唖然としたまま小さく、呟く。
「多分、これが『カランド山脈の化け物』の正体だ。俺は話に聞いたことしか無かったけど、温泉ってやつの源流かな」
 アルトは若干の飛沫を浴びた腕がぴりぴりするのを感じながら、それを真っ向から浴びたはずのジェメンドの男を目で探していた。リーダー格の男以外にも数名の兵士が巻き添えを食ったはずだが、白く霧のように立ちこめる湯煙の為に、彼らの姿を確認することは出来ない。
「温泉? 俺も見たことはなかったけど、こんな強烈な臭いがするものなのか」
「ああ。……この臭い、あまり嗅がない方が良いらしい。そう言ってる」
 噴き出した水に圧されてか、地面が小さく揺れていた。すっかり傷んだブーツの裏に、そこに潜む静かな熱を感じながら、アルトはそう言葉をこぼす。それは吐いた息が勝手に言葉の形を取ったような、意識のない呟きだった。
「言ってるって、一体誰が」
 困惑気味に、返す声。アルトは首だけで友人に向き直ると、何でもないかのようにぽつりと、言った。
「――精霊が」
 表情が凍り付いてしまったかのように、その瞬間だけは何故だか、頬がぴくりともしなかった。それを見てクロトゥラが、言葉無く眉間に皺を寄せる。しかし背後からの金属音に、二人は同時に息を呑んだ。
 見ればそこには全身を焼けただれさせた、異形の男が立っていた。おかしな具合に張り付いた布を通して、口元が不気味に歪んでいるのがわかる。笑んでいるのだ。毒々しい色に変色した腕が、確かな動作で刃を握る。水蒸気は未だ辺りに立ちこめていたが、熱湯の噴出は既にその威力を落としていた。
「その火傷で、まだ戦うつもりでいるのか」
 言ってクロトゥラが、両手にそれぞれ刃を構える。対して男が口を動かしたのはわかったが、その声はくぐもっており、アルトは聞き取ることができないでいた。
 次の瞬間。クロトゥラにつき飛ばされるようにして、アルトは強く尻餅を打った。ジェメンドの男が手負いとは思えないほどの速度で間を詰め、攻撃を仕掛けようとしてきたのだ。
「――無駄だ!」
 クロトゥラが指先で刃を回し、ジェメンドの男に斬りかかる。すると同時に頭上から、聞き慣れた声が降ってきた。
「おい! さっきの音は……それにこの臭い、一体なんだってんだ!」
 がなるようなデュオの声。見上げれば、こちらへ降りてくるマルカートやゾーラの姿があった。それぞれに傷を負い、血を流しているようではあったが、表情は変わらぬ覇気に溢れている。そんな様子を見て、アルトはひとまず胸を撫で下ろした。
 それから改めて、名も知らぬジェメンドの男へ視線を移す。剣を握り直し相手を見据えると、低く芯のある声で、言った。
「お前にシルシは渡さない。――ペンダントを、返してもらおうか」

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