吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

045 : Blood and Rain -2-

 強かに体を打ちつけると、口の端から呻き声が漏れた。咄嗟に頭は庇ったものの、捻ってしまった右足がじんと痺れている。足先に上手く力が入らないのを感じて、アルトは再び舌打ちした。
(よりにもよって、こんな時に足を傷めるなんて)
 歯痒く思いながら、溝の側面にはびこる苔へ手を沿わせる。立ち上がろうと踏ん張るが、しかし間もなく視界が翳り、頭上から何かが転がり落ちてくる音に顔を上げた。
 真上に何か、大きな影がある。
 反射的にそれを避けようとするが、足が上手く動かない。そうしているうちに尻餅をついて、アルトは目の前に降ってきたそれを、見た。
 目の前に落ちてきたのは、肩口から腹までを一太刀に切り伏せられ、絶命した兵士だった。濃紺の制服は既に黒々として、更にその体を中心に、辺りがじわじわ血に染まっていく。切り崩されたこの大地の溝にも昼の光は届いていており、糸のような雨も地上と同じように、物言わぬ兵士に吹き付けていた。
 真一文字に口を閉ざして、唾を、飲む。
 鳥肌が立つ、ぞっとしない風が吹いた。正確には、風が遠ざかっていったとした方が正しいだろう。血の臭いを避けるように、あるいは戦いの中を突き抜けるように、『彼ら』はアルトの側を去っていく。
 一緒に行くかと、問われた気がした。アルトは答えなかった。頭上ではいまだ、鳴りやまぬ剣戟の音が響いている。
(父上が出した手配書のために、兄上が命令を下した兵士――そして俺の仲間と、叔父上であるソーリヌイ侯の手の者が戦っている)
 恐る恐る手を伸ばし、苦痛に見開かれた兵士の目蓋を、そっと閉ざす。短い黙祷を捧げて強く奥歯を噛みしめ、アルトは背後にひたひたと聞こえる足音を振り返った。
 対峙した相手の、雨に濡れた前髪をかき分ける動作が、やけに鼻についた。そこには他でもない、アルトをここへ突き落とした張本人が立っている。
「王族というのは誰もが皆、死者の穢れを厭うものだと思っていた」
 男が言った。
「勝手に、決めつけるな」
「そう噛みつかないでくださいよ。もうこの世の者でないとは言え、敵だった者にまで憐れみをかけるなんて、まるで聖者のようだと言いたかっただけなのだから」
 くっくと笑いながら顎をしゃくって、男が一歩、また一歩と近寄ってくる。アルトは左足に力を入れて立ちあがると、精一杯の威厳を保って、言った。
「憐れみなんかじゃない。敬意を払ったまでだ」
 男からの返事はなかった。彼は相変わらずの笑みを浮かべたままアルトに歩み寄り、しかし自分の足元からした小さな金属音に立ち止まる。怪訝な顔をして何かをすくい上げる仕草を見て、アルトは声なく息を呑んだ。男の手に拾い上げられた、小さな光に見覚えがあったのだ。
 服の上からそっと、胸ポケットを探ってみる。
(金のペンダントが――無い)
 まさか、という焦りが脳裏を過ぎった。しかしその不安は即座に確信へと変化する。男がすっと、歪むような笑みをその顔に浮かべたからだ。
「見たことのある、紋章だ」
 粘り気のあるその声に、ぞっとする。
 気づかれた。それが、彼らの探し求めていた『シルシ』なのだということを。
「か、――返せ!」
 『シルシ』とは一体何なのか、彼らが執拗にそれを求めるのは何故なのか、実際の所、アルトには少しもわかっていなかった。しかし黙ってはいられない。そのペンダントはデュオからの預かりものであり、マラキアで母モノディアの肖像画から何らかを引き継いだものなのだ。
 剣を拾い上げ、右足を庇いながらも斬りかかる。男はそれをひょいとかわすと、握りしめたペンダントを見てまた恍惚とした表情になった。それから程なく腹を折り、声をたてて笑い始める。
「そうか、肖像画は――」
 呟き、狂気に歪んだその笑みに、アルトは思わず身震いする。心のない空っぽの笑み。これまでに、こうまで露骨な感情を向けられたことがあっただろうか。
 どくん、とどこかで警鐘が鳴る。
「これが、これがシルシ! こんなちっぽけなものが! これだけの任務のために、……一体何年、翻弄されたことか!」
 ぎらりとアルトを睨み付け、男が武器へと手を伸ばす。例の飛礫だ。アルトがそれを阻止しようとして距離を縮めると、即座に男の足が動いた。素早い蹴りを腹に受け、咳き込みながらもんどり打つ。
 男がさも嬉しそうに笑いながら、のんびりとした動作でしゃがみ込んだ。胸ぐらを取られ無理矢理に引き起こされて、アルトは低く呻き声を上げる。相変わらずの腕力だ。どんなに抵抗しても、その手が緩む気配はない。
「あなたはどうやら、よくよく運の強い方のようだ。まさか、こんな山奥まで追ってくることになろうとは思ってもみなかった」
 力任せに頭を押し戻され、強く地面に打ち付ける。くらくらと世界が歪んだが、その時耳の先へ触れた感触に、すぐさま現実へと引き戻された。
 目を向けるまでもなく、それが何かは理解できていた。どろりとした赤いもの。先程息絶えた兵士の血だ。それが地を這う涙のように、アルトの周囲を取り囲み、じわり、じわりと服へ、髪へ、染みこんでいく。
「あなた達母子には、散々手間をかけさせられた。だが」
 熱いな、と、ふと思う。全身にまとった鮮明な赤が、――仄かな熱を持っている。
 どくん、とどこかで警鐘が鳴る。
(違う)
 死者の血が、熱を帯びているはずがない。ならばこの感覚は一体何なのか。
 この熱は。
 ジェメンドの男は気づいていないのだろうか。それともアルト自身の感覚が、恐怖でおかしくなったのだろうか。しかしそんなことを考えていられるほど、アルトの心は落ち着いていた。
 どくん、とどこかで警鐘が鳴る。
 血に滲んだ爪先が、何かの脈打つ音を聞く。人の発する音ではない。どくん、どくんと、まるで胎動するような音。
(ここに、何かが生きてる)
 この熱は、もっと他の者――背に押しつけられた、大地のものだ。
「だが、それも――今日までだ!」
 太い両腕がアルトの首に伸び、一気に強く締め付けた。呼吸を阻まれアルトは強くもがいたが、男の力は強まるばかりだ。
「ソーリヌイは殺すなと言ったが、構うものか。シルシの在処ももうわかった。ならばあの女の血を濃く継いだ目障りなごみを、生かしておく必要など!」
 どくん、とどこかで警鐘が鳴る。
 大地の鼓動に共鳴するかのように、心臓が低く鳴るのがわかった。問うている、と心が告げた。問われている。誰に、一体、何を?
――あなたを大切に思っていた誰かが、あなたの力を閉じ込めていたのね。
 『シルシ』を見つけたとき、彩溟がそう言っていた事を思い出す。
――知らないままで良いんだよ。そうすれば、君は気ままな風でいられる。
――尋ねるのもいいけど、考えてご覧。俺じゃなくて、君のことをさ。
 どくん、と鼓動の揺らぐ音。何かがアルトに問うている。
 躊躇わなかった。
 ジェメンドの男の手に爪を立てたまま頷くと、突然視界が暗転する。
 
 鐘が、鳴る。
 見たことのない教会だ。祝い事でもあるのだろうか、参列者はその表情をほころばせて、和気藹々と話に花を咲かせている。
 誰もが幸せの中にいた。しかしアルトはその中で、ぐっと奥歯を噛みしめる。
 自分の居場所はここでない、とわかっていた。ここがどこかはわからないが、自分はただ一瞬、迷い込んでしまっただけなのだ、と。
 いるべき場所へ、行かなくては。進まなくては。少しでも速く、少しでも強く。
 その背をふわりと、抱きしめる人があった。顔は見えない。ただその人はアルトの髪をひとしきり撫でると、視線の先を指さした。言葉はない。しかし告げている。
――大丈夫。あなたは一人じゃないでしょう?
 再び目を開いたとき、アルトには、見るべきものが見えていた。
 
 頭上から、アルトの名を呼ぶ声がする。
 変わらない血と雨の臭いに、遠のく意識を揺り起こす。息が出来ない。しかしここで自分を手放したら、行き着く先は知れていた。
 もう一度、アルトの名を呼ぶ声がする。焦りと、迷いを含んだ声。ああ、もう大丈夫だ、と体が勝手に脱力した。ただ口だけが、声を伴わずにこう呟く。
「   」
 上手く伝わったかどうか、それだけを不安に思う。せめて声を出せたなら、しっかり言葉に出来たのに。――そんなことを考えて、しかしアルトは力なく笑みをこぼした。どうやら無駄な心配であったようだ、と気づいたからだ。
 澄んだ高音が空を裂く。同時に世界が戻ってきて、アルトは咳き込み体をよじった。差し向けられた凶器を避ける為、ジェメンドの男が手を放したのだ。
「おまえ、何故……!」
 声が驚きと怒りに震えている。男の腕と肩口には、鋭利な刃物で斬りつけられた傷が幾重にも出来ていた。地面に突き刺さった、いくつかの飛礫が掠った傷だ。
「なにもリッソが得意なのは、あんた達だけじゃないんだよ? まあ、あんたの飛び道具下手な部下達に関しては、扱えていると言って良いものかさえ躊躇われるけど」
 飛礫――リッソで攻撃を仕掛けた当事者が、そう言ってにこりと微笑んだ。それから困ったように表情を崩して、アルトの方へと視線を向ける。しかしそのまま何も言おうとしないのを見て、アルトは荒い息をつきながら顔を上げ、まずは短く毒づいた。
「ぎりぎりだ。死ぬかと思った」
「それだけ言えれば、安心だね。僕だって大変だったんだよ? 上はもう、ジェメンドやらサンバール殿下の私兵やらで大乱闘なんだから」
 ジェメンドの男のことなどまるで眼中にないかのように、彼はアルトに歩み寄る。「立てる?」と手を差し伸べたのは、他でもない、シロフォノだ。
 その問いに、アルトは浅く頷いた。右足はまだ疼いたし、蹴られた腹もずきずきと痛んだが、こんな所にいつまでも座り込んでいるわけにはいかないだろう。差し出された手を取り、立ち上がりながら、アルトはこう問いかけた。
「少年近衛兵だっていうのは、でたらめだったのか?」
「そうでもないよ。半年前にこの国の貴族の家へ養子入りして、表向きは正式に入隊したからね。だけど、改めて自己紹介するなら――」
 きぃん、と金属のぶつかり合う音。ジェメンドの男が向けた剣を、新たに上から飛び降りてきた人間が、妙な長さの剣で防いだのだ。剣、というよりただ『刃』と表現した方が正しいかも知れない。その刃物に鍔はなく、研がれた刀身そのものを握っているようにすら見える。
「クロトゥラ!」
 両手にそれぞれ刃を持った、見知った顔がにやりと笑う。アルトに笑いかけたというよりも、シロフォノに向かってしたようだ。証拠にシロフォノは虚を突かれたという表情で一度口を閉ざし、苦笑して、アルトにこんな事を言った。
「クロちゃんの方がずっと早くから、アルトの信頼を理解してたみたいだね」
 言われてアルトは微笑んだ。あの時の言葉は、ちゃんと届いていたようだ。
 ――『信じる』
 迷いを含んだシロフォノの呼び声に、アルトは声なくそう応えた。信じる。正体がなんなのかなんて構わない。ただ信じる。お前は、絶対に友を裏切らない。
 アルト達を背にして、クロトゥラが一気に地を蹴った。ジェメンドの男のところへまっすぐ挑みかかり、片手の刃をくるりと回す。その一動作で悠々と相手のリッソを弾き返し、すぐさま次の攻撃を繰り出していった。その体裁きが『少年近衛兵』の肩書きを名乗っていた時と全く違っていることは、アルトの目にも明らかだ。
「ネロ」
 シロフォノが唐突に呟いたので、アルトは些か首を傾げた。すると彼は人の悪い笑みを浮かべて、「シロフォノ、はただの表名だから」と続ける。
「オモテナ……?」
「そう。僕の故郷では、双子には二人で一つの名前をつけるんだ。それが真名の『ネロ』。でもそれだけだと紛らわしいから、シロフォノ、クロトゥラ、みたいな表名もつけるのさ。――騎士の契約を結ぶのに、主が自分の騎士の本当の名前も知らないんじゃ、都合が悪いと思ってね」

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