吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

047 : Make the way -1-

 心の内に、旋律が、響く。
――森よ、森よ、彼の森よ。つとして眠るその幼子の、小さな体を支えておくれ。
 聞き覚えのあるメロディに、アルトはそっと目を細めた。
 ああ、彼らが歌っている。
 耳を澄まさなくては聞こえないような、密やかな声。けれどそれは雨の中、確実にアルトの元へと届いている。
(『風化した物語』……)
 ふと、思い出す。聖地ウラガーノで夕日と出会ったあの時も、脳裏にはこのメロディが鳴り響いていた。そうしてそれが、アルトを炎に呑まれるマラキア宮へと導いたのだ。
 ジェメンドの男が薄く笑い、対峙していたクロトゥラから距離を取ると、がくりと地面に膝をついた。引きつるような息づかいと共に、肩を上下させている。虚勢を張ってはいても、やはりダメージは大きいようだ。握りしめていた刃が、音を立てて地面に落ちた。
 その服の袖からちらりと、あの熱湯にあっても光沢を失わない、金の輝きが覗いている。
 アルトが一歩踏み出すと、シロフォノが手で、それを制した。ジェメンドの男が片頬に笑みを浮かべている。こんな状況だというのに、まだ、戦意を失ってはいないのだ。辺りを取り巻く他のジェメンドも、それぞれに武器を構え直している。実際数の上では、今でもジェメンド達の方が勝っていた。
(勝利を危ぶむ理由はない、ってことか)
 それにしても、彼自身が大怪我を負っていることには変わりないのだ。その上でこれだけの余裕を保っているのには、何か根拠があるのだろうか。
 そう考えると、得体の知れない恐怖が湧いた。しかし、ここで圧し負けてはいられない。
 心の中で息をついて、アルトはシロフォノに目配せをする。「手をどけて」と短く言うと、ジェメンドの男へ歩み寄ってみせた。
――月よ、月よ、彼の月よ。
 苔むした地面に散らばった砂利が、靴に踏まれて小さく鳴る。
「お前達にとって、そのペンダントにどんな価値があるのかは知らないが」
 負傷した腹も、足も、疼いていた。しかし不思議と歩みはしっかりして、男の側へ寄るのに何の不都合も感じない。どくん、どくんと脈打つ音が、大地の鼓動に同調している。むしろその疼きこそが、アルトを支えているようにさえ思えた。
――独り旅立つその旅人の、孤独な道を照らしておくれ。
 歌が続いているのを聞いて、苦笑する。
(今度は、どこへ誘うつもりだ?)
 立ち止まると、ジェメンドの男がちらりとアルトを睨めあげた。その表情に敗北の色は浮かんでいない。
「ペンダントを返せ」
「そういうわけには、いきませんね。私はあなたが、あの女と瓜二つのその顔が苦しむのを、もっと愉しむつもりでいますから」
 男の声は案外はっきりとしていたが、張り付いた皮膚は確かに、痛々しげな様を呈している。
 雨脚が強くなる。しかしそこには静寂があった。
「そうだ、教えてあげましょう」
 ゆらり、と、男が静かに首を回す。アルトは思わず身構えたが、どうやら攻撃を仕掛けてくるつもりではないらしい。アルトは男の視線を追って、その先へ佇むデュオに行き当たった。デュオの側もジェメンドの男と目があったようで、不審そうに顔をしかめている。
「これはこれは、城主様。こんな所でお目にかかるとは、奇遇ですね」
「なんだと?」
 男は敵意のない事を主張するように両手を自らの前に掲げ、ふらりと立ち上がってみせた。ゾーラとマルカートが得物を持って牽制したが、それすら、歯牙にもかける様子はない。
「お忘れですか。……無理もない。あの頃の私は、少しばかり剣が得意なだけの一兵士であったから。しかし私の記憶が正しければ、確か私に刃を向け、解任すると宣ったのはあなた自身であったかと」
 言って男が顔を上げ、デュオに向かってにやりと、口の端を持ち上げた。雨がその体中に降り注いだが、火傷を庇う様子もない。
「突然、訳のわからないことを――。命乞いのつもりなのか?」
 アルトが剣を向け、脅すような口ぶりで言った。
 ジェメンドの男は怯まない。それどころか緩慢な仕草で自らのマスクに手をかけて、唐突に、火傷で張り付いた布をめくってみせる。
 そこには焼けただれた肌の上にもしっかりと見て取れる、横一文字の大きな刀傷があった。
 デュオが小さく息を呑む。それから強く男を見据えて、唸るようにこう言った。
「まさか……バラム城にいた、第三隊のオスティナートか!」
 オスティナートと呼ばれた男の瞳が、一瞬ぎらりと憎悪に歪む。同時に背後からくぐもった呻き声が聞こえてきて、アルトは咄嗟に振り返った。これまで遠巻きに様子を窺っていたジェメンドの人間達が、事態について行けずに狼狽えていたサンバールの私兵達を突き殺したのだ。
 恐れ、おののく高い声。複数の体が力を失い倒れると、水溜まりが品のない音を立てた。山小屋で惨殺されていた、兵士のことを思い出す。おそらくあれも、先回りしていたジェメンドの仕業だったのだろう。
「考えてみれば確かに、こうしてまみえることは予想をして然るべきでした。あなたがあの女の忘れ形見を、放っておく筈ありませんからね」
「何を、どこまで知っている」
 威嚇するようなデュオの声。それを見るとオスティナートはさも嬉しそうに表情をゆがめ、焼けただれた手で金のペンダントを摘んで見せる。その視線がちらりと、アルトに目配せをしていた。「そうだ、教えてあげましょう」先程言われたその言葉が、声なき声で伝わってくるかのようだ。
「それ程多くは知りませんよ。ただ、今し方知った事が一つあります。それは――」
 オスティナートの足が動き、再び手負いとは思えぬ力強さで地面を蹴った。しかし、流石に先程までのような身軽さはない。「遅い!」とマルカートが一言発し、即座に武器を絡め取る。同時にゾーラが体当たりに近い猛攻をかけ、オスティナートは地に膝をついた。
 だが彼の方とて、一方的にやられるばかりとはいかないらしい。さっと手で合図をすると、他のジェメンドもまた動き出す。アルトは剣を構えてなんとか相手の攻撃を受け流し、そして、それを、耳にした。
「デュオ・ヴァローレ・ダ・リ・ソーリヌイ。あなたは始めから知っていたのでしょう? 故モノディア妃――あなたがまんまと皇王に奪われたあの女の肖像画は、マラキア宮に二つあったのだということを!」
 強まった雨脚が、アルトの頬を強く打つ。
 言葉に驚き、振り返ると、オスティナートと目があった。高らかに言葉を発したその男は、瞳に明らかな侮蔑の色をちらつかせ、アルトの事を凝視している。
 背筋がすっと、凍り付く。
 男が嬉しそうに、そして自らの言葉を慈しむようにそっと、薄い唇を開いてみせた。
「ご存じでしたか? 殿下。あなたの母君はバラムの元城主と愛し合っていながら、その命を皇王へ売ったのです」
「――知った風な事を!」
 言い終えるのを待たず、ゾーラが怒りにまかせて剣を振り上げる。しかしその感情的な一撃は、軸がぶれて即座にはじきかえされた。
(今、なんて……?)
 言葉を脳裏で反芻して、アルトは一歩、後退る。
「アルト」
 デュオに呼ばれた。けれど顔を、上げられない。ぱしゃり、と足元で水音がする。どうやら水溜まりを踏んだらしかった。
 そこに映った自分の顔が、一瞬、母のそれと重なって見える。
 
 『たった一つ残った、嫁さんの形見さ』アルトがあのペンダントを受け取った時、デュオが確か、そう言った。
「デュオが結婚してたなんて、知らなかった」
「言わなかったからな。――息子もいたんだ」
 あの時デュオは笑っていた。それは、
「今はもう、いないけどな」
 何かを諦め、思い詰め、そしてそれらを押し殺す、そんな笑顔だった。
 
 ペンダントの中にどんな絵が入っているのか、アルトは既に知っていた。滲んだインク。モノクロで描かれた、若い女性の肖像画。
――大丈夫よ。私はね、あなたの為なら勝利の女神にだってなれるもの。
 いつかぼんやりとした夢の中で聞いた言葉が、ふと、アルトの脳裏を過ぎる。あれが往年の、アルトが生まれるより以前の、モノディア妃だったというのなら。
「アルト!」
 再び、デュオの声。目の前で金属音がして、アルトははっと視線を上げた。デュオが剣を振り下ろし、今まさにアルトへ刃を突き立てようとしていた人間を叩き伏せている。アルトはそれでもぼんやりとしたまま奥歯を噛んで、ただ一言、こう問うた。
「さっきの話、本当なのか」
 間をおかず、「ああ」と短く答えがある。
 剣戟の音が、耳障りな響きを伴い脳裏にこだました。
「あのペンダント、『嫁さんの形見』って言ったよな」
「言った。俺が預かったときにはロケットに何も入っていなかったから、後から、昔画家に描かせてあった本人の肖像画を入れた」
 押し殺すような、低い声。デュオの剣が風を薙ぐ。ジェメンドの一人が攻撃を大きく回避して、同時にリッソを投げつけてきた。アルトはデュオに押しのけられるようにそれを避け、しかし自分の身に起こったことなど気にとめる様子もなく、言葉を続ける。
「命を売った、って、どういう事なんだ? 俺、夢の中で見たんだ。あのペンダントの持ち主とデュオが、幸せそうにしているところ……。あの女の人はいつも活き活きとして、快活で、だけど俺の知ってる母上はそんなじゃなかった。儚げで、最期は、自分で」
「アルト、落ち着け」
「俺は十分、落ち着いてる!」
――残念ね。皆さん私のような『じゃじゃ馬』が、あなたのお守にはぴったりだっておっしゃっていたわ。
――もう! バラムの城主様は、レディーの扱いがなっていないようね。聞いてるの、デュオ!
 あの人の挑戦的な相貌には、いつだって幸せそうな笑みが浮かんでいた。
 そう言おうとして、アルトは拳を握りしめる。言えなかった。代わりに口から漏れたのは、自分でも思いも寄らないような情けない声だった。
「あの人が母上だったなら、……母上は! ――俺の前では一度だって、あんな風に笑ってはくれなかったのに!」
 優しく控えめに笑う女性だった。静かに芯を強く持ち、アルトを優しく窘める。記憶の中での母親は、いつだってそんなふうだった。ならばあの陽気さは、弾むような笑い声は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。
 何かずしりとしたものが、アルトの心の内へ落ちる。
 あのふわふわした夢の中で、面影を少しも感じていなかったわけではない。ある程度予想は付いていた。しかし。
「――来い」
 デュオに腕を引かれるまま、アルトは雨の中を走っていった。背後でオスティナートの笑い声が聞こえたように思う。より激しくなった剣戟は、少しばかり遠のいていく。そうして遂に立ち止まると、デュオにがっしと、肩を掴まれた。
 雨に濡れてもなお熱っぽい、ごつごつとした大きな手。直前まで敵と戦っていたのだから、熱を帯びているのも当然だろう。今だって本当は、ゆっくり話している暇などないはずだ。アルトもそれは承知していた。それでも心が、おさまらない。
 促されて、深呼吸する。「落ち着いたか」と問われたが、舌が空回りして言葉が出てこなかった。
 得体の知れない悔しさが、アルトの脳裏を巡っていた。
 何に対して悔しいのだろう。心に問いかけても答えはない。アルトがやっとの事で「ごめん」と告げると、肩を掴んだデュオの手に、また少し力がこもった。
「……。心を落ち着けていないと、精霊ってのが逃げちまう。さっきのあの熱湯は、そいつの力を借りて見つけたんだろう?」
 押し殺したような声で言われて、アルトははっと顔を上げた。しかしその物問いたげな表情を見て、デュオは首を横に振る。アルトの問いにはデュオも答えようがないのだと、その仕草が語っていた。
「俺も、その事に関して詳しくは何も知らねえんだ。ただ、昔モノディアがそんなことを言っていた。心静かに耳を傾ければ、精霊達は何でも教えてくれるんだ、って」
 聞きながらアルトは顔を伏せ、もう一度だけ深呼吸する。血と雨の香りがないまぜになっているせいで、すっきり気持ちを切り替えるというわけにはいかなかったが、しないよりは幾分ましだ。
「母上も、彼らの声を聞けたのか」
 呟くと、デュオは「ああ」と頷いた。それから続けてこう話す。
「始めは占い師のやるまじないのようなもんだと思っていたんだが、あいつはたまに、それじゃあ説明のつかないことを知っていた。近い未来のことを言い当てたりな。だからお前がマラキアの火事を予見したと言って戻ってきた時、きっと、おまえも同じように精霊の声を聞いたんだろうとすぐに思い当たった。――実際、そうなんだろう?」
 尋ねられ、今度はアルトが頷いた。頷いたと言っても端から見れば、恐る恐る首を震わせた程度の動きだったに違いない。それでもデュオは「そうか」と言って、アルトの肩を掴んでいた手から、そっと、力を抜いた。
「ジェメンドの奴らを一々相手にしてたんじゃ、いつまで経っても埒があかない。もし全員倒せたとしても、ここを這い出て道を探すのは一苦労だ。――アルト、さっき掘りかけのトンネルの話をしただろう。もしかしたらその跡が、この辺りにまだ残っているかも知れない。お前の力で、探せるか?」
 言われてアルトは戸惑ったが、それでも小さく頷いた。耳を澄ませてみればまだ、あの旋律が聞こえている。
 アルトを誘うそのメロディは、いまだ絶えてはいなかった。
「その間に、俺はペンダントを取り返す。あれは多分、お前のために必要な物なんだ」

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