吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

044 : Blood and Rain -1-

 段々と日が翳り、厚みを増した雲が空を覆っていく。空気も幾分湿ってきた。
「これは、そろそろ来るな」
 誰とも無しに声がする。と、見計らったかのような雨粒が、アルトの鼻先をぽつりと打った。
 歓迎しがたい雨である。一行は既にカランド山脈の峠を越えていた。ただでさえ不安定な下りの山道に、更に雨まで降ったとなれば、いつ足元をすくわれるともわからない。それ程の急勾配ではないにしろ、姿の見えない追っ手にも気を配らねばならないこの現状で、足場に注意を裂かれるのは死活問題であった。
「待て、止まれ」
 先頭を歩くデュオの声。山へ入る前に馬は売ってしまっていたから、もう長いこと歩き通しである。歩みを止めると両の足がじんとして、地面へ吸い付くかのようだった。気を紛らわせようとマントを整え、フードを深く被ったが、大して効果があったようには思えない。
「参ったな。ありゃ、どういうこった」
 デュオがやれやれと溜息をつき、進行方向を指さしてみせた。アルトもそちらへ目をやって、思わず顔をしかめる。
「――煙?」
 先の空に一筋の煙が立ち上っている。誰かが火を起こしている印だろう。地図を取り出したクロトゥラが、唸るようにこう応じた。
「多分、山小屋だな。道なりに一軒、そろそろまたあるはずだ」
「追っ手、か? 狼煙か何かの可能性は?」
「風の向きからして、あの煙はただ上っているだけだ。可能性は低いだろうな」
 アルトの問いに、デュオが返す。もしやこの山にいることが既に知られており、それを誰かに知らせる煙だろうかと考えての疑問だったのだが、どうやら杞憂だったようだ。
 しかしだからといって、安心するわけにはいかなかった。火元が道なりにある山小屋だというのなら、これから通る場所に誰か人がいることになる。かといって道を逸れようとすれば、顎の高さまで草が生い茂った中を歩くより他にない。
 結論として一行は、避けようもなく山小屋への道を辿ることとなった。
 息を潜め、しかし急ぎ足に。間もなく山小屋が見えてきて、同時に、アルトは左手で自らの鼻を覆った。山小屋の周辺に、耐え難い異臭が漂っていたのだ。
 錆びた鉄のような、つんとした刺激のある臭い。覚えがあった。
「――血の、臭い?」
 マラキア宮の礼拝室でのことが、瞬間アルトの脳裏に過ぎる。あの時のようなむせ返る炎はないが、間違いない。
 山小屋へ近づくにつれて、血の臭いは濃さを増した。誰かの動く気配はない。一同は小屋の前で立ち止まり、そっと耳をそばだてたが、かさりとも音はしなかった。
 互いに一度目配せして、マルカートが入り口の脇へ控えた。片手に剣を携え、勢い込んで扉を蹴破る。
 中の様子に、誰もが意図せず瞠目した。
 糸のように細い雨が、音もなく地に落ちてくる。それが小屋の中へと吹き込んで、赤の中へじわりと滲んだ。
 開け放たれた扉からは、今まで以上の異臭がする。覗き込めば質素な山小屋に、不釣り合いな赤黒い絨毯が広がっているように見えた。白目を剥いて崩れ落ちている、人間の血液で染め上げられた絨毯だ。
 小屋に倒れているのは六人。全員が、アルトには見慣れない制服を着込んでいる。まずはマルカートが乗り込んで、既に皆、事切れていると知らせた。
「何か鋭利な刃物で斬りつけられているな。全員武器を手にしてはいるが、そのわりには室内が荒れていない」
「戦う前に殺られたか。ここで、一体何が起こったってんだ」
 デュオが苦い表情のまま肩をすくめ、ひょいと小屋へ入っていった。その際視界へ入ったものにぎくりとして、アルトは思わず目を背ける。血まみれになった頭部へ埋め込まれている眼球と、一瞬、目があったように感じたのだ。
 「見たことのある制服だ」と隣でシロフォノが呟いた。
「濃紺の詰め襟に臙脂の肩章――。第一王子サンバール殿下の、私兵隊の制服だよ」
「兄上の……?」
 腹の内をざわつかせる吐き気をこらえながら、問い返す。何が何だかわからなかった。彼らがサンバールの私兵だというのなら、何故ここにいるのか、彼らを襲ったのが何者なのか、見当が付かないのだ。
――カランド山脈の化け物のこと、聞いたことある?
 昼間のやりとりが思い出されて、濡れそぼった肌にふと、鳥肌が立つ。
 制服の男達を確かめようとしてもう一度視線を戻すと、何気ない仕草でクロトゥラが視界を遮った。敢えてそうしてくれたのだろう。冷静に状況を見聞している仲間を思えば、この程度で胸焼けする我が身を焦れったくも感じるが、内心ほっとしたのも確かだった。アルトは心の中で礼を言って、視線を伏せる。
 その時だ。
 ゾーラがはっと振り返り、アルトの腕を強く引いた。同時にデュオが剣を抜く。
 直後にアルトも気がついた。一行が通ってきたのとは反対の方向から、複数の足音が聞こえてきたのだ。
「おい、何だ? この臭いは……」
 草むらの向こうで、怪訝そうな声がそう告げる。途端に足音の歩みが速くなったのを聞き、アルトは半ば押し込まれるようにして小屋の裏手へ身を隠した。しかし後からついてくるものと思っていたデュオも、マルカートも、二人の近衛も小屋の表を離れようとしない。
 アルトが声をかけようとすると、隣に控えたゾーラに強く窘められた。
「静かに! あなたが出て行ったら、余計にややこしいことになるでしょう」
「誰が見つかったって、そうなるだろ!」
「全員で隠れるだけの場所が、どこにありますか」
 強い口調でまずそう言って、「彼らには、聞き出してもらわねばならぬ事もありますからね」と低く付け足す。囁くような言葉の中に、十分すぎる迫力があった。アルトが思わず口をつぐむと、同時に表からは問答が聞こえてくる。
「おまえ達、そこで何をやっている!」
 いきり立った兵士の声。こんな所に隠れて聞くのは歯がゆいが、恐らく相手はこの小屋で息絶えていた者達の仲間、サンバールの私兵だろう。そう、つい先日までは第一王位継承者であったサンバールの私兵なのだ。ならば彼らに姿を見られることが、どれ程危険なことであるかは悔しいながらも納得できた。
「その小屋……まさか、おまえ達!」
「待てよ、誤解だ。俺達は今着いたところで――」
 悠長な様子で返す、デュオの声。しかし直後に手配書がどうとか言う声がする。恐らくは、デュオとマルカートの素性がばれたのだろう。
「ちょうど良い。主の命にて、国家にたてつく反逆者を成敗せんとしていたところだ! 我らが同胞の敵、討たせてもらう!」
 大音声で宣言し、直後に地を蹴る音がする。足音から察するに、相手はそれほど多くない。十人、いや、それより少ないかもしれない。
 錚々とした剣戟の音。しかし長くは続かなかった。足音が一つ減り、二つ減り、大きくはじき飛ばされた剣が山小屋の脇へ転がると、からからと高らかに笑う声がする。
「俺もまだまだ、衰えちゃあいねえな! さあて、知ってることを洗いざらい吐いてもらおうか」
「デュオ殿、台詞が悪役じみてるんだけど」
「どうせ謀反人扱いなら、いっそその方が似合うだろう?」
 上機嫌で笑うその声は、クロトゥラのぼやきなど歯牙にもかける様子がない。アルトが小屋の裏から顔を覗かせると、濃紺の詰め襟を着た男達が地面に突っ伏し、あるいは山小屋にもたれかかるようにして倒れていた。仰向けになった男へ恐る恐る近寄れば、その胸が上下しているのを見て取れる。どうやら、昏倒しているだけのようだ。
 デュオは少し離れたところで、俯せに倒れた兵士の背中に座り込んでいた。察するに、逃げだそうとしていたのをとっ捕まえたのだろう。彼は偉ぶって足を組み、突っ伏した兵士にこう尋ねる。
「サンバール殿下の私兵だな? どうして、こんなところをうろついてんだ」
 文字通り尻に敷かれた兵士が、無言で首を横に振る。答えられない、ということだろう。しかしそうして抵抗してみせた彼も、「へえ」とどうでも良さそうな相の手を挟んだデュオに胸部を圧迫されて、小さく呻き声を漏らす。すると見計らったかのように、マルカートが剣の鍔を鳴らしてみせた。
「喉がつぶれて話せない、というわけではなさそうだな」
 無感情なマルカートの声は、時と場所とで必要以上の効力を発揮する。兵士の体が一旦びくついて、その後で震える声が、早口にこんな事を言った。
「さ、サンバール殿下のご命令で、お前達を探していたんだ! 第三王子の即位式の前に、少しでも御武勲をと、そ、それで――!」
「成る程。お尋ね者をとっつかまえて、ジルウェット陛下への点数稼ぎをしようってわけか。よくわかった。ありがとよ」
 デュオが人の良い笑顔を浮かべながらそう言って、兵士の頭を一発殴りつける。それで相手が伸びたのを確認すると、「じゃあ、行こうか」と平然と言ってみせた。
「――悪役だ」
「堂に入ってるよね」
 アルトの呟きに、いっそ清々しいほどの笑顔を浮かべてシロフォノが応じる。そこへとどめを刺すかのようにゾーラが、「あのように脆弱な者達を私兵とされているようでは、サンバール殿下の御身が危ぶまれますね」と言い捨てた。
 しかし結局山小屋の兵士達を殺したのが誰なのかは、わからず終いのままである。それを知るためにも調べたいことはまだあったが、そこへまた、どこからか足音が聞こえてきた。サンバールの私兵はここに倒れている者だけで十八人。恐らくはまだ、いくらか残党がいるのだろう。その全てを相手にしていられるはずもなく、アルト達は無言のまま頷きあうと、即座に小屋を後にした。
「この山には昔、トンネルを掘る計画があったはずだ。スクートゥム側から掘り進めていたから、多分そろそろ、その頃に使われていた山道が見えてくるはずなんだが……」
 相変わらずの獣道を、急ぎ足に駆けていく。マントは既に濡れそぼり、ブーツには泥水がはねていた。頭からフードをかぶっているものの、湿った髪は肌へ張り付く。
「そのトンネル」
 息を弾ませながら、アルトが言った。
「今はもう、掘ってないんだろう? どうして開通しないままになってるんだ」
 問われて、デュオが瞬きする。首を傾げてしばし悩む素振りを見せ、それからゾーラへ視線で流した。彼女は呆れたように苦笑して、代わりにこう応じる。
「確か、事故があったと聞きました。トンネル内で火災が起きて、かなりの人数が亡くなったようです。殿下がお生まれになるより先でしたから、もう十五年は前のことですが」
「トンネルで、火事……? 一体何に引火したら、そんな大火災になるんだ」
「さあ、そこまでは」
 道が段々と細くなってきた。半ば草木に覆われた所を分け入って、アルトは思わず息を呑む。
 唐突に道が、途切れていた。
 土砂崩れでもあったのだろう。足場は崖と言うほどではないにしろ、切り崩されて深い溝を作っている。崩れたのが最近のことではなかったのか、地盤がそれ程緩んでいないことだけは不幸中の幸いと言えるものの、弱り目に祟り目もいいところである。
 上下を見渡し、道を探る。茂みに邪魔されてよくは見えないが、斜面を登って安全な道を探し当てるか、逆にこの溝へ降りてしまうか、執るべき手段は二つに一つだ。
「多分、どこかに新しく造られた道があったんだろうけど……。どうも、古い地図を掴まされたみたいだな」
 悔しそうにそう言って、クロトゥラが地図を握りしめる。アルトも、溝を覗き込んで臍を噛んだ。
 しかたがない。溝に沿って斜面を登り、土砂崩れの起こった場所よりも更に上を通ろう。そう提案しようとして、アルトが振り返った、その瞬間。
「いたぞ、囲め――!」
 生い茂った草むらから、唐突に複数の人影が現れた。濃紺の詰め襟を着た兵士が、およそ三十人。アルトはフードを深くかぶり直すと、腰から剣を引き抜いた。
「相手は皇王陛下に仇なす反逆者だ! 生死は問わん、一人残らず捕まえろ!」
「――ったく、邪魔しやがって」
 姿を見せていない弓兵が、更に潜んでいることに気づいたのだろう。デュオが舌打ちするのを聞いた。
 地を蹴り、相手の剣を受けとめる。その重みからも、相手は本当に自分達を殺すつもりで来ているのだ、という事が嫌というほど実感できた。王都軍さえ手を伸ばさなかったカランド山脈にまで、サンバールは兵を布いた。裏を返せば、それ程貪欲に功名を立てたがっているということなのだろう。
(父上に取り入って、王位継承権を取り戻すためか)
 相手の剣を鍔元で受け、捻って腕を絡め取る。腹に蹴りを入れて相手を引き離すと、アルトは仲間を振り返った。しかしその目の前を、矢が疾く過ぎていく。すんでの所でそれをかわしたが、今度は背後から肩を掴まれた。
「捕まえた」
 荒い息を吐きながら、聞き慣れない声がそう告げる。
 鋭い刃が、空気を切る音。アルトは身をよじってそれを逃れたが、掴まれたマントがずれ、被ったフードが肩に落ちた。
「アルト!」
 シロフォノの声が短く叫ぶ。同時にアルトと目のあった兵士が、ぽかんと口を開いたのがわかった。
「まさかおまえ――いや、貴殿は」
 慌ててフードを被り直し、男の言葉を遮ろうと突進する。しかし、間に合わない。
「殿下が……アーエール殿下が紛れているぞ!」
 男の眼が爛々と輝いている。アルトには男の考えていることが、まるで手に取るようだった。――サンバールを王として戴きたいのなら、点数稼ぎなどをするよりもずっと手っ取り早い方法が、今、ここにあるではないか。その瞳が如実に事を語っている。
「連れは全員ここで始末しろ、必ずだ! 殿下には捕虜となっていただく!」
「――させるか!」
 間に割り込んできたクロトゥラが男に剣を突きつけたが、その背後で、草むらに潜んでいた弓兵までもが顔を出した。多勢に無勢だ。二十人程の兵士に取り囲まれて、アルトはあっという間に溝近くまで追い込まれてしまっていた。
 舌打ちする。意識してのことではなかったが、ふと、どこかでナファンが顔をしかめたように思えて苦笑した。「舌打ちなんて、行儀の悪い。一体誰の真似ですか」と、今にも小言が聞こえてきそうだ。マラキアにいた頃はふざけて素直に「デュオの真似」と答えていたが、そういえば、その後必ずナファンの姿が見えなくなった。今になって思えば、アルトがああいうことを言う度にデュオがお叱りを食っていたのだろう。
 この状況下で、そんなことを思い出す自分が不思議だった。だが目の前で起こったことの不思議さに、直前まで脳裏を渦巻いていたそれは簡単にかき消えてしまう。
「隊長!」
 叫ぶような、兵士の声。見ればたった今まで兵士たちに指示を下していた男が、ふらりと力無く倒れこむところだった。兵の一人が慌て駆け寄ったが、彼もまた、その場へぐらりと崩れ落ちる。
 鮮血がほとばしった。
 二人が音もなく、誰かに切り伏せられたのだとわかる。しかし辺りを見回しても、アルトの仲間は皆視界の中にいた。なら、一体誰が。
――カランド山脈の化け物のこと、聞いたことある?
(違う)
 確信があった。化け物ではない。
 相手は化け物じみた、――人間だ。
「殿下がここにいると知られてしまったのなら……こいつらの皆殺しは決定事項だなぁ」
 人の輪の外に、一つ人影があった。アルトにとって既に見慣れたあの男である。
 シャリーアで遭遇したときと同じに口元から首までを黒いマスクですっかり覆ったいでたちで、兵士達を押しのけ近づいてくる。誰もそれに、抗わない。
「ジェメンド」
 呟く。すぐ目の前に対峙した相手は、にやりと笑って答えなかった。そうしてそのまま、アルトの肩を突き飛ばす。
 背後に待ちかまえた大地の溝へ向かって、ふわりと体が浮くのがわかった。
 支えを求めた腕が、虚しく空を握りしめる。

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