吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

043 : A lodge

「山歩きなら、マルカートの方が慣れているでしょう。私達はこの小屋で待機した方が、安全だと思うわ」
 「様子を見て来ようか?」と請け負ったシロフォノを山小屋へ引き留めたのは、ゾーラのその一声だった。
 カランド山脈を中腹まで登った、シャリーアの晩から四日目のことである。一行は今、水脈に程近い位置に建てられた、古びた山小屋に潜伏していた。
 屋根のある場所で休息を取るのは、実に三日ぶりのことである。
 ミーニャ村以来、一行は町や村へ立ち寄ることをやめていた。その理由の一つに、山へと向かうこの行程にあるのは未開拓の森か、あるいは広大な畑ばかりで、人里には滅多に出くわさなかった事がある。勿論畑のある場所には大なり小なり村落が存在するのだが、万が一王都軍に追いつかれた場合、そこではシャリーアの時のように大衆の中に紛れ込むことが出来ない。それで村へは物資を補給するためだけに小人数で立ち寄り、出来うる限り人目を避けて進んできたのだ。おかげでここまでは、ひとまず王都軍にもジェメンドにも遭遇せずに済んでいた。ただ首都スクートゥムへ向かうことだけを頭に置いて、進むことが出来たのである。
 しかし、どうやら様子が違ってきたようだと気づいたのは、今朝の事だ。
 相変わらず追っ手の姿はない。だがそれに加えて、山に獣の気配すらしなくなった。少なくとも昨晩までは、獣の足跡や狩りの痕跡をそこかしこに見つけることが出来ていたのに、それが、ぷつりと途絶えたのである。
 獣が寄りつこうとしない場所には、必ず何か理由がある。しかしその理由がわからない。それで、誰かが偵察しに行くべきだろうという話になったのだ。
 そういった事情があっての事であったから、ゾーラの主張は確かに正論ではあった。しかしその言葉の内には、山歩きの慣れ、不慣れへの配慮以外に、有無を言わせぬ強い力がある。
「じゃ、昼飯でも作って待ってるよ」
 シロフォノの答えを待たず、頓着しない様子でクロトゥラが言った。しかしアルトはその一方で、シロフォノが不満げに顔を伏せたのを、見逃さなかった。
 
 結局偵察には、マルカートとデュオが向かうことになった。
 山小屋の小さな暖炉に火が灯り、野菜を煮る穏やかな香りが室内を満たしていく。アルトは手にした剣に油を引きながら、すぐ前で黙々と武器の手入れをするゾーラへ視線をやった。
 そうしていると知らずのうちに、シャリーアでのマルカートとのやり取りを思い出す。
――随分変装が上手いようだが、同じ頃に軍が町へ進入してきた事、全くの無関係だと弁明できるか。
――あなたがたが思っているよりずっと強く、僕達も、この旅を成功させたいと思っていますよ。
 あの一件以来マルカートを筆頭に、デュオやゾーラまでもがなんだかんだと理由をつけて、シロフォノ達二人に単独行動をさせなくなった。それまでは彼らが進んで雑用を引き受けていただけに、どうにも、ぎくしゃくとした空気がまとわりついて離れない。
 シロフォノの方を見てみると、彼は山中のあてにならない地図を眺めながら、何やら考え込んでいるようだった。先程まではクロトゥラに料理の手伝いをさせられていたはずだが、いつの間にやら逃げおおせたらしい。
 しかしそのうち地図すら放り出して、シロフォノがひょいとアルトを振り返った。目が合うと、相手はそれを予期していたかのように悪戯っぽく笑う。心を読まれたかのようなその行動に、アルトは思わずぎくりとした。
「薪、割ってくるね」
 唐突に、シロフォノが言った。
 「薪?」と素直に聞き返す。アルトが首を傾げる横で、シロフォノは既に身支度を整えていた。そうして小屋の隅に立て掛けてあった斧を手にとると、もう一度言う。
「そう、薪割り。山小屋の薪を使ったら、次の利用者のために割って乾かしておくこと。公共の場所は、そういう決まりがあるんだよ」
 そう言って、さっさと小屋を出て行ってしまう。アルトは取り残されたまましばらく扉を眺めていたが、「殿下」と声をかけられてはっとした。慌てて振り返ると、ゾーラが自らの剣の手入れを終え、それに鞘をかぶせている。
「刃を手にしたまま、注意をおろそかにするのは感心しませんよ」
 強く咎める口調ではないが、まっすぐな言葉は耳に刺さる。アルトが剣の手入れに使う油布を持ち直すと、彼女は続けてこう言った。
「これは凶器ですからね。敵を前にしているわけではなくとも、武器を手に取るからには、それなりの心持ちでいなくてはなりません。刃はそれを扱う者によって、すっかり姿を変えるのですから」
「……ごめん、不注意だった」
 謝ると、彼女は応えるようににこりと笑う。しかしそれ以上には何も言おうとしないのを見て、アルトはふと、手を止めた。油を引いた白刃が、暖炉の炎をちらちらと映し出している。
 そこに映った自分自身の目と、目があった。
「スープ、もうすぐ出来るぞ」
「もう? じゃあ俺、シロフォノに伝えてくる」
「いいよ。どうせデュオ殿達もまだだし、放っておいても適当なところで帰ってくるさ」
 クロトゥラの言葉を聞き流し、剣を鞘へしまいこむ。ちらりとゾーラを窺うと、彼女は満足そうに笑んだまま、皿の準備を始めていた。
「いってらっしゃい」
 壮年の女兵士は、にこりと笑ってそう言った。
 
 昼間の日差しは、随分と強くなっていた。マラキアを発った頃にはまだ春らしい穏やかな暖かさであったのに、今日のそれは早くも夏の訪れを予感させている。山小屋は深く生い茂った木々の間に建てられていたが、それでも、木漏れ日から焦れるような熱を感じた。
 そんな中、風がふわりと頬を撫でる。
――俺は、風の精霊に好かれてるんだってさ。
 精霊。聞き慣れない言葉だが、どうにも耳にしっくりとくる。舞うように過ぎっていく風を、暖かな陽の光を、土の香りを感じながら、アルトはふと、足を止めた。
 もしかすると、これが精霊というものなのだろうか。そんなことを思ったのだ。
(精霊なんて、神話の中だけの生き物だと思っていたけど)
 姿無き声。度々アルトを導いた者。彼らを精霊――占い師が言うところの、『大地の意志』と呼ぶのであれば、なるほど確かに納得がいく。
 かこんと音を立てて、薪の割れる音がした。アルトは音を追って、山小屋の裏へと回り込む。それからしばし考えて、「スープ、もう出来るって」と声をかけた。
「ほんと? 丁度いいや。お腹ぺこぺこだったんだ」
 シロフォノが振り返ったのを見て、アルトはうん、と頷いた。それからふと思いついて、「良いルート、あったか?」と尋ねてみる。
「ルート?」
「さっき、難しい顔しながら地図を見てただろ」
 するとシロフォノもようやく意味を理解したというように表情を和らげて、返す。
「ごめん。さっきは、地図を見ながら別のことを考えてたんだ」
「別のこと?」
「うん。……そういえば、アルトはカランド山脈の化け物のこと、聞いたことある?」
 思わぬ返答に、アルトはきょとんとしたまま首を横へ振った。シロフォノはいつものように笑うと、また斧を握り直す。
「毎年ヨンゴの月とブルの月には、山に化け物が出るって噂があるんだ。だから地元の狩人も、この時期はあまり山へ来ない」
 そう言いながら既に次の薪へ斧を突き立て、それを振り上げている。切り株の上でかこん、と、また小気味好い音をたてて薪が割れた。
「――今、まさにヨンゴの月なんだけど」
「うん。だから出ないと良いなと思って」
「脅かしてるつもりか」
「そうじゃないよ。ただ、昔ここを通った時には本当に出たんだ。……その時僕は、怖くて、怖くて、走って逃げた」
 かこん、と音がして、真っ二つに割れた薪が切り株から転がり落ちる。アルトが思わず口をつぐむと、シロフォノも手を止め、隣に佇むアルトを見た。
 茂る青葉闇の中、二人は無言のまま立ちつくしていた。
 シロフォノが笑んでいることは知れる。しかしその顔は木漏れ日と、それを遮る草木の影とで明暗に色分けされ、妙に病んで見えていた。
 静寂が、過ぎる。
 そうしているとシロフォノが、自然すぎると思えるほどに、いつもの調子で微笑んだ。
「って言っても、多分霧か何かを見違えただけだと思うんだけどね。ほら、僕も子供だったからさぁ」
 アルトは黙ったままでいた。静寂の中から聞き取るべき事が、そこには沢山あるように思えたからだ。しかしそれを、シロフォノの言葉が邪魔をする。
「化け物の噂だけは聞いてたから、その時は思わず信じ込んじゃったんだよね。――つい最近まで、怖がったことなんか忘れてたんだよ。でも地図を見てたら、急に思い出しちゃって」
 まだまだ子供って事かなぁ、と続けて笑う。アルトが無言でいると、また丸木に斧を突き立てた。
「前にも、来たことがあるんだな」
 アルトの言葉にシロフォノは、ただ「仕事で」とだけ答える。『仕事で』。一体何の仕事で、こんな所へ来たというのだろう。スクートゥムの少年近衛騎士隊には、この山へ登る演習でもあるというのだろうか。
 問いたい事はいくらもあった。だが問い詰めるために、小屋を出てきたわけではない。
 アルトは無言のままシロフォノに歩み寄り、たった今立てられた丸木を脇によけた。そうして代わりに、自分自身がどっかと座り込む。斧を握ったままのシロフォノの前――薪を割るための切り株の上へ、である。シロフォノが首を傾げて佇むのを横目に見ながら、アルトは尊大な態度で足を組んだ。
「アルト? ――そんな所にいたら、薪割りができないよ」
 頷く。そんなことは、はなから承知である。アルトは斧を掴んだままのシロフォノをじっと見上げて、平然と、言った。
「おまえが俺の敵だったなら、そのまま振り下ろす事もできる。その気さえあれば」
 風が止む。そよいでいた足元の草も、ぴたりとその動きを止めた。
 同時にシロフォノの笑顔が、波の満ち引きのように静かに消える。
「急に、一体何の話――」
「そうするつもりなら、今までいつでもできたんだ。でも、しなかっただろ? マルカート達もそれは十分わかってる。だから、一人でいじけるな」
「いじけてないよ」
「俺にはそう見えた」
「参ったな」
 シロフォノが困惑気味に眉根を寄せて、苦笑した。慌てて張り付けたかのような、取ってつけたような笑みだった。
 アルトの側に、相手を詰るつもりは少しもなかった。だが自然と緊張感が募っていく。シロフォノの表情は明らかに身構えていたし、アルト自身も、どう言葉を選ぶべきか大いに頭を悩ませていた。
「でも、本題はそれじゃないんだ」
 思い出したかのように、ふわりとひとひら青葉が舞った。それは狙いを定めていたかのようにシロフォノの頭上へ落ちたが、本人は気づいてすらいないようだ。髪に引っかかってゆらゆらと揺れる青葉を見ながら、アルトは構わず言葉を続けた。
「直属の騎士になってくれないか、俺の」
 そうして続いたその言葉に、シロフォノは今度こそ声を失ったように黙り込む。
「後で、クロトゥラにも頼んでみようと思ってる。首都のことは右も左もわからないけど、おまえ達がいてくれるなら頼もしい。力を貸して欲しいんだ。……俺は元々王族の中でも癪の種だし、勝手な行動を取って父上にも呆れられているかもしれない。だからこんな事を頼むの、図々しいんだけど」
「――カンシオン家じゃ弱小過ぎて、大した後ろ盾になれないよ」
 躊躇いがちに、シロフォノが言った。彼らしからぬ言いぐさにアルトは少し驚いたが、その場にあぐらをかいて、ただにこりと笑う。
「そんなのは要求しないよ。俺はただ、本音で話せる友達にいてほしいんだ」
 シロフォノは、すぐには答えなかった。どうやら本気で困惑している様子だったので、アルトもそれ以上に言い募ることはやめにする。今ここで、応えを急かす必要はない。既にアルトの意図は伝わっているだろう、と、そう思えた。
 シロフォノの頭から先程の青葉が落ちたのを見て、アルトは弾みをつけて立ち上がる。どかした丸木を元の位置に戻すと、視線で相手を促した。「続きをどうぞ」というつもりだったのだが、シロフォノはしばらく目を瞬かせて、ようやくそうと理解したようだ。
「突然、ごめん。でもスクートゥムへ着くまで、ちょっと考えてみてほしい」
 それだけ言って、その場は終わりにするつもりでいた。しかし去りかけたアルトを、今度はシロフォノが引き留める。笑みが薄らいだままの表情でアルトを見、一言、
「その話、どうして今したの?」
 はっきりとした口調でそうだけ言った。
 対してアルトは首だけで振り返り、こう返事をする。
「おまえ達は腕が立つから。他の誘いがくる前に、って思っただけさ」
 
 森の向こう側から聞こえた声に、アルトは山小屋の扉に手をかけたまま、顔を向けた。がさがさと茂みをかき分ける音の後に顔を覗かせたのは、釈然としない様子のデュオとマルカートだ。
「お帰り。様子はどうだった?」
 尋ねると、デュオが苦い顔で首を横に振る。
「相変わらず獣の姿は見えねえが、理由になりそうな要素も見当たらない。はやいところ山を越えるのが得策――って結論だ」
 「そうか」と溜息混じりに返事して、アルトは足元の草へ視線を向けた。シャリーアでも見た紫色の花が、身を縮こまらせ寄り添っている。
「「雨が、近い」」
 呟く声が重なって、互いに顔を見合わせる。驚いた様子でいるデュオを見て、アルトは薄く、苦笑した。
「その前に、進めるところまで進もう。スープが出来てる。飲んだらすぐに、出発だ」
「ああ、どうりで良い匂いがしてら。クロトゥラの奴、野営の食事作りに関しちゃプロ級だな」
「ちゃんとした調理場があれば、もっと色々作ってくれるよ」
 振り返ると、斧を担いだシロフォノが立っている。彼はいつものようににこりと笑い、「僕は味見専門だけど」と付け足した。

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